黒翼の因果と微かな温もり──泉辺に囁く宵の聲
「そうでなければ、わたしがあんな危険で馬鹿げた力を振るえる理由なんて、どこにも見つからないじゃない……。でもね、それと引き換えにわたしの心はずたずたに引き裂かれて、ぐちゃぐちゃにかき乱されるの。いつ底知れぬ闇に呑み込まれて、わたし自身がわたしでなくなってしまうかわからない。ほんとうに怖いのよ……」
言い終えた瞬間、ヴィルは呆然とこちらを見つめていた。無理もない。本音をここまで晒したことは、一度もなかった。
堤が崩れると、言葉は止まらない。閉ざした扉の裏で積もった苦しみが、噴き出すようにあふれる。
「どうせあなたにはわからない。わかるわけない。この底知れぬ恐怖が。力を使うたび、魔獣を屠るたび、信じ難いほど『愉しく』なってしまうなんて。破壊に悦びを感じるだなんて」
吐く息が白くほどけ、指の腹だけが自分のものではないみたいに冷えていく。
「もしマウザーグレイルと茉凛がいなかったら、とっくに理性なんて狂気に溺れて自滅していたはずよ。こんなの、人間じゃない……兵器としてさえ欠陥品かもしれない。どうしてわたしがこんな、こんな止めどなく牙をむく力を背負わされなきゃいけないの?」
吐きながら、身震いが走る。霧に紛れた指先だけが行き場を探してかすかに震えている。そこで不意に、ひとつの可能性が落ちた。
――だからこそ、デルワーズは「心を封じられた」のか。
安定のために鎖を掛け、思考を閉ざし、欠陥を塞ぐ。あまりに悲しく、残酷な理屈。みぞおちの奥で、きしむものがあった。
黒い翼、底なしの器、人造兵器の因子。絡んだ蔦のような重みが、未来の輪郭を曇らせていく。
「だから、どうしたっていうんだ……」
低く落ちた声が霧に濡れた夜気をまっすぐ裂き、散りかけた呼吸の縁だけを不意に掴んだ。
「お前が兵器だって? こんな可愛い顔した奴のどこが化け物だっていうんだ?」
淡い光と闇の境で、彼の瞳は刃の鋭さを帯びながら、どこかぬくもりのある色を宿していた。だが今のわたしには、素直に受け取る余白がない。
「馬鹿言わないで……前にも言ったでしょう、見た目で判断したら痛い目に遭うって」
自分で放ったはずの言葉が、鈍い刃になって喉の内側へ浅く食い込む。
「たしかにわたしは母さまの娘よ。見ての通り巫女の血を受け継いでいるのかもしれない。でも、救世と希望の象徴である巫女の血筋を持ちながら、どうしてわたしだけがこんな因子を背負わなきゃいけないの? おかしいじゃない……」
吐き捨てるみたいに言ったのに、肩先だけは寒さに触れたみたいに小さく震えた。
「こんな理不尽、あってたまるものですか。あなたにわたしの気持ちなんてわからない。わかるわけない……」
苛立ちが声に滲む。八つ当たりだとわかっても、抑えが利かない。泣くにも泣けず、空へ投げた指先だけが取り残されている。
《《美鶴、もうやめようよ。ヴィルに当たってどうするの? いくらなんでも、理解できるはずないじゃない。愚痴なら、いくらでもわたしにぶつければいいって》》
茉凛の声は苛立ちを含みつつ、痛いほど優しい。その優しさが、いっそう喉を締めつける。
「わかるわけがないだろう」
投げやりではないまっすぐな響きが、静かに胸へ届く。
「お前は肝心な事は何も言ってくれない。一人で抱え込んで、ああでもないこうでもないと、いつも悩んでばかりで、見てるこっちがイライラするくらいだ」
責め立てる色はない。吐息の温度が夜気にほどけ、鉄と革の匂いがかすかに近づく。泉のひかりが彼の瞳に揺れている。
「言いたいことがあるなら言えばいいだろうに、お前はいつだって言葉を曖昧に濁す。こっちとしてはわけがわからん。だから、どうしたって放っておけなくなる。危なっかしくてしょうがないんだ。俺やカテリーナが、どれだけお前のことを心配してると思ってるんだ?」
