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静かな光のなかで

「それでは、本日はこれにて失礼いたします。一度戻り、ミツル様の治療方針に基づいた体制を整えた上で、明日にでも正式に先王陛下の診察を執り行いましょう」


「はい。よろしくお願いいたします」


 侍医司の一行は一礼ののち、白衣の裾をそろえて退室していく。重厚な扉が静かに合わさり、金具が触れ合う乾いた音だけが、部屋の奥へ細く残った。


 たった今まで熱を帯びていた空気は、厚い布を一枚ずつ外されるみたいに静まっていく。張りつめていた緊張が、胸の底から遅れてほどけた。


 深く吸って、ゆっくりと吐き出す。


 薬草の青さと紙の粉っぽさが薄れ、呼吸はようやく自分のものへ戻ってきた。指先にはまだ、カルテの角を押さえていた感覚が残っている。


 ふと顔を上げると、ヴィルが無言でこちらを見つめていた。


 鋭い青に、今日は少しだけ穏やかな色が差している。窓から落ちる光の角度のせいかもしれない。けれど、その眼差しに触れただけで、肩の奥に残っていた力がゆっくり抜けていった。


――彼がいるだけで、こんなにも心強いなんて。ほんと、不思議。


 出会った頃の彼は、粗野でぶっきらぼうで、いつも何かを測るようにこちらを見ていた。酒場の灯りの下で、父の名を聞いたときのあの目。試すようで、どこか傷ついたものを隠しているような青。


 その人が今、窓辺の光のなかで、ただ静かに立っている。革手袋の縫い目へ落ちる影や、片足へわずかに預けた重心が、余計な言葉よりずっと確かに、ここにいると告げていた。


「ヴィル、あなたにもいろいろと心配をかけさせてしまったわね」


 喉仏がひとつ上下し、手袋の親指が無造作に縫い目をなぞる。その仕草に、気にするなという温度が確かに宿っていた。


「そんなことはないさ」


 使い込まれた革が擦れる僅かな音が、沈黙のなかに低く響く。


「グロンダイルの名を受け継ぐお前が、こうして今は皆に頼られる存在になっている。それが俺には何よりも嬉しい……」


 彼の声が落ちた瞬間、喉の奥にひっかかっていたものが、少しだけ丸くなった。


 選定の儀の修羅場も、玉座での対峙も、離宮へ辿り着くまでの裏道も、思い返せば、そのどこにも彼の足音があった。半歩前、半歩後ろ。必要な距離を、いつも間違えないまま。


「あのね、ヴィル……わたしの話を聞いてくれる?」


 窓枠に肩を預け、逆光のなかで揺れる埃の粒を静かに見つめている彼の睫毛が、微かに震える。


「なんだ?」


 窓の外で風が向きを変え、透けるようなカーテンの裾が白く膨らんだ。言葉と言葉のあいだに、布の擦れる淡い音が入る。


「以前のわたしはずっと一人ぼっちで、頼れるのは剣の中に宿る茉凛だけだった。……それでもね、彼女さえいればやっていけるって、本気で思っていたの」


 鞘の革が掌にかすかな湿りを返し、刃金の冷たさが脈打つ手首に沿って、静かに、深く沈んでいった。


「……それじゃ、だめだったのよね。誰かのために何ができるか、そんな風に心を砕く余裕も、勇気も……。あなたや茉凛に言われて、頭ではわかっていたつもりだったのに。でも、結局は独り善がりに突き進むことでしか、自分を保てなかった。……わたし、そうやって一人でいることに、慣れすぎてしまっていたんだわ」


 呼吸が少し上ずっていた。


 途中で気持ちが崩れてしまわぬよう、一息に言葉を紡いでしまったせいで、舌の先に微かな渇きが残る。鞘を握る指に力が入り、革の縫い目が指腹へ浅く食い込んだ。


「けれど、今は違うの。……誰かと手を取り合える。お祖父さまを救うために、こんなに多くの人が力を貸してくれている。ねえ、どうしてわたしが、ここまで変われたと思う?」


 窓辺の光がわずかに揺れ、カーテンの影が床を横切っていった。


「それはね、全部……ヴィル、あなたと出会えたおかげなんだ、とおもう……」


――ああ、まただ。肝心なところで、言葉が遠回りになっていく。


 照れ隠しなのか、感情の逃げ場なのか。それでも想いを外へ放つと、胸の奥に固まっていたものが、少しだけ形を変えた。ほどけるというより、ようやく指先で触れられるところまで浮かび上がってきたみたいだった。


 ヴィルは目を細め、穏やかに笑った。


 視線が一瞬だけわたしの口元をかすめ、すぐに目の奥の光へ戻る。その無意識の往復に、鼓動がわずかに跳ねた。


「はて、俺が何か感謝されるようなことをしたか?」


「なによそれ……せっかく真面目に言ったのに。これじゃ馬鹿みたいじゃない」


 わざとむくれて見せると、彼は大きく息を吐く。肩がほんの少し落ち、眉間の皺がほどけていった。


「そう言われると、なんだかこそばゆいんだがな。……だが、悪くない。けどな、お前が前に進めたのは、他でもないお前自身の意志の力だ。俺はただ、その背中を見ていただけに過ぎん」


