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王都に迫る、虚無の気配

 扉が、わずかな風圧を連れて開いた。隙間越しに深紅の瞳がひと筋よぎる。ラウールだ。流れ込んだ外気は冷たく、魔導ランプの灯が一度だけ細く揺れた。


 入室した彼の肩には、長く張りつめていた疲労の影が薄く落ちている。最後にローベルト将軍が扉を閉めると、木の合わせ目が乾いた音を呑み込んだ。石床の底冷えが、足裏から静かに上がってくる。


「やぁ、ミツル……しばらくぶりだね」


 穏やかな声音の奥で、焦りだけが脈打っているのを皮膚で感じた。ローベルト将軍が一礼し、短く呼吸を整えてから口を開く。


「単刀直入に言う。情勢は芳しくない――」


 掌ににじむ汗を、鞘の冷たさで押しとどめた。


「軍部としては、ラウールから提供された情報に価値ありと判断し、これまで収集した噂や証言と合わせて、王宮に掛け合った。だが……」


 将軍の眉間には、噛みしめた苦味がそのまま刻まれている。わたしは小さく頷き、続きを待つ。


「いくらこちらが根拠を示しても、宰相をはじめとする上層部は、クロセスバーナの動きなど対岸の火事としか見ていなかった。遠く離れた大陸の出来事が、大きな脅威になるはずはない。万が一事態が悪化しても、その時は中央大陸の有力諸国と足並みを揃えればよい――そういう結論に落ち着いた」


 言葉の温度が、すうっと下がっていく。わたしは視線だけで室内をひと巡らせた。織物の布の匂い。石の冷たさ。蝋の焦げた薄い気配。隅に立つヴィルは腕を組んだまま、光を沈めた瞳でこちらを量っている。その黙り方が、場の張りつめをいっそう細く、鋭くしていた。


「ラウール……上層部の方々の返答は、具体的にはどのようなものだったのですか?」


 問いかけると、彼は机の縁へ指を置いた。すぐには答えず、指先に力を逃がすように、小さく息を吐く。


「人道的な見地に限っては、一応の理解を示してはくれたよ。でも、それだけだった。『直接の介入は差し控える』……その一言に尽きる」


 額へ熱が集まる。奥歯に力が入った。


「つまり、リーディス王国としては、公式には何ひとつ動く気はないということですか? 現実に圧政や迫害に苦しむ人々が、難民としてこの王都にも次々と流れ着いているというのに。それを見て見ぬふりだなんて……」


 抑えた声の縁にだけ、熱が滲んだ。ラウールは痛みを噛むように目を伏せる。


「とはいえ、情報提供と引き換えに、極秘裏に僕たちの組織を支援する約束までは取りつけられた。人道支援や難民の受け入れにも応じてもらえることにはなった。それだけでも前進ではある。……けれど、明らかに足りないんだ」


 窓辺の蝋が、かすかに泣いた。王宮の体質。遠い大陸の火を、まだ遠いままで済ませられると思っている目。けれど煙はもう、この王都の空気にも混じりはじめている。ヴィルから聞いた密偵の話も、難民たちの沈黙も、肌の上ではとっくに実体を持っていた。


「この国は……過去の歴史から、まるで学ぼうとしないのですね」


 吐息の重さが、そのまま言葉へ移る。ラウールがこちらへ一歩進んだ。真紅の瞳の奥で、焦燥と使命の火が同じ深さに揺れている。


「……すまない、ミツル。僕にはこれ以上、どうすることもできなかった」


 わたしはゆっくり首を振る。適切な言葉は見つからない。脈だけが、ひとつ強く打った。


「新生クロセスバーナが、神代の御業をこの世に蘇らせようとしているのだとしたら……もはや、それに対抗できるのは君だけなのかもしれない……」


 穏やかな声なのに、芯だけが鋭い。腹の底で冷と熱が擦れ合う。


「……君が、精霊の巫女メービスの再来として立ち上がれば、その威光を示すだけでも、少しは状況が変わるかもしれない。もちろん、そんな無理強いはしたくないけれど……」


 喉の奥が小さく詰まる。唇がわずかに震え、言葉が落ちる前に視線が床へ逃げた。


「……それは――」


「ミツル……君には、君にしかない特別な力があるはずだ。伝説の聖剣を預かる資格を持ち、幻の精霊魔術を扱える者は、他にはいない――」


「……だからどうしたって言うんだ?」


 低く鋭い一撃だった。ヴィルの声に、張りつめていたものが一度だけ裂ける。ローベルト将軍の呼吸が微かに止まり、ラウールの瞳がひとつ瞬いた。


「ミツル一人に、そんな道化じみた重しを押しつけるつもりか? 冗談も大概にしろ」


 広げた両手の仕草だけは軽い。けれど顔の硬さは、少しも解けていなかった。わたしへ向けられた視線には、無言のまま話せと促す力だけがある。わたしは肺へ新しい空気を入れ、絡んだ不安をひとつずつほどくように唇を開いた。