低く抑えた声は叱責より先に体温を届けた。衣擦れがかすかに鳴り、肋のあたりに小さな圧だけが残る。
「っ……」
古傷をなぞられたような痛み。見抜かれる恥ずかしさと情けなさが、舌の裏に澱のように沈んでいく。
「お前が『自分は大人だ』と言う以上、俺はその意志を尊重してきた。そうすればお前が少しは楽になれるかと思ってな。だが、お前ときたら冷静に見えたかと思えば、急に子供みたいに無邪気になったり、泣き叫んだり。正直、まるで掴み所がない。こんなに世話の焼ける奴は見たことがない」
弱みを照らされ、背すじがきしむ。
彼は一度、奥歯を噛むように口を閉じた。それから、声を一段落として続けた。
「でもな、これだけはわかる。お前は優しい。優しすぎて、いつも嘘をつく。大丈夫じゃないくせに、『平気だ』と笑って見せる。そうやって周りが傷つかないよう気を遣ってばかりいる。そんなお前だからこそ、その力が他人を害するかもしれないと、怖れているんだろう」
喉の奥がひくりと狭まり、行き場を失った視線だけが白い水面へ落ちた。
「だが、それでも守りたいと願い、動かざるを得なくなる。それがお前だ」
「違う……」
「違わない。人間ってのはそういうもんだ。理屈だけじゃ動かない。守りたいものがあるから、体が勝手に動く。――それがお前の本質だろう。そんな奴が兵器だなんて、ありえんだろうが」
その声は、痛みを刺すのではなく、冷えた場所へ湯気を落とすように沁みた。
「……そんなこと、ない」
かすれる囁きが零れ、耳の奥で余韻だけが静かに残った。
「いいか。武器ってのは心を持たない。人を殺すだけの道具だ。善も悪もない、使う奴の心が決めるだけだ。剣を振るう怖さも、そこに潜む昂りも知っているお前なら、わからないはずがない」
父の声を一瞬重ねる。正しい言葉ほど、奥に潜む影は簡単には晴れない。
「……だとしても、今のわたしには戦う意味も意義も見当たらないの。こんな強すぎる力を、いったいどう使えばいいっていうの? わからないよ。守りたいものだって、大切な人だって、もうどこにもいないんだ……」
弱い声が夜の温度にほどけていく。
本当は違う、とどこかで知っているのに、言葉はもう戻らなかった。近くにある温度ほど、この瞬間だけ遠く見えた。
デルワーズは心を知り、愛を知り、家族を守るために戦った。けれど今のわたしには、その拠り所がない。救済を口にする資格など、どこにあるのだろう。
「あのな……」
彼の息がかすかに肩先をかすめ、力がほどける。押しつけではない、確かめるような静けさだった。
「お前には、俺がいるだろ」
低い声が、夜の底でまっすぐ落ちる。
「カテリーナがいる。先王陛下だって、お前を大切に思っている。街の人たちだって、お前を快く受け入れてくれただろうが。これで何が足らない?」
言い終えたあと、彼はわずかに黙った。泉の光が肩越しに揺れ、白い水面だけが静かに息をしている。
わかっている――それでも、うまく言葉にならない。音にならない欠片が、ちぎれて喉の手前で止まる。
「それに、その剣に宿っているマリンだっているじゃないか。お前に応えてくれる大切な存在が、すぐそばにいる。それじゃ駄目なのか?」
視線がマウザーグレイルへ落ちる。茉凛は黙っている。拒絶ではなく、見守る沈黙。余白をこちらへ戻すような沈黙。
その余白が、切なかった。閉ざした扉の向こうで、冷えたものが少しだけあたたまる。
「古代文明だの伝説だの、知ったことか。過去がどう絡みついていようと、今こうしてお前は息をして、俺と言葉を交わしている。お前はちゃんと『誰か』としてここにいる。それが答えだろう」
錆びついていた何かが腹の底でかすかに鳴り、冷えきった指先へ遅れて血の気が戻った。
