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巫女の恩返しは、揚げたてスパイスチキン

 夜明け前のひんやりとした空気を、東から差しはじめた薄紅の光が、少しずつほどいていた。離宮の回廊はまだ静かなのに、その静けさの底ではもう一日の支度が始まっている。食堂へ運ばれていく籠の擦れる音。磨かれた床へ落ちる、控えめな靴音。衛兵たちの交代が、息を潜めるように続いていく。


 その流れのただ中を、低い声が、すっと走った。


「そこはもっと間隔を保て。それでは非常時に反応が遅れるぞ」


 振り向かなくてもわかる。あの声だ。


 白みはじめた光の中で、ヴィル・ブルフォードの背は今日も揺るがない。ひと晩くらい眠らなくても平気だと言わんばかりに、離宮の隅々へ目を配り、足を止めず、立ち位置の甘い衛兵へは容赦なく声を落とす。誰かが彼を、冷静沈着だとか、疲れ知らずだとか評していたけれど、たぶん、それは半分だけ本当だ。


 ――だって、わたしは知っている。


 この人が、自分の休みを削ってまで、どれほどこちらへ気を配っているのかを。


 夜が深くなっても見回りは途切れず、朝になればもう持ち場へ立っている。そんな背を見つけるたび、ありがたい、のひと言では足りないものが胸の奥へたまっていく。やさしさが大きすぎると、うれしいのに、少しだけこわい。そんなふうに思ってしまうくらい、まっすぐだから。


 ふいに、馬の背の揺れといっしょに蘇る声がある。


『お前の料理を久しぶりに食べてみたい』


 何でもない調子だった。独り言みたいにこぼれた、ほんの短い一言。けれど、あの低い声だけが、昨夜からどうしても耳の奥を離れない。


 何か返したい、と、思う。


 ――あんなにしてもらってるのに、わたし……なにも。


 言葉だけではなくて、手に取れるもので。あの人の肩から、ほんの少しでも強張りが落ちるようなものを。


 廊下をひとりで歩きながら、わたしは小さく息を吐いた。


「何でもいいから、感謝を伝えたい。言葉だけじゃなくて、何か形のあるもので……」


 その途端、腰の白いマウザーグレイルが、かすかにあたたかい気配を返した。


《《ふんふん、いいことだね。それは》》


 茉凜の声は、朝の光みたいに明るい。


 いつものように、少しお姉さんぶっていて、でも押しつけがましくなくて、そのくせ、こちらが欲しいものだけはきっちり見抜いている。


《《だったら、ヴィルが好きそうなものを作ってみたら? おいしいものって元気になるし、絶対喜ぶよ!》》


「……料理ってこと? でも……」


 思わず瞬きが増える。離宮へ来てから、台所へ立つことなんてほとんどなかった。侍医司や大学や離宮のあれこれで、毎日がするすると過ぎていってしまっていたから。


《《だーいじょうぶ! ちゃんとわたしがレシピや手順を教えるから。王都で食べたあれこれを思い出してみて。ほら、たとえばあの鶏の唐揚げみたいなやつ!》》


「……スパイスチキン・フリット、だっけ?」


 あの香りを思い出しただけで、口の中へ細く唾がひろがる。カリッとした衣と、鼻へ抜ける香草の匂い。熱い肉汁。紙包みを持ったまま、夢中でかじった記憶まで一緒によみがえってきた。


《《そうそう。それなら、忙しいときにでも手軽につまめるし、ヴィルにはピッタリだと思うよ》》


 確かに、と思う。あの人は食事の時間でさえ、ゆっくり楽しむより先に仕事を優先してしまうから。片手で少しずつつまめて、味がしっかりしていて、冷めてもあまり悲しくならないもののほうがいい。