「……ラウール、あなたは知っているかしら。精霊魔術の、本来の在り方というものを」


「いいや、詳しくは知らない。精霊族に関する伝承は、どれも曖昧なものだからね」


「では、わたしの知る限りのことを、お話ししましょう」


「うん、ぜひ聞かせてもらいたい」


 唇を湿らせ、窓辺の冷気をひと口吸う。指先は無意識に鞘の縁をなぞっていた。


「まず、精霊魔術は本来、戦いのための力ではありません。かつて精霊族は、それを自然と響き合わせ、ささやかな暮らしを支えるために用いていたのです」


 鞘の革が掌へかすかな湿りを返す。その向こう側に、茉凛の気配が遠く、けれど確かに触れていた。


「なのに、いま精霊族はどこにもいない。もし彼らが、その力を戦いのために振るった果てに、自ら滅びを招いたのだとしたら……姿を消した理由にも、少しは説明がつくのかもしれません。そんな――破滅に手を伸ばすような真似を、軽々しく選べるはずがないでしょう?」


 風が窓の隙間を一度だけ鳴らし、蝋燭の炎が傾いた。その一瞬の揺らぎが、言葉の余白をそっと広げていく。


「それに、わたしの精霊魔術は……」


 喉の奥が、ひどく細くなった。


――わたしは代々の巫女たちとは違う。精霊族の巫女の遺伝子を基盤にした、戦うための器の写し身だなんて、どうして言えるっていうの。


「あまりに強すぎるのです。ちょっとした綻びで暴れ出したら、今いるこの王都だって焼き尽くしてしまうかもしれない。そんな危うさと隣り合わせの力なのです。……それだけは、どうかご理解ください」


 言いながら、言葉の刃がこちらへも薄く返ってくる。ほんの少し前まで、ようやくこの力の意味を見つけかけていた。なのに破壊へ舵を切れと迫られた途端、足裏の地面がゆらぎはじめる。


 そのとき、背へ大きな掌が置かれた。ヴィルの体温が、背骨の節へひとつずつ届いてくる。


「ミツル……誰が何と言おうと、おまえが望まないなら力なんて使わなくていい。そうしろと命令するヤツがいるなら、この俺がぶん殴ってやる」


 賭す覚悟だけが、一瞬、瞳の底に灯って消えた。彼は余計な言葉を足さない。ただ、わたしの意志が先にあることだけを、全身で支えている。


 張りつめた糸の表面が、ほんの少しだけゆるんだ。ラウールは唇を痛みの形に引き結び、低く息を落とす。


「……ああ。確かに彼の言うとおりだ」


 ラウールの睫毛が伏せられる。その一瞬だけ、深紅の底に疲労ではない、もっと古い痛みが透けた。


「君ひとりに背負わせるなんて、やっぱり間違っている。一人を犠牲にして成り立つ救済に、どんな価値がある? 歴史は英雄を偶像に変え、人はそこへ寄りかかり、伝説で飾り立て、やがて本当の恐ろしさを忘れる。――そして、また繰り返す。僕は、それだけは繰り返させまいと戦ってきたはずなのに」


 声の奥で、砂を噛むような悔しさが鳴った。ローベルト将軍が半歩進み、磨き上げられた靴底が石を撫でる。低い擦過音が、机の脚もとで止まった。


「王家の本音としては、君をメービス伝説の正統な継承者として祀り上げ、看板として利用したいのであろう。黒髪ではなく、噂に名高い『緑髪の少女』を……な」


「要するに、扱いやすい偶像として……ですか」


「だが、今の君は先王陛下の庇護下にある。そう易々とは手出しできまい。……とはいえ、ラウールの報せを踏まえれば、こちらにも悠長に構えている時間は多くない。先王陛下のお身体のこともある」


