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原始と理性の円環

 翌朝、目を開けた瞬間、全身へ沈むような重さが走り、息が詰まった。骨の芯へ鉛を流し込まれたみたいに、腕をわずかに持ち上げただけで関節がきしむ。喉は乾き、まぶたの裏にはまだ薄い熱が残っている。


 指先を動かそうとして、寝具の布を浅く掴んだ。


 爪の下に力が入らない。自分の手なのに、どこか遠いところに置き忘れてきたものみたいだった。


 精霊魔術は、術者の脳の奥に備わる精霊子の受容器官――器を活性化し、〈場裏〉という限定領域で現象をかたちにする術だ。鍵になるのは理屈より、もっと感情や直感に近い場所。集まった精霊子は想念の輪郭を得ると、するりと動きはじめる。


 こめかみが、薄く脈を打つ。


 精密な像を保つには深い集中が要るくせに、負の感情や衝動までいっしょに呼び覚ましやすい。舌の奥へ金属めいた味が滲み、喉の奥がひりついた。狩りに踏み込む直前みたいに意識が熱を帯びると、その背には獣じみた危うさがいつも潜んでいる。


 けれど、その原始的な感覚こそ、核なのかもしれない。


 大地や風、炎や水へ触れて畏れ、愛おしむ感性が深く共鳴したとき、内側にはたしかな流れが生まれる。使えば使うほど負荷は増す。鼓動は跳ね、指先はかすかに痺れ、脳も神経も、身体を巡るあらゆる働きがじわじわ削られていく。


 乱用は、命を削る行為だ。


 そうわかっているのに、この力を手放せない。掌に残る赤と青の名残が、まだ次の道を探している。そう信じたい気持ちだけは、どうしても残った。


 前世でわたしを蝕んだ、あの受容結晶体の増殖――少なくとも今の身体には、その顕著な兆しがまだ見えない。純粋なデルワーズの資質ゆえか、あるいは別の要因が噛み合っているのか。そこは、まだ断じられなかった。


 そして、深淵の血族のことも思う。


 あれはデルワーズが自身の復活の足場として、人の設計図へ打ち込んだ楔の系統――精霊族の本幹からは外れた代替の枝にすぎなかったのかもしれない。


 その名を思い浮かべた途端、胃の底が重く沈んだ。


 第八章で見た冷たい技術の光。人を人のまま数値へほどき、身体も感情も、祈りでさえも、兵器の部品として扱おうとする気配。あの場所の空気は、まだどこかでわたしの皮膚に残っている。


 純粋な精霊族が力に節度を課し、攻撃的な術を禁じて生活の最小限にとどめてきた理由が、今のわたしには少しだけわかる気がした。過ぎた力は自然への冒涜となり、かならず自分へ返る。その言葉は、いまのわたしにもまっすぐ刺さる。


 温熱療法を終えてから幾日かを置き、昨日、ようやく腹水の処置まで辿り着いた。


 あの施術は、赤のときとは別の意味で神経を削った。腹水としてまとまった液を見極め、〈場裏〉の青を細い導路のまま保ち続ける。ほんのわずかなずれでも許されず、意識を張りつめたまま出力を絞り続けた。


 その反動が、いま遅れて身体へ来ているのだろう。


 昨日の施術を終えた直後、立ち上がろうとしたわたしは膝から崩れかけた。侍医司の医官に「ミツル様、お体の具合がよろしくないのではないですか?」と声をかけられ、「だ、大丈夫です……。ただ少し、疲れが溜まっているみたいで……」と返すのがやっとだった。けれど結局は「……すみません、あとはお願いします……」と皆へ頭を下げ、リディアに支えられて自室へ戻されたのだった。


 寝台へ身を沈めても、心だけはちっとも静まらない。


 瞼は重いのに、不安だけが薄い膜みたいにまとわりつく。


 たしかに温熱療法には手ごたえがあった。お祖父さまの寿命をつなぐための、一歩ではあったと思う。けれど、標的にできたのは肝の大きな腫瘍だけだ。


 肺への転移は。


 他の臓器は。


 再発は。


 〈場裏〉の赤で縮小できる範囲には限りがある。もし病変が全身へ散ってしまえば、到底追いつけない。


 暗い溜息が、喉の奥で細くほどける。


 けれど茉凛は、マウザーグレイルには膨大な知識が眠っていると言っていた。古代の知――デルワーズが積み上げた技法が剣の深部に封じられていて、鍵になるIVGシステムへ届きさえすれば、癒やしの手段が見つかるかもしれない、と。