 それに、自分で作って渡したい、と思えた。


「うん……わかった。やってみる。失敗したらごめんね、茉凜」


《《何を言うのさ。わたしにまかせておきなさい! 『いっしょに食べて、おいしかったもの』は、分析して把握済み。レシピ化してるから、じゅうぶん再現可能だよ》》


 その自信満々な声に、つられて笑ってしまう。


「まぁ……そんなことまでしてたなんて、さすがは欲望魔神ね。あなたにはまいったわ」


《《うふへへへ》》


 胸のあたりが、朝の光みたいにふくらんでいく。陰ったことばかりが続いたあとだからだろうか。誰かのために何かをしたい、なんて、こんなにまっすぐな気持ちが自分の中にまだ残っていたことが、少しうれしかった。


◇◇◇


 離宮の厨房は、思っていたよりずっと広かった。


 大鍋のふたが鳴る音。野菜を刻む細かなリズム。焼きたてのパンと煮込みの匂いが、熱を含んだ空気の中で幾重にも重なっている。火の明るさに照らされて、銅鍋の腹がやわらかく光り、白い壁へ湯気が薄く曇っていた。


 入口で立ち止まったまま、わたしは少しだけ息をのむ。思った以上に大勢が動いていて、場の手際もよすぎて、なんだか自分だけ場違いみたいな気持ちになる。


 けれど、厨師長は拍子抜けするくらい気さくに笑った。


「雷光殿の小腹を満たす一品を作りたいのだね。どうぞどうぞ、食材も自由に使ってかまわないよ。何かわからないことがあったら、いつでも呼んで」


 助かった、と胸の内で呟く。


 もしかしたら、この人も母のことを知っている一人なのかもしれない。そんな考えが、ふとよぎった。離宮の人たちは、ときどきこちらの顔を見て、何か昔の光景を思い出したみたいに目を細めることがあるから。


「よし、頑張るぞ……」


 小さくそう言って、わたしは簡素なドレスへ着替え、薄手のエプロンを前で結んだ。髪は作業の邪魔にならないように高くまとめる。結び終えた尾が肩の後ろで揺れて、その感触だけで少しだけ気分が変わる。


 こんなふうに身支度を整えると、料理というより、こっそり秘密の計画を始めるみたいだった。


《《ドレスで調理ってところが不思議だけど、気合いが入ってる証拠だね》》


「そ、そんなこと言わないで……だってここには簡単な作業着くらいしかなくて」


 そう返しながらも、頬がほんのり熱い。鏡があったら、たぶん少しだけ楽しそうな顔をしているのが、自分でも分かったと思う。


《《まずは、わたしがまとめたレシピを視覚に重ねるから確認しながら揃えていこう》》


「……う、うん」


 棚の縁へ淡い印が順に灯り、塩、香草、粉類、油、レモンが、小さく呼ばれるみたいに浮かび上がる。わたしはその導きに従って、ひとつずつ手に取った。瓶の底が触れ合う乾いた音、陶器の小鉢を置くたびの軽い震えまで、今朝は妙に胸に心地いい。


 鶏肉を魔道保冷庫から出し、香草の束を抱え、粉の壺を並べる。レモンを二つ、ころがらないよう端へ寄せて、にんにくとオリーブオイルも手前へ。視界の文字は、揃うたびにそっと次へ滑っていき、わたしの指先だけが少しずつ忙しくなる。


 最後に深めのボウルとまな板、包丁を整えて、調理台の上を見渡した。よし、と小さく息をつく。こんなふうに何かを誰かのために揃えていく時間そのものが、もう少しうれしい。


「茉凜、これで全部揃ったかな?」


《《かんぺきだね》》


 調理台の上へ並んだ食材はどれも新しくて、鶏肉はやわらかい色をしていた。香草は水気を残してみずみずしく、レモンの皮にはまだきりりとした香りが宿っている。こんなに整った台所なら、たしかに失敗するほうが難しいのかもしれない。いや、そんなことを言うと本当に失敗しそうだから、心の中だけにしておく。


