茶の時間の、その向こうで
昼下がりの図書館でソレイユと別れたあと、わたしは大学の廊下をひとり歩いていた。
講義の骨子がようやく形を持ちはじめ、頭の奥にはまだその余韻がやわらかく残っていた。けれど足は、考えるより先に総長室のほうへ向いていた。講義を引き受けたこと。今日、ようやく最初の一歩を踏み出せたこと。まだ何も決まってはいないけれど、入口だけは見えたこと。それを、まずお祖父さまに伝えたかった。
高窓から差す午後の光が壁に長い帯を落とし、石段を上がる足もとを淡く照らしていた。ここへ来るのも、もうずいぶん慣れた。総長室の重い扉の前で足を止め、ひと呼吸置いてからノックする。
「入りたまえ」
返ってきた声は、いつもと変わらずやわらかかった。深く静かなその響きは、この建物のどこにいても聞き分けられそうだった。わたしは把手を回し、そっと扉を押し開けた。
高い窓から射す午後の光が、執務室の奥までまっすぐ届いていた。机上の書簡の端が白く光り、壁際には杖や魔術器具が影を落として並んでいる。紙と古い木の匂いまで、見慣れたままだった。
お祖父さまは机の向こうで椅子に座り、書類に目を落としたままペンを走らせていた。その姿だけ見れば、何ひとつ変わらない午後だった。
「グレイ総長、失礼いたします。講義の件で、少しご報告を……」
「そうか、よく来てくれた」
顔を上げたお祖父さまは穏やかに笑った。けれど、その笑みが形になる直前、ほんのわずかに間があった。こめかみの筋がかすかに引き、それから口もとがやわらいでいく。その順番だけが、不自然に目に残った。
「座りなさい。ちょうど、茶の時間にしようと思っていたところだ。君もどうかな?」
「いいえ、それには及びません。ご報告だけで失礼いたしますから」
「ん、なぜかね?」
「総長は多忙でいらっしゃいますでしょう。お時間がもったいないかと存じまして」
お祖父さまは、ほんの少しだけ目を細めた。困ったようでいて、どこかやわらかな笑みだった。ペンを置き、背もたれへわずかに身を預ける。
「もったいないか。……なら尚のこと、付き合ってもらいたいものだな」
「お祖父さま……」
その呼びかけに、膝の上の指が一度だけ強ばった。
前にも、似たことを言われたことがある。
王都のティールームで、まだお祖父さまとは知らなかったころ。初めて向かい合ったあの日も、この方はこうして穏やかに茶の時間を勧めた。
灰色の塔の最上階でもそうだった。紅茶の香りの向こうで、時にはこうして誰かと落ち着いて茶を飲む時間も大切なのだと、静かな声で教えてくれた。
あのころのわたしは、それをただ穏やかな教えとして受け取っていた。けれど、いまは違う。こうして同じ香りを分け合うひとときが、限りあるものだからこそ重いのだと、もう知ってしまっている。
だからこそ、わたしはもう首を振れなかった。
「……では、少しだけ」
お祖父さまは満足そうに目を細め、侍女へ小さく合図を送った。
ソファに腰を下ろし、運ばれてきたお茶を受け取る。白い湯気が指先の前で静かに揺れていた。一口含むと、かすかに柑橘のまじった馴染みのある香りが、ゆっくり口の中へ広がっていく。
「今日はヴァレンベルクだ。東方産の葉を使っているが、仕上げは王都でしていてね。いまリーディスでいちばん評判のよい銘柄のひとつだ。少々値が張ったが……まあ、茶にかける予算くらいは総長の特権だと思っている」
そんなことを言って、お祖父さまは茶器を口元へ運んだ。研究者としての厳格さと、孫の前でだけ覗く茶目っ気。そのあわいを、自然に行き来する人だった。
「……おいしい。すごくおいしいです」
「そうだろう。茶というものはね、手間をかけた分だけ正直に返してくれる。論文と同じだ」
思わず小さく笑ってしまう。この方はいつも、穏やかな顔をしながら、ぽつりと変なことを言う。それが妙におかしくて、同時にどこか胸を突いた。
「さて。報告があると言っていたな」
「はい」
わたしは茶器を膝の上で両手に包みながら、講義の話を始めた。ソレイユと一緒に考えたこと。まず見せることから入ろうと決めたこと。精霊魔術が怖いだけのものではないと伝えたいこと。言葉にするとまだ頼りないけれど、それでも今朝よりは輪郭がある。
「そうか……。まず見せる、か」
お祖父さまは茶器を置き、目を細めた。
「それはいい。君らしい入口だ。……私ならつい、定義から入ってしまうところだがね。研究者の悪い癖というやつだ」
