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病を読む前夜

 離宮の自室で、机に向かっていた。


 燭台の灯りが壁にゆるく揺れて、部屋のすみずみまで夜の冷えが沈んでいる。古い書物を開いても、目は行を追うのに、意味だけが指のあいだからこぼれていく。頭を占めているのは、ただひとつのことだった。


 ――お祖父さまの病。


 病名も、詳しい症状も、わたしはほとんど知らされていない。けれど、それがあの方自身の強い意志による沈黙だということは、わかっていた。病を公にすることがどれほどお祖父さまの美学に反するか、それくらいは、これまでの姿勢が教えている。


 それでも、と思う。


 痛みに耐えるように時折眉をひそめ、浅く吐息をつくあの姿を思い出すたび、開いた本の文字が少しずつ遠のいていく。


「……循環器の問題なのか。それとも、悪性の腫瘍だったりする……?」


 こぼれた独り言は、暗がりに吸われて消えた。


 前世の知識が、呼んでもいないのに浮かんでくる。がんならば、どの臓器に、どの段階で。血管系の疾患なら、いつ発作が来てもおかしくないのか。この世界に、あの世界と同じ分類があるのかどうかすらわからない。それでも、頭は勝手に当てはめようとしてしまう。名を与えれば、何かできるかもしれない。せめて、手をかけられる形になるかもしれない。そんなふうに縋りついているだけだとしても。


 知っているぶんだけ、怖かった。無知なら、漠然とした不安で済んだのかもしれない。けれどわたしには、中途半端に知っている分量だけの恐怖がある。名前のつく病は、名前のぶんだけ現実味を帯びて、こちらへ寄ってくる。


 意識が、呼んでもいないのに前世の痛みへ遡っていった。


 深淵の根源――〈デルワーズ〉の再生のため、精霊子の器を八年かけて拡げ続けた頃。弟の弓鶴ほどの資質を持たなかったわたしは、容量の限界を越え、肉体が内側からゆっくりと受容結晶体に変質していった。


 身体の奥で何かが削れていくような痛み。末期がん患者向けの鎮痛薬でも波は止まらず、息を継ぐたび、薄い刃が臓腑を撫でる気がした。二度と思い出したくない、絶望の色だった。


「お祖父さまも、きっと同じように苦しんでいる……」


 声にした瞬間、現実が輪郭を増して迫ってくる。涙はまだ落ちない。けれど、紙の白さだけが、急に眩しく見えた。


「わたし……お祖父さまの病を癒したい」


 ほとんど祈りのような声が、暗い部屋へ零れた。


「たとえ……たとえ最終的に結果が変わらないとしても、ほんの少しでいいから、長く生きてほしいの……」


 涙が頬を伝って紙面に落ちる。インクの文字がじわりと滲んで、わたしの迷いを映すように広がっていった。


「母さまを探し出すことは、わたしにとっていちばん大事なこと。西方もまだ落ち着かなくて、虚無の幻視や痣の謎だって突き止めなくちゃいけない。それは分かってる……」


 呼吸が乱れ、拳に力が入っている。


「だけど、お祖父さまが苦しんで、日に日に衰弱していくのを見ているだけなんて、わたし、きっと堪えられない……」


 声を上げるほど、無力の冷えが押し寄せてくる。けれど、動かなければ。そうでなければ、きっと後悔する。その焦燥だけが、静まり返った部屋へ粗い波紋を立てていた。


◇◇◇


 眠れなかった。


 離宮の回廊から人の気配は消え、風に揺れる窓硝子が細くきしむだけだった。わたしはひとり、机に向かい続けていた。取り寄せた書物がいくつも積み上がり、開きっぱなしの頁は景色のまま止まっている。思考は同じ輪を回り、暗い泥に足首を取られたように沈んでいく。


「わたしの深淵の異能――〈黒鶴〉が、本当に精霊魔術の一端だというのなら……せめて、何かの役に立つ力にならないのかな……」


 抑えた声は室内の冷気に滲んで、机の上に落ちた影をもう少し濃くした。


「けれど……わたしの力は、結局、壊すことしか知らない……」


《《美鶴、それは違うよ。ソレイユに〈場裏〉を見せたとき、あの子、どんなに瞳を輝かせていた? あなたには、ちゃんと誰かを喜ばせる力があるんだよ》》


 茉凜の声が、暗がりの中でやわらかく響いた。


 たしかに、あの瞬間、ソレイユは息を呑んで見ていた。水がほどけ、虹になったあとも、その目はしばらく掌の上を追っていた。けれど今夜は、その記憶に縋れるほど、心は穏やかではなかった。