 みぞおちの裏を、冷たい手で掴まれた気がした。問いは、そのまま声になる。


「……クロセスバーナが、いずれこのリーディスへ攻め入る可能性もある、ということですか?」


 ラウールは顎へ指を添え、短い沈黙ののちに顔を上げた。落ち着いた赤の底で、凍てた憂いがひと筋だけ光る。


「どんな形でかは、わからない。彼らは狡猾で用意周到だ。一夜にしてソミンを乗っ取ったようにね。それと、これはこの国の王に一笑に付された話だけど……バルファ正教は、古代の秘術をすでに手にし、実用に移している可能性がある」


「秘術ですって……? いったい、それはどういったものなのですか?」


 ラウールは懐からペンダントを取り出した。魔導ランプの光を受けて、緋朧天石が淡く呼吸するように瞬く。


「ご存じのとおり、新生クロセスバーナの国力を支えているのは、国内に点在する三つの巨大な魔獣の巣窟と、そこから得られる魔石資源だ。クーデター後に次々と生じたその巣こそ、彼らの急速な勢力拡大の源になっている。けど……同時期に複数の巣が生まれるなんて、あまりに出来すぎているとは思わないかい?」


 その問いに、誰もすぐには答えなかった。緋朧天石の赤だけが、ラウールの指のあいだで淡く沈む。


「たしかに……」


「これはまだ憶測に過ぎないけれど、もし彼らが任意の場所に虚無のゆりかごを呼び出せるのだとしたら……敵対する国家や都市を一斉に混乱へ陥れることなど、たやすいはずだ」


「……そんなことが、本当にあり得るというの?」


 喉が乾き、唾を飲み込む音だけがやけに大きく響いた。ラウールは一瞬だけ苦い笑みを浮かべ、すぐ真顔へ戻る。


「最初は信じられなかったよ。だが、バルファ正教が崇める古代バルファ文明の記録を見て、僕は考えを改めた。消し去られた歴史の中には、禁忌とされた秘術がいくつも眠っていたんだ。たとえば、精霊魔術を兵器と結びつけて運用しようとした研究や、虚無のゆりかごを制御しようとした痕跡が、随所に残されていた」


 ペンダントを持つ指に、わずかに力が入る。赤い光が爪の際で細く割れた。


「クロセスバーナはそこに、神の御業へ繋がる秘術を見いだし、それを実行に移すだけの意志も持っている――僕はそう見ている。ミツルを手に入れたがっているのも、その鍵のひとつとしてだろう」


 ラウールの言葉が進むほど、鞘に添えた指先から熱が引いていく。わたしは表面の細い傷をなぞった。


「とはいえ、彼らが虚無のゆりかごをどこまで制御できているのかは未知数だ。何らかの儀式や禁呪を用いているのか、それとも神代に遡る遺物――唯一神バルファへ至る礎のようなものを手にしたのかもしれない。僕は、時が経つほど彼らの力が増していくと見ている」


 短い沈黙のあと、ヴィルが低く呟いた。


「だが、誰が信じるっていうんだ? ここじゃ、与太話と笑い飛ばされるのがオチだ」


 もう軽口の色はなかった。


 ローベルト将軍が、その沈黙を引き取るように口を開く。


「だが、放置していれば、いずれ侵略は拡大するだろう。奴らがその切り札を切れるのなら、虚無のゆりかごひとつで周辺の土地や人々を、一瞬にして魔獣の脅威に呑み込ませることができる。……かつての西部戦線の惨状が、再び繰り返されないとは限らない」


 室内の影が、一段濃く沈んだ。魔導ランプの灯が細く尖り、ラウールは肩をわずかに落として窓の外へ視線を逃がす。


「僕らに残された時間は、もうわずかだとしか思えない。クロセスバーナの動きは、こちらの読みを常に上回っている。もし、王都に虚無のゆりかごを生み落とされたら……」


 言葉が途切れ、顎筋が固くなる。横顔をよぎった喪失の影に、わたしは唇の内側を噛んだ。


「……わかったわ、ラウール。このまま黙って見過ごすなんて、できないものね。でも――」


 肩へ置かれたヴィルの手が、ごくわずかに力を込める。喉の奥で乱れかけていた呼吸が、ひとつ、いまへ戻る。


「ミツル。お前はどうしたい?」


「……ヴィル……」


 視線を落とし、内側の秤を見つめる。攻撃のために力を振るうことへの拒絶。放置した先にある破局の予感。その両端が、骨へ食い込むみたいだった。


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