自嘲めいた口調なのに、声の底にはうれしそうなものがかすかに混じっていた。
「ところで、何を見せるかももう決まっているのかね」
「青の〈場裏〉――水を使った小さな術を考えています。数日前に離宮の庭園でお見せした……あの、虹へほどく術です。複数の属性の扱いについては、今回は割愛する予定です」
数日前に離宮の庭園でごく短く見せた、小さな実演のことだ。
「そうか。取っ掛かりとしては申し分ない」
「はい」
「たしかに、あれは美しい術だった。最初に置けるなら、あとの説明はずいぶん通りやすくなるだろう」
そのひとことが、今朝からの迷いに遅れてかぶさってきて、指先が少しだけあたたかくなる。
「それで、講義のプログラムとレジュメの構成はこれから詰めるのですが、実演のあとに精霊子と〈場裏〉の話を入れて、最後に倫理的側面を……」
「うむ、うむ」
相槌はいつも通りだった。けれど、一度だけ、お祖父さまが呼吸を深く継ぎ直すのが聞こえた。肩がわずかに上がり、ゆっくり落ちる。そのあいだ、茶器を置いた左手は上着の合わせ目に触れたままだった。押さえているようにも、ただ手を休めているだけにも見える。
わたしは、話を止めなかった。止めたら、見てしまったことが伝わる気がした。
「良い。実に良い。精霊魔術が魔石魔術と対極にあると示せれば、それだけで教授たちの見方は、根底から揺らぐだろう」
お祖父さまはその言葉を、ゆっくり噛みしめるように繰り返した。茶器の縁へ指を添えたまま、静かに続ける。
「……知っての通り、既存の魔術は魔石を根幹として発展してきた。『万の狂気』を秘めた危険な魔石へ強制力をもって働きかけ、従わせる。その手続きこそが魔術であると、誰もが疑わずにきたのだ」
一度だけ、お祖父さまは息を継いだ。
「だから、力を『対話』として捉える発想は彼らにはない。そして、それは魔術だけの話ではない。統治も政治もまた同じだ。力はつねに、制御と支配の文脈で語られやすい」
そこでようやく、わたしを見る。
「……君ならば、この意味が理解できるはずだ」
「よくわかります。お祖父さま」
「君は、最初からそこにはいない。……それこそが君の強さだと、私は思っている」
付き添いの侍女がお茶のおかわりを注ぎに来た。お祖父さまは礼を言い、茶器を手に取る。指先は落ち着いていたのに、口元へ運ぶまでに、ごくわずかなためらいが混じった。
気のせいかもしれない。
気のせいであってほしかった。
「……お祖父さま」
「ん?」
「お疲れではないですか。今日は、少し……」
そこまで言いかけて、やめた。何を言えばいいのかわからなかったからだ。顔色が悪いとも、具合が悪そうだとも言えない。言ってしまえば、この方はきっと笑って否定する。そしてそのあと、もっと注意深く隠すようになる。
「ああ、少し根を詰めすぎたかもしれんな。だが、これも性分でね。何かに打ち込んでいるほうが、余計なことを考えずに済む。年寄りにとっては、そのほうが気が楽なのだよ」
軽く言って、茶器を置く。受け皿に触れた音が、妙に小さく耳に残った。
「それより、構成の話だが。ひとつだけ、助言をしてもいいかね」
「はい」
「理論の説明に入る前に、問いをひとつ置くといい。答えではなく、問いを、だ。たとえば『いま目の前で起きたことを、どう思いましたか』――それだけでいい。受け手がまず自分の感想を持ってから説明を聞くのと、何も持たないまま聞くのとでは、入り方がまるで違う」
茶器の縁に残った湯気が、ゆっくりと形を失っていく。
「……私は長くこの大学で講義を見てきたが、優秀な者ほど説明を先に積もうとする。だが、聞く側はまず感じたいのだよ。考えるのは、そのあとでいい」
それは、今日ソレイユに教わったことと、ほとんど同じだった。けれど、この方の口から聞くと、もう一段だけ深く落ちてくる。研究者として、教育者として、何十年も同じ場所で人を見てきた者の声だった。
「……はい。問いを置く。忘れないようにします」
「うむ」
お祖父さまは満足そうにうなずき、それからほんの少しだけ声を落とした。
「……君が来てくれて、この大学はずいぶん面白くなった。空気が変わったと、何人かの教授が私のところへ言いに来たよ」
「そんな……わたしは、ただ大図書館に籠もっているだけで……」
「いや、謙遜はいらん。事実を述べているだけだ。あの大図書館の膨大な知を前にして、君は恐ろしいほどの吸収力を見せた。提出されるレポートはどれも野心的で、しかも示唆に富んでいる。教授たちが目を留めぬはずがない」