 その可能性へ手を伸ばそうとした瞬間、背筋の奥が冷えた。


 それは、救いの名をした禁忌かもしれない。お祖父さまを救いたいという願いが、また別の何かを踏み越えさせるのかもしれない。


 ――諦めたらだめだ。できることはある。


 そう思ったのに、指先は寝具を掴んだまま動かなかった。


 天井は、暗いまま黙っている。それでも、その向こうにごくかすかな光があると信じたかった。いつかマウザーグレイルが示す癒やしの道へ手を伸ばし、大切な人を救える日が来る。そう願いながら目を閉じた、そのときだった。


 扉を叩く軽い音が、室内の空気をやわらかく震わせた。


「ミツル」


 ひそかな呼び声に顔を上げる。


 扉脇に立っていたのはヴィルだった。無愛想な表情の奥に、安堵の色がかすかに滲んで見える。


「大丈夫か? さっきリディアから聞いて、気になってな。……やはり、無理が祟ったんだろう。顔が真っ青じゃないか?」


 ぶっきらぼうな低い声は、それでもたしかに気遣いを帯びていた。腹の底へたまっていた冷えがじんわり解け、苦笑いがこぼれる。


「……耳が痛いわね。否定できないのが悔しいのだけれど」


 困ったように笑うわたしを見て、ヴィルはほんのわずか目を細めた。


「今は何も考えず、しっかり休め。侍医司の連中が責任をもって陛下の看護を続けてくれている。お前がすべてを背負う必要なんてないんだからな」


「そうね……しばらくは体を休めて立て直そうと思う」


 身体を起こすと、鈍い倦怠はまだ奥に残っていた。それでも、彼の顔を見た途端、乾いていた気力へ少しだけ水が戻る。


「……ねぇ、ヴィル」


「なんだ?」


 声音の慎重さに気づいたのだろう。彼の視線がまっすぐこちらへ向く。


 その眼差しを受け止めながら、わたしは唇をひらいた。


「わたし、いろいろ悩んだけど……やっぱり気持ちを固めた。お祖父さまを……最後まで見届けるわ」


 静かな告白に、ヴィルの呼吸が一拍だけ止まる。


 最後まで、という言葉の行き着く先を、彼はすぐに理解したのだと思う。


「……最後ってのは、諦めたわけじゃない。そう受け取っていいんだな?」


「うん。わたし、少しでも望みがある限り諦めない。何だって試してみるつもりよ。絶対に完治させたいって気持ちは変わらないし、もし救えなかったとしても、最期のその瞬間まで、責任をもってちゃんと看取りたい。それが孫としての務めだと思う」


 言葉を重ねるたび、腹の底で意志が静かな熱を帯びていく。


 けれど、その熱は勢いではなかった。祈りにも似ている。諦めないことと、失う可能性を見ないふりすることは、きっと違う。そう思えるまで、ずいぶん遠回りをした気がした。


 ヴィルは短い沈黙ののち、正面から見つめ返してひとつ頷いた。


「……わかった。お前がそう決めたのなら、俺はお前を守り抜くのみだ。王宮の連中が何か文句を言ってきたら、全部はねのけてやる」


「ありがとう、ヴィル。あなたがいてくれるだけで、ほんと心強いわ」


 その一言は思った以上に深く沁みた。


 こわばっていた肩の奥が、ようやくゆるむ。ヴィルは何か言いたげに揺れたが、結局は黙ったままそばにいてくれる。その無口さが、かえって支えになることを、もうわたしは知っていた。


 そのとき、頭の奥でかすかな震えが走った。


《《ん……美鶴? 今……呼んだ?》》


 茉凛の声だ。


 いつもなら鈴みたいに澄んで触れてくるのに、今はどこか平板で、温度の抜けた響きに聞こえた。


「あ……ううん。呼んでない、けど……」


 返したあと、一拍の空白が落ちる。


 それから遅れて届いた「そっか……」は、いつもの調子よりほんの少しだけ鈍かった。つながりの縁がかすかにずれているような違和に、指先がひやりと冷える。


 ――気のせい……? でも、茉凛の様子が明らかに……。


 昨日の施術を終えた頃から、応答にはときおり間が混じるようになっていた。明るい声色のままなのに、どこか遠い景色を見たまま途切れてしまう。思考の輪郭そのものが、少しずつ霞んでいくみたいに。


 わたし自身、過度の疲労で頭が曇っているのもたしかだった。瞼を閉じればそのまま眠りへ落ちそうで、霧の中を歩いている気分がする。とりあえず「あとで話そうね」と小さく告げると、微かに「……うん」と返った。


 ――ちゃんと話さなければ……いけない。


 共振解析による検査や療法が、彼女にどれほどの負荷をかけたのか。考えるだけで喉の奥がきゅっと絞られる。あの冷たい響きが、本当に彼女のものだとは思いたくなかった。もし、わたしが最も恐れていた事態が、いまの彼女に起きているのなら。