「……馬鹿言わないで。あんなの、ただの芸にすぎないわ。人を救えるような力なんかじゃない。それに……」


 唇をきゅっと噛む。わずかな痛みが、奥の苦さを掻き立てていく。


「わたしが使う術は、精霊族が本来使うはずの、生きるための術なんてものじゃない。〈デルワーズ〉が兵器でしかなかった頃の名残、ただの破壊の手段よ。人を傷つけて、命を奪うためだけに存在するものなんだから」


《《でも……》》


「聞いてちょうだい」


 思わず強くなる。茉凜が黙って受け止めている気配に、言葉が次々と形を得ていく。


「深淵の血族が使っていたのは、人を殺すことに特化した術だった。すれ違いざまに〈場裏〉を相手の体内に密かに送り込んで、重要な器官や血管を壊す。致命傷を与えて、あっという間に息の根を止める。それが、あの人たちのやり方だった。それ以外の使い道なんて、最初から考えもしなかったのよ。その時点で、もう狂ってるとしか思えない」


 語るそばから、言葉が鎖になって心へ絡みついていく。血族の残酷さ。そして、その力を受け継いだ自分への嫌悪。


 けれど、その嫌悪の底から、消えてくれない問いが這い上がってくる。


――もし。もし、それを逆向きに使えたなら。


 体内に〈場裏〉を送り込んで壊すのではなく、触れるだけ。読み取るだけ。何が壊れていて、何がまだ動いているのかを知ること。そこから、暴走している部分をほんの少しだけ静めること。スイッチの入り切りを、そっと整えるだけの、ごく小さな介入。


 デルワーズは、人の遺伝子に触れて深淵の血族を生み出した。だったら、その系譜の先にある力で、壊れたものを診ることや、整えることへ届く道だって、理屈の上ではあるのかもしれない。


 仮にがんだとするなら、抑制遺伝子を活性化して、暴走を抑えることはできないだろうか。文字そのものを書き換えるのではない。ただ、整えるだけ。〈場裏〉のごく短い時間だけ、ごく小さな範囲に触れるだけなら――


「……無理だ。こんなの、ただの理想論だ。そんなことぐらい、わかってる」


 声が掠れた。


「わたしは医者じゃない。遺伝子のことだって、本で読んだだけの知識しかない。暗闇の中で刃物を振り回すのと変わらないってことくらい、わかってる」


 わかっている。わかっているのに、頭が止まらなかった。殺すための技術を、救うために使えないか。その発想そのものが、どれほど危険で、どれほど滑稽かも知っている。


 けれど。


 マウザーグレイルが、腰のあたりで静かに在った。


 ――そうだ。この剣は、ただの武器じゃない。


 情報体兵装。記録媒体で、演算媒体で、使うたびに機能を編み直す。デルワーズが積み上げてきたものが、あの奥にまだ沈んでいる。いま開いているのは、たぶんほんの一部だ。


 黒いプレートに触れたときも、二振りの剣が鳴り合ったときも、あの剣はただ光っただけでは終わらなかった。共振した瞬間、その奥に沈んでいた像や記憶を、断片でもこちらへ返してきた。読む、と呼ぶにはまだ粗い。けれど、壊すためだけの剣なら、あんな返し方はしない。


 なら、いまのわたしに届くのがそこまでなのだとしても、触れた先に返ってくる揺らぎを拾うことくらいは、できるのかもしれない。


 まず、体内で何が起きているのかを輪郭として受け取るだけ。体内へ送り込んだ〈場裏〉に返ってくる微かな響きを、マウザーグレイルが像へほどいてくれるなら。


 でも、それは治療じゃない。ただの読取りだ。しかも、その像が返ってきたところで、わたしにはそれを判別できない。


 肺なのか、心臓なのか、血の流れなのか、それとももっと別の何かなのか。正常がわからなければ、異常もわからない。侍医司の見立てや診療記録がなければ、たとえ何かが見えても、それが何を意味するのか判断のしようがない。


 今のわたしに届くのはそこまでだ。


 それでも、その先が消えてくれない。


 モード1のプロテクトの、そのさらに奥。まだ解放されていない層が、きっとある。


 デルワーズは善なる存在――それだけじゃない。兵器である前に、ひとりの女性で、母親だった。人を傷つけることを望まなかった。選ばなかった。あの人が長い時の中で積み上げた機能は、殲滅だけではなかったはずだ。苦しんでいる者を前にして、何も試みなかったはずがない。


 ――だったなら。


 観測の、もっと繊細な使い方が。同期の、もっとやわらかい触れ方が。共振した先で、触れたものの奥から必要な像だけを返してくるような読み方が、モード1の未解放層のどこかに残っているのなら。


