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紙の上から、人の手へ

 侍医たちへ向けた微笑の余韻が、まだ室内に淡く残っていた。高窓から差し込む光は変わらず白く、卓上のカルテの角だけが、乾いた艶を鈍く返している。張りつめていたものはたしかにほどけたのに、空気そのものはまだ完全には座りきらず、紙と薬草茶の匂いのあいだで、かすかに揺れていた。


 アルベルトは一度だけ腰をかばうように呼吸を置き、それからまっすぐこちらを見た。苦痛の影はある。けれど、それを押し流すだけの理性と矜持が、その顔にはきちんと残っていた。


「それにしても、ミツル様には本当に驚かされました。医師として、これ以上の刺激的な体験はございません。もっと早くにお会いすべきでした」


 白衣の袖口がかすかに擦れ、整え直された背筋に、先ほどまでの熱とは別の慎みが宿った。


「先王陛下のご意向があったとはいえ、あなた様からの書簡に返答もせず、大変失礼いたしました」


 言葉が落ちるや、背後の侍医たちのあいだに小さなざわめきが広がる。誰も大声では言わない。けれど、その熱は隠しようがなかった。


 白衣の擦れる気配が幾重にも重なり、手の内の革のぬくもりだけが、浮きかけた呼吸をどうにか繋ぎ止めた。


「それは致し方のないことです。どうかお気になさらず」


 侍医たちのあいだを抜けた薬草の香りが、熱くなりかけた喉をそっと冷ました。


「解剖や診察の実地となれば、わたしはまだ皆さまに到底及びません。必要な知識は頭へ叩き込んでおりますが、患者さまのお体に触れ、日々の症状を診てこられたのは、侍医司の皆さまです。治療の道筋を決めるには、やはり皆さまのお力が要ります」


 アルベルトが穏やかに頷いた。先ほどまでの試す側の硬さは消えてはいない。だが、いまはもう、その上に別のものが重なっている。受け入れようとする知性の静けさだった。


「ミツル様のおっしゃるとおりです。見えることと治すことは別。されど、見えぬものが見えるようになるのであれば、それは間違いなく大きな一歩でしょう」


 一拍置いてから、彼は背後を振り返った。


「リーダル、こちらへ」


 名を呼ばれた若い侍医が、一歩前へ出た。頬にはまだ若さのやわらかさが残っている。けれど視線だけはまっすぐで、胸のうちの昂ぶりを、きちんと仕事の形へ押し込めようとしているのがわかった。


 抱え直した記録板の角が、白衣の袖へこつりと当たる。彼は一瞬だけそれを押さえ、すぐに指の位置を整えた。紙の縁を支える手つきは少し硬い。だが、その硬さの中に、逃げる気配はなかった。


「君には、診断の記録を手伝ってもらいたい。ミツル様が捉えた位置と状態を、できるかぎり正確に書き留めるのだ。薬師や回復術師と連携するにも、まずは情報が必要だ」


「承知いたしました」


 声がわずかに弾む。


 それに気づいたのか、リーダルは口元を引き締めた。浮つきを叱るように、記録板を胸へ引き寄せる。その仕草に、年若い侍医の真面目さが滲んでいた。


「私は写印術を扱えます。骨の走りや血脈の位置を、通常の診察記録より細かく図へ起こすこともできます。もし共振で見えたものを口でお伝えいただけるなら……微力ながら、お役に立てるかもしれません」


 写印術。単に見えたものを紙へ写す技ではない。


 解剖の知と観察の目を土台に、骨格や臓腑の位置関係を脳裏で立体として組み上げ、必要な角度へ返して図へ落とし込む。正面から見えた断片だけでは足りず、奥行きと重なりまで繋ぎ直せる者でなければ扱えない技能だった。


 使い手は多くない。侍医司の中でも、そこまで精密に写し記せる者は希少だと聞いている。


 だが、もし彼の図へ、わたしが共振で見た位置や広がりを書き足していけるなら、病巣の輪郭はもっと手に取りやすいものになる。


「とても助かります。位置と状態を皆できちんと共有できれば、どの部位を優先して診るべきか、どこへ負担をかけてはならないかも、もっと具体的に考えられるでしょうから」


 リーダルは小さく息を呑み、記録板を抱く指へ力を込めた。


 その白い爪先を見ているうちに、まだ形になりきらない考えが、ゆっくりと輪郭を持ちはじめた。いま言うべきかどうか、一瞬だけ迷う。けれど、いまなら早めに卓上へ置いておいたほうがいい。侍医司が本気で動いてくれるなら、なおさらだ。