そこでお祖父さまは、ほんの少しだけ間を置いた。窓から差した光が頬の線に薄く触れて、いつもよりその横顔を静かに見せていた。
けれど、その次の瞬間。
お祖父さまの表情が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
まばたきより短い時間だった。眉のあいだの皺がふっと深くなり、唇の端がわずかに引かれ、次の瞬間にはもう消えていた。何事もなかったように、いつもの穏やかな顔へ戻っている。
けれど、わたしの指先は膝の上で冷えていた。
見てしまった。こういう呼吸の浅さを、わたしは見間違えない。弱っていく身体が、どうやって平気なふりをするのかも。
「……お祖父さま?」
「ん、どうかしたのかね?」
声は、まったく変わっていなかった。穏やかで、やわらかくて、孫の名を呼ぶときと同じ声だった。
「いえ、何でもありません。ただ、もしわたしが回復術師であったなら、お体の調子を診たり、少しは楽にして差し上げられるのに、と……」
頼りない呟き。それでも、偽らざる本音だった。
回復術師とは、生命の脈を読む者だ。病の在り処を探り、自己治癒をわずかに後押しする。奇跡のように何もかも癒せるわけではない。けれど、この世界には欠かせない力だった。
けれど、わたしにはそれがない。
お祖父さまは自嘲の気配を口元に浮かべ、わずかに首を振った。
「なに、君が気に病むことではないよ。侍医司からは、案じるには及ばないと言われている」
――『案じるには及ばない』だなんて……。お祖父さま、そんな嘘はいけません。だって……。
何でもないはずがない。けれど、それ以上踏み込む言葉を、わたしは持っていなかった。
「わかりました。では……そろそろお暇いたします。お忙しいところ、ありがとうございました」
「うむ。講義の準備が進んだら、またいつでも見せに来なさい。君のための時間くらいは、いくらでも取れる」
その言い方が、ただの社交辞令には聞こえなかった。茶器の底に残った最後のひと口を、お祖父さまはゆっくり飲み干す。
「はい」
立ち上がり、一礼して扉へ向かう。把手に手をかけたとき、背中にお祖父さまの声が届いた。
「ミツル」
「はい」
「……楽しみにしているよ」
その一言が、肋骨のあたりへそっと触れた。振り返ると、お祖父さまはもう書類に目を戻していた。ペンを持つ指には、少し前より意志の力がこもって見えた。まるで、さっきの一瞬を帳消しにするみたいに。
◇◇◇
廊下に出ると、夕方の光が石床を赤く染めはじめていた。
歩き出しても、さっきの一瞬が頭から離れない。あの顔の歪み。隠しきれなかった痛み。
――『案じるには及ばない』だなんて……。お祖父さま、そんな嘘はいけません。だって……。
ヴィルとリディアから、『侍医司の見立て』は聞かされている。長くはもたないことも、春を越えられるかどうかさえ、はっきりとは言えないことも。もう知っている。知っていて、残ると決めた。
けれど、知っていることと、目の前で見ることは違った。
理屈は何ひとつ変わっていないのに、夕方の廊下はやけに長かった。歩き出すたび、靴音だけが石壁に返ってくる。その響きが、さっきより少し低く聞こえた。
マウザーグレイルの重みが、腰のあたりでかすかに揺れた。
わたしの精霊魔術は、自然のふるまいに働きかける術だ。水を集めることも、熱を動かすことも、空気の流れを変えることもできる。けれど、人の身体の奥で静かに進んでいく病を止めることはできない。魔術は摂理をねじ曲げる奇跡ではない。
知っている。
知っているのに、考えずにはいられなかった。
本当に、何もできないのだろうか。この力で、あの方の苦しみを、ほんの少しでもやわらげることは。
その考えは、理屈から来たものではなかった。さっき見たあの一瞬の歪みが、まだ目の奥に焼きついていて、そこから剥がれてくれない。頭ではなく、身体の底から這い上がってくる、形にならない衝動だった。
《《……美鶴》》
茉凜の声が、静かに届く。
《《今、危ないこと考えてない?》》
「……考えてない」
嘘だった。嘘だとわかっていて、口にした。茉凜も、きっとわかっている。
《《……そう。あとでゆっくり話そう……》》
それ以上は言わなかった。
夕暮れの廊下を、わたしはひとりで歩いていく。足音だけが、長い石壁のあいだに細く響いている。