 そして、その先に、デルワーズがかつて行ったような遺伝子面の観測や介入に届く層まで、ほんのかすかにでも繋がっているのなら。前世の知識と、この世界の精霊子の力。そのあいだのどこかを、少しでも繋げられないだろうか――


 だったら、まず必要なのは――お祖父さまの病状を知ることだ。


「でも……そこまでか」


 椅子の縁が掌へ食い込んでいた。


「プロテクトの解放条件がわからない以上、どうしようもない。誰が、どんな意図で封じたのかもわからないんだから」


 どれもあと一歩で届かない。掴もうとすると、指の先で霧に変わっていく。


「……なんで――」


 涙が滲んでいた。


「こんなにも近いのに。全部、すぐそこにあるように見えるのに。なんで、何もできないの……」


 月明かりの筋で、涙の粒がかすかに光っている。


《《美鶴》》


 茉凜の声は、夜の底から届くみたいに静かだった。


《《何を考えてるか全部はわからない。でも、またひとりで危ないところまで行こうとしてるのは、わかるよ》》


「……うん」


《《マウザーグレイルの中に、デルワーズが遺した何かがあるかもしれない。それはわたしだって否定しない。あの人なら、癒しに近い試みをしていたとしても不思議じゃない》》


 一瞬だけ、喉の奥で何かが跳ねた。


《《でもね。プロテクトの中身は、わたしにもまだ全部は見えていないの。何がどう封じられているかも、解放したときに何が起きるかも。それを推測だけで触ろうなんてしたら……》》


 茉凜の声が、ほんの少しだけ硬くなった。


《《救うどころじゃない。壊してしまうかもしれない。お祖父さまを。美鶴自身の手で。それだけじゃない。あなた自身だって、壊れるかもしれない》》


 その言葉を聞いた瞬間、椅子の縁へ置いていた掌に、木の硬さが戻った。


「……わかってる」


《《わかってても、あなたは止まれないんでしょ?》》


「……うん」


 嘘をつく気にもなれなかった。前世の中途半端な知識で、人の身体の奥に触ろうとするのは、救いではなく暴力になりうる。


 それでも、今夜のわたしは止まれなかった。あの一瞬の歪みが、頭から消えてくれない。


 見送る側に、もう一度なるのが怖い。


 ――嫌だ。そんなの、嫌。もう二度と失いたくない。ようやく会えたのに。これからだっていうのに、どうして。ほしいと思うことまで、罪だっていうの。 手にしたと思った途端、指のあいだからこぼれていく。そんなことばかり。もういやだ。


「いやだ。いやだよぅ……」


 幼すぎる声が漏れた。


 前世で、自分の身体が壊れていくのを味わった。あの痛みを知っている。知っていて、誰にも届かなかったことも。だから、見送る側にだけは、もう戻りたくなかった。


《《……美鶴》》


「なによ」


《《今夜は、もう寝て》》


「いや……」


《《考えるのをやめろとは言わない。でも、今夜のところは、ここでやめておこう。あなた、自分でわかってるでしょ。こういうときに考え込んでも、ろくなことにならないってことくらい》》


 いつだったかの夜、同じようなことを言われた気がする。あのときは「子ども扱い」と返して、かすかに笑えた。けれど今夜は、笑えなかった。それに、茉凜だけは知っている。前世のわたしの、一人きりだった夜を。


「……茉凜」


《《なに?》》


「わたし、何もしないままお祖父さまを見送ることになったら、たぶん……」


 そこで言葉が止まった。その先を口にしたら、もう引き返せない気がした。


《《……知ってる》》


 茉凜の声は、静かだった。


《《あなたがそうなるってことくらい、わたしがいちばんよく知ってる。だから、今夜はここまでにしよう。明日になったら、わたしも一緒に考えるから。今夜は、ひとりで突っ走らないで。いい?》》


 窓の外は深い闇のままだった。月は雲に隠れていて、庭の輪郭も見えない。


 わたしは書物を閉じ、燭台の灯りをそっと落とした。


 暗くなった部屋の中で、マウザーグレイルの白い刀身だけが、どこからか届く微かな光を受けて細く浮かんでいる。


 考えるのをやめたわけではなかった。ただ、今夜はこれ以上走らないと、茉凜に約束しただけだ。


 明日になったら、きっとまた同じところへ戻ってくる。暗殺の術の裏返し。モード1の奥に眠っているかもしれないもの。前世の知識で何かできないかという、形にならない衝動。全部、朝になればまた這い上がってくる。


 それでも、今夜は。


 今夜だけは、ここで止まる。


 寝台に横になると、冷えた布が頬に触れた。目を閉じても、お祖父さまの笑顔と、あの一瞬の歪みが、交互に浮かんでは消えていく。


 眠れないまま、夜だけが静かに更けていった。

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