 記録板の乾いた角が、卓に小さく当たった。


 その音で、言うべきことの重さが少しだけ戻ってくる。


 わたしは一度だけ息を整えた。


「……もうひとつ、まだ仮説の段階に過ぎませんが、考えている手立てがあります」


 ざわめきが止む。暖炉の火が低く鳴り、薬草茶の湯気が白くほどけた。


「もし病巣の位置と広がりを正確に捉えられるなら、患部だけへ局所的に熱を加える手が使えるかもしれません。わたしの精霊魔術で、病変を弱らせられる余地があるのではないか、と……」


 視線が揃う。驚きと、息を潜めた期待とが、同じ重さで室内に満ちていく。


 その沈黙に任せるわけにはいかなかった。わたしはすぐに言葉を継いだ。


「もちろん、これはまだ頭の中で組み立てている段階の話です。すぐに実行できるわけではありませんし、危険や副作用の見極めも必要です。けれど、もし成り立つなら、回復術や薬草の治療と併せて、病変へ別の角度から働きかけられるかもしれません」


 アルベルトのまなざしに、探究の光が宿る。否定しない。だが、浮かれもしない。その慎重さが、この人を首席侍医たらしめているのだろう。


「熱、ですか。つまり魔術で悪性腫瘍を『攻撃する』と?」


 攻撃する。


 その言葉が、紙の上で少しだけ黒く滲んだように感じた。


 たしかに、病変へ働きかけるなら、外から見ればそう呼ばれるのかもしれない。けれど、その語へ安易に身を預けるのは怖かった。相手は病だ。けれど、その病を抱えているのは、お祖父さまの身体なのだ。


 病巣だけを敵として切り離せるほど、人の身体は単純ではない。


 わたしは指先でマウザーグレイルの柄をなぞり、言葉の熱を少し冷ましてから返した。


「攻撃、という言い方には、まだ少し躊躇いがあります。熱を加えるにしても、まずはどこまで体が耐えられるかを見なければなりません。病変を弱らせるつもりで、陛下のお体そのものへ負担をかけてしまっては、本末転倒ですから」


 低く呟き、アルベルトは思考を置くように一度だけ目を伏せた。


「ふむ、聞いたことのない考えではあります。ですが、いまの段階で切って捨てるのも早計でしょう。まずは正確な位置と状態を掴むこと。それが先ですな」


「はい。そこを見誤れば、どのような手立ても意味を持ちませんから」


 その言葉に、彼は小さく頷く。侍医司の者たちの顔にも、まだ戸惑いはあれど、拒絶だけではない色が見えた。


「仮説は仮説として記録に留めましょう。先走らず、だが見落とさず。そうしておけば、後に検討する余地が残るというもの」


「ありがとうございます。まずは、その方針で」


 何も決まってはいない。


 救えると断言するには、まだ何もかもが足りない。それでも、可能性を可能性のまま卓上へ置けたこと。それを侍医司が切り捨てずに受け取ったこと。


 その事実だけで、部屋の空気は少し変わっていた。


 アルベルトが改めて姿勢を正す。腰の痛みはまだ残っているはずなのに、その顔にはもう、先ほどまでとは違う種類の張りがあった。


「では、ミツル様。まずは陛下のご診察に入りましょう。そのうえで、必要があれば、今お話しいただいた仮説も含めて検討いたします。侍医司としても、可能な限りの手は尽くす所存です」


 わたしは深く頷いた。


「よろしくお願いいたします」


 白衣の袖が静かに揺れる。


 リーダルはすでに記録板と筆記具を抱え直していた。若い指先が紙の縁を押さえるたび、乾いた音が小さく返る。準備が、本当に始まっている。


 背中で、ヴィルの静かな息遣いが揺れた。肩越しに見ると、彼は何も言わず、ただいつものようにほんのわずか顎を引く。口を挟まないまま、そこにいてくれるだけで十分だと知っている頷きだった。


《《文句なしだったよ、美鶴。これでまた一歩前へ進めたね》》


 茉凛の声が、刃の奥で小さく弾んだ。


《《よし、わたしも頑張るか。リーダルさんが写しやすいように、見えたものをなるべく噛み砕いて渡せる形にしてみるね》》


「うん、お願い」


 わたしは小さく頷き、マウザーグレイルの柄を握り直した。白衣の裾がひとつ、またひとつと向こう側で返り、記録板の乾いた音がそのたび短く重なる。


――いよいよです、お祖父さま。わたし、ここまで来ました。そして、少しでもお苦しみを和らげてさしあげたい。少しでも長く……。


 アルベルトの背が動く。リーダルがその半歩後ろにつき、侍医たちも静かに道をあけた。


 わたしはヴィルの気配を背に確かめてから、その列のあとへ歩き出す。


 薬草茶の香りと紙の匂いがすれ違う。さっきまで卓上に留まっていた話が、ようやく人の手の中で動きはじめた。


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