《《じゃあ、視界にレシピを重ねていくから、それに従って調理開始(アレ・キュイジーヌ)!》》


 視界の端へ、薄い光の文字が静かに重なった。


《COOKING GUIDE》

▼本日の目標 リーディス風スパイスチキン・フリット

▼所要目安 二十五分

▼現在工程 下準備


 手順は一行ずつ現れ、工程に合わせて自動で強調へ切り替わっていく。左下の所要目安が細く点り、輪が静かに回り始めた。


 棚の二段目が淡く縁取られ、小さなタグが跳ねる。


〈鶏もも肉〉


 意識より先に、手が伸びた。


《《よし、みずみずしい鶏肉ゲットだぜ。まな板の手前をちょっと広く使って――》》


 包丁を取る。視界に細いガイドラインが走り、力を入れすぎない弧を示す。刃が筋を断つ感触に合わせて、右上へ小さな数値が灯った。


〈切り身平均厚 約22mm〉


 緑へ寄るほど、短くやさしい合図音が鳴る。収束のたび、耳の奥で砂粒が転がるみたいに響いて、息がひとつゆるんだ。


《《次は下味。塩は肉の重さの二%くらいがベストだから、だいたいこれくらいかな……》》


 ボウルがほのかに明るく縁取られる。肉を入れると、


〈総重量 503g〉

〈塩 10g〉


 と続けて表示された。掌から落ちる塩の糸に合わせて、視界の中の細いゲージが伸び、ぴたりと緑で止まる。


 おろしにんにく。タイム。ローズマリー。オレガノ。瓶へ触れるたび、ラベルの上に小さなチェックが灯り、工程がひとつ右へ滑る。


《《うん、いい感じ。ハーブはタイムとローズマリー、オレガノをそれぞれ小さじ一程度で! 例の醤油風調味料は香りを引き立てるくらい、ほんの少しだけね》》


 オリーブオイルを回し、全体をやさしく揉み込む。肉の表面がすべり、香草の青い匂いがふわりと立った。


〈撹拌ムラ 低〉

〈OK〉


 白い保存容器に寝かせの印がふわりと点り、控えめなカウントが走り始める。


 誰かのために作る。ただそれだけで、胸の温度が少しずつ上がっていく。


 次は衣だ。粉のボウルが縁取られ、


〈米粉:とうもろこし粉=1:1〉


 と表示が出る。匙を入れ替えるたびに、細いゲージが中央へ寄っていく。粉を指で弾くと、さらさらした感触が掌の線に残り、肩のこわばりがほどけた。


《《米粉ととうもろこし粉を混ぜ合わせて……パプリカパウダー小さじ一、黒胡椒少々、カイエンペッパーは本当に一つまみで。はい、そんな感じ》》


「うん……これくらい?」


《《うん、ばっちり! これで衣の準備完了だね》》


 少し得意になりそうな気持ちをこらえて、わたしは下味のついた肉へ薄く粉をまとわせる。余分を払うたび、視界の隅の小さな円環が気持ちよく閉じていった。


 鍋にオイルを注ぐ。底の揺らぎに合わせて、温度表示が静かに立ち上がる。


〈134℃→〉


 火力を上げる。鍋肌へ光の輪が細く寄り、やがて数値が落ち着いた。


〈170℃〉


 緑の合図音が耳朶にやさしく触れる。


《《温度はちょうどいいよ》》


「ありがとう、茉凜。温度を測れるなんて……ほんとうに助かる」


《《ふふ、マウザーグレイルの力って、こういうところでも活用できるんだよ。はい、鶏肉を衣ごと、ひとつずつ静かに入れてみて》》


 ――これ、一応古代超文明の……。


 と、思いかけてやめた。こんなすごい剣が、今はわたしの料理を手伝ってくれている。それがなんだか、少し可笑しかった。


 矢印が、鍋へ落とすまでのなだらかな動線を示す。泡が規則的に弾け、左上の経過表示が静かに進んでいく。


〈経過 00:38/03:00〉


 表面色のバーが、淡い金から少しずつ深くなっていく。菜箸を持ち替えるたび、つまむ位置がほのかに縁取られた。油の音が一段低くなる。


 今だ、と思った瞬間に、


〈油切〉


 の表示が灯る。