 素っ気なさに隠された、けれど何よりも温かい声音。それは何度でも「独りではない」という事実を確かめさせてくれる響きだった。


――まったく、もう……。


 わたしは黙って頷き、耳の後ろへ落ちた髪を指先で払う。指先がかすかに震え、そこへ彼の視線が触れて、すぐに外れた。


――見られた。


 思った瞬間、耳の縁がじんと熱を帯びた。


 鞘に収めたマウザーグレイルへ指を伸ばす。


 かつて殲滅兵器の補機だと知らされて震えた白銀は、今は掌の熱を受け止める静かな支えだった。柄革の擦れた部分へ親指を置くと、そこだけ何度も触れてきた記憶がうっすら返ってくる。


 剣の中に宿る茉凛は、気を利かせてくれているのか、声を挟まず、ただ黙ってわたしたちを見守ってくれている。


 使い込まれた柄革の温度が脈に沿って伝わり、絡まっていた心を少しずつほどいていった。


「とにかく、ヴィル……ありがとうね」


 何度でも言いたい言葉だった。


「礼には及ばんさ」


 彼は髪をかき上げ、視線を遠い窓の外へ流していく。雲が裂け、淡い光が床の木目に細い筋を描いていた。


「わたしね……これからはもっと、誰かの手を借りて歩こうとおもうの。一人ですべてを背負い込むんじゃなくて、必要なときは誰かに頼りたい。お祖父さまを救うためにも……それに、わたしがわたしとして、ちゃんと生きていけるようになるためにも。……信じられる人たちと一緒に、歩いていきたいの」


 口にすると、決意の輪郭がはっきりとしてくる。


 彼はほっとしたように目尻を緩め、靴先で床をそっと確かめるようにして、重心を移した。革靴の底が木目を押す小さな音が、返事の前に落ちる。


「それでいい。お前が選んだ道なら、俺はどこまでだって支えるだけだ」


 低い声が、不安の影を薄くしていく。


 わたしは飾り気のない硬質な鍔を、そっとなぞった。


――彼がいれば、どれほど道が険しくても、前を向いて歩いていける。


 支えてくれるのは茉凛だけではない。この人が当たり前のようにそばにいてくれる。その事実だけで、足裏の感覚が少し深くなる。


 けれど、この温度を何と呼べばいいのかは、まだ自分でもわからなかった。


 無意識に浮いた願いに気づいた途端、くすぐったさを隠すみたいに、わたしは視線を剣へ落とした。きっと茉凛は、そんなわたしの動揺を黙って見通している。


「行きましょうか、ヴィル。まだ、やるべきことは山積みだし……」


「そうだな。これからだ」


 彼は窓辺から背を離し、わずかに硬い音を立てて踵を返した。使い込まれた革が擦れる微かな音が、止まっていた時間をまた動かしていく。


「わたし、お祖父さまを必ず救ってみせる。何より、自分にできることを、精霊魔術の可能性を、ちゃんと証明したいの。まずは明日に向けて、十分にシミュレーションしなきゃ」


 言い切った途端、胸の奥へ小さな怖さが戻ってきた。


 必ず、という言葉は重い。救う、と口にすることも、証明したいと願うことも、本当はこんなに怖い。それでももう、怖いからといって黙り込むだけではいたくなかった。


「いいだろう。小間使い程度にしかならんが、なんだって手伝うぞ」


 気負いのない声音とともに、彼は少しだけ肩の力を抜いた。彼の大きな掌が宙を泳ぎ、行き場を探すようにして自分の首筋を軽く掻く。


「そうね。いっしょにいてくれれば、それでいいわ」


「なんだそりゃ?」


 思わず口を突いた本音に、彼は眉をひそめてこちらを覗き込んできた。少しだけ気恥ずかしくなり、わたしはわざと視線を外して廊下の先を見つめる。


「側仕えの小間使いっていうのは、そういうもんじゃない?」


「人を置物みたいにするな」


 ヴィルが呆れたように鼻を鳴らす。その低い笑いを含んだ吐息が、わたしの耳をかすめてやわらかく散っていった。


「だったら、番犬とかは?」


「ろくな扱いじゃない。なんだかお前、最近カテリーナに似てきたんじゃないか?」


「ふふ、そうかも」


 聞き慣れた名を不意に出され、耳の縁がまた少し熱くなった。


 彼は踏み出した足を緩め、わたしの歩調に合わせるように速度を落とした。いつものように、ほんの半歩だけ後ろを歩き、風よけになる位置を保ちながら。


 並んだ二つの影が床の光の帯に重なる。彼の広い肩幅が、わたしの影の端をそっと覆っていた。


 ただ、心の奥で小さなささくれが残っている。


 光に満ちた静けさのなかでも、拭いきれない違和感がしこりとなって消えない。何かを見落としているのか、それとも別の何かが。


 けれど今は、お祖父さまの診察が最優先だ。


 わたしはそのささくれを奥の方へそっと仕舞い込み、今は歩みを止めないことだけを選ぶ。


 薄い迷いを振り払って、顔を上げる。


 天井近くのステンドグラスから零れた光が床の上で揺れていた。革靴の音と、わたしの小さな足音が、その色の上をゆっくり進んでいく。


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