 もう一度、寝台へ身を沈める。


 いつもなら鞘の奥からはっきり伝わってくるマウザーグレイルの存在が、今は淡く遠い。白い霧の向こうにあるみたいに、輪郭だけがかすかに残っている。


 わたしを案じて干渉を抑えているだけかもしれない。


 そう思った途端、切なさと申し訳なさが腹の底いっぱいに満ちた。


――いまはまず、わたし自身が休まなきゃ。


 そう言い聞かせてまぶたを閉じると、消耗しきった身体はすぐ眠りの縁へ沈みはじめた。けれど小さな棘だけは抜けないまま、微かな痛みを抱いて、薄暗い意識の底へ落ちていく。


◇◇◇


 日が西へ傾き、夕暮れの紫が廊下を染めはじめていた。


 遠くで蝋の匂いが薄く漂い、床板のうえを布の裾がするりと擦る。小走りの足音が近づいてきて、わたしは顔を上げた。


 侍女の声は、いつもより少しだけ上ずっている。面会を申し出る者がいるらしい。


「来訪者? どなた?」


 問いかけると、侍女はためらうように目を伏せた。


「……ラウール様と名乗られています。ミツル様のお知り合いとお聞きしましたが……?」


「ラウール……?」


 その名を口にした瞬間、腹の底で古い傷跡がかすかに軋んだ。


 銀の髪。


 深い紅紫の瞳。


 あの拉致事件に関わり、けれど結果としては助け出してくれた人。手首に残っていた痛みと、怪我を気遣ってくれた手つきが、肌の温度ごと蘇る。


 彼はクロセスバーナに祖国ソミンを奪われた、亡国の王子だった。


 リーディス王国に忍ぶ脅威を告げ、協力を仰ぐと言っていたきり、音沙汰はない。あれは政治の領分だと、自分の中でいったん線を引いたはずだった。


 けれど、その線は薄い。


 いまのわたしは、王国にとって触れにくく、同時に手放し難い存在でもある。選定の儀と玉座の一件は、箝口令の隙間から少しずつ王都へ滲み出し、王の矜持は傷ついた。二十年前のメイレア王女誘拐が体面のための方便だったことまで、もはや噂では済まなくなりつつある。


 王家が黒髪のグロンダイルを国家戦力として取り込みたがっているのも、もう隠しきれていない。養女という名目で離宮へ置き、いずれ王族の末席へ連ねようという声まであるらしい。


 そのひとつひとつが、疲れた頭の中で、細い糸みたいに絡まる。


 王家。


 クロセスバーナ。


 ソミン。


 ラウール。


 そして、黒髪のグロンダイル。


 答えの出ない名ばかりが並び、喉の奥がまた少し乾いた。


 けれど、わたしは政治の道具になるつもりはなかった。いずれこの国を出ると決めているからこそ、余計な縁からは距離を置きたかった。


 答えのないまま、わたしは息をひとつ吐いて侍女を見た。


「わたしとの面会を希望している、ということね。……お祖父さまの容態については、外部への漏洩は考えにくいとして……いったい、何が目的かしら?」


「詳しいご用件は存じませんが、相当急いでおられるようでした。いかがなさいますか?」


 その言葉に、喉の奥で警鐘みたいなざわめきが立ち上がる。


 鞘へ納めたマウザーグレイルへ視線を落とした。白い鞘の金具が、夕陽を受けて冷たく光っている。


 ――ラウール……いったい何があったの?


 短く思案したのち、わたしは頷いた。


「……ええ、通して差し上げて。ただ、施術室だけには近づけさせないように。お祖父さまをこれ以上煩わせたくないから。離れの面会室の方へお願いします」


「かしこまりました」


 侍女が去る。


 わたしはゆっくり身を起こし、マウザーグレイルを腰へ差した。立ち上がるだけで、身体の奥にはまだ鈍い重さが居残っている。


 隣ではヴィルが黙ったまま気配を張り、目だけで備えを告げていた。わたしはその視線を受け止め、ひとつ息を整える。


「心配には及ばないわ。自分の立場は、弁えているつもりよ」


「止めはせん。ただし、奴は腹に何を隠し持っているかわからない、油断ならない男だ。俺も同行させてもらうぞ。いいな?」


「ええ、お願いするわ」


 彼へ一瞥を返し、まだこわばる足取りのまま面会室へ向かう。


 廊下には蝋燭の炎が揺れ、窓辺から差す夕陽の橙が石壁を薄く染めていた。衣擦れと革靴の底が石を撫でる低い音。磨き上げられた真鍮の取っ手はひやりとして、触れた指が少しだけ強張る。


 面会室の前で深く息を整え、扉へ指を伸ばす。


 遠目にも目立つ銀の髪が、視界の端でひときわ明るく返った。深紅の瞳が、まっすぐこちらを捉える。


 薄い蝋の匂いと夕陽の色が室内から流れ込み、張りつめた気配が指先をかすかに震わせた。


 わたしはそっと扉を押し開けた。


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