《《表面がきつね色になったら、一度取り上げるんだよ。最後に温度を上げて二度揚げするからね》》


「わかった」


 引き上げた肉を油切りの網へ置くと、湯気が一斉に立ちのぼった。もうその時点で十分おいしそうで、つまみ食いの誘惑が、かなり真面目に危険だった。


 火を少し強める。鍋の縁がひと呼吸ぶん明るくなり、温度表示が点った。


〈190℃〉


 仕上げの時間は短い。縁の光が、控えめなリズムで脈を打つ。


〈00:27〉


〈OK〉


「……できた……!」


 今度こそ、声が漏れた。


 揚がったばかりの衣は、明るい金色をしていた。刻んだパセリを散らし、レモンの皮を削ると、視界の片隅で小さな波形が跳ねる。


〈香気 上昇〉


 衣の黄金。パセリの緑。レモンの澄んだ匂い。胸の奥で、指先で灯したみたいな明かりがともる。


「……茉凜、本当にすごいね。わたしの視覚や触覚を通して、ここまで正確に分かってしまうなんて」


《《ふふ、温度だけじゃないよ。音とか揺れとか、それと匂い。そのへんもちゃんと拾って、数値化しているのだ》》


「へーっ……」


《《すごいでしょ? でも、それを素直に受け入れてくれる美鶴だからこそ、うまくいったんだよ。まさに連携の勝利》》


 耳の奥がくすぐったい。


「実は……昔、あなたが作ってくれた手の込んだ唐揚げ、わたし、大好きだったんだよね」


《《知ってるよ。あの時のあなたは“彼”だったし、無愛想で、そんなこと一度も言ってくれなかったけど》》


「ご、ごめんって。あの頃はいろいろとバカだったから……」


《《いいのいいの。何も言わなくても、わたしにはちゃんと伝わってた。だってすごくわかりやすいんだもん》》


「そんなに、顔に出てたかしら?」


《《表情だけじゃないよ。よく見てればわかる。それと、わたしにはオーラが見えるのだ》》


「……はいはい。ようするにバレバレだったというわけね。わたしの氷の王子様の演技も、あなたの前では形なしだった、ってことか」


《《でも、今はこうしてちゃんと言葉にしてくれてる。笑い話にできる。だから、嬉しい》》


 その一言が、胸のどこかやわらかいところを、きゅっと細く締める。


 近いのに、触れられない。ずっとそばにいるのに、手では届かない。そういう距離の切なさは、たぶん消えないのだろう。それでも、同じ匂いを嗅いで、同じ景色を見て、こうして笑い合えるなら、わたしたちはちゃんとここにいるのだと思えた。


 包み紙を広げる。上に小さなカードが揺れた。


〈保温 推奨〉

〈持ち運び 6分〉


 その六分が、彼のところまで歩く距離とぴたり重なって、なんだか可笑しくなる。手早く包んで紐を結ぶと、包みの上で小さな印がひとつ跳ねた。


〈リボン〉


《《さあ、あとはヴィルをびっくりさせてあげるだけだね》》


「あ……そうだった。早く持っていかないと冷めちゃう」


 茉凜に背を押され、わたしは揚げたてのスパイスチキンを丁寧に包む。紙越しの温かさが、かじかんでいた指先をゆっくり解いていく。包みを胸へ寄せると、立ちのぼる香りが鼓動の速さに合わせてふわりとほどけた。


 ――彼、いったいどんな顔をするだろう。


 驚くだろうか。呆れるだろうか。それとも、ほんの少しだけ目元をゆるめてくれるだろうか。


 そんなことを考えているだけで、胸が妙に落ち着かない。けれど、このそわそわした気持ちさえ、今日は少しうれしかった。


 与えてもらうばかりだったわたしが、ようやく自分から差し出せるものを持てた気がしたから。


 包みを抱え、わたしは厨房を出る。廊下の先には、きっと今日も休まず歩いている背中がある。


 その背へ向かう足どりは、思っていたより、ずっと軽かった。


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