「いいか、よく見ろ。この俺がいる。ここにいる。お前を認めて、受け止める俺がちゃんとここにいるんだよ」
声は夜に溶け、波紋のように広がっていく。肩に乗っていた重さがわずかに緩み、沈んでいた息がひとつ浮いた。なぜこんな温度から目を逸らしていたのだろう。
ヴィル、茉凛、カテリーナ、お祖父さま。旅や王都で出会った人々。微かな繋がりが、小さな灯として奥で揺れている。
唇を噛み、息を整える。いま手を伸ばせば、誰かが取ってくれるかもしれない――その想像だけで、指先に力が戻っていく。
「……ヴィル」
名を呼ぶと、彼はわずかに首を傾け、瞳で「大丈夫だ」と告げた。茉凛の気配も、静かにぬくもりを足してくれる。
因子も呪いも消えはしない。けれど今なら、一歩が出る。伸ばした手に、応える声がある。
「もう、一人で抱え込むな。あれだ……マリンには話してるんだろうが、俺にもちゃんと言ってくれ。そうじゃないと、どうにも落ち着かん」
照れた笑みが、夜気をやわらげる。不器用な優しさが骨の内側まで沁みた。
「ごめんなさい……。こんなこと、あなたに話したら怖がられたり、嫌われたりするんじゃないかって、ずっと迷ってて……」
囁きは静寂へ落ちる。彼は眉もひそめず、ただ受け止める眼差しでそこにいた。
「なめるなよ。『閃光』と並び称される『雷光』が、その程度でびびるもんか。俺がそんなことで人を嫌うほど、器の小さい男だと思うか?」
張りつめていた空気がふっと緩み、こわばっていた背すじから遅れて息が落ちる。
「ご、ごめんなさい」
「謝る必要はない。俺はただ、お前がもっと素直になってくれりゃいいと思ってるだけだ。怖がるのも弱音を吐くのも、人間なら当たり前だろう? そうでなきゃ、仲間でいる意味がない」
言葉は闇に沁みていく。泉の光が水面で微かに揺れ、ふたりの間を照らしている。
《《美鶴、ヴィルは鈍い人かもしれないけど、すっごく誠実なんだよ。よく考えてみて、彼が嘘をついたことなんて一度だってないじゃない。そんな人に弱みを見せるのは、決して悪いことじゃない》》
茉凛の声が、耳の奥にそっと安堵を置いた。
声は確かにここにある。胸の奥で固まっていた息が、少しずつほどけていく。
「わかった……今度からそうする」
静かに頷く。恐れて逃げていただけだった。すがることは、許されないことじゃない。目の前の彼が、それを教えてくれる。
「そうしてくれ。お前は好きなようにすればいいし、それについていくのが俺の楽しみでもある。飽きることがないからな」
「うん、ありがとう……」
その笑みは、何よりの救いだった。不器用さごと受け止める男を、わたしは知らない。胸がきゅっと締まって、やわらかく温かい。
泉は静かで、淡い光が水面を撫でている。星の瞬きが天蓋を薄くし、この闇が小さな劇場のように見えてくる。わたしたちだけの、切なくて静かな舞台。
「それで、これからどうする? お前は何を選ぶ?」
強制ではない問いが、前を向く角度をくれる。傷は消えない。けれど、立ち止まらずにいられる。
「わからない……今はまだ何ができるかはっきりしない。でも試してみたいの。怖くても、無力に感じても、手を伸ばせば何かを掴めるかもしれないから」
自分の声が小さな音色で返ってくる。曖昧だった輪郭に、うっすら線が入った。
ヴィルは短く息を吐き、肩をすくめた。そのささやかな仕草が承認の合図のように見えて、心地よい重みを残す。
「そうか。なら、俺はそれを手伝うまでだ」
まぶたを伏せ、微笑む。不安を吐き出して、また少し前へ。受け止めてくれる器が、ここにあるから。
茉凛は黙って、剣越しに微かな震えを返している。無言の肯定、無言の寄り添い。喉の奥が熱を帯びていく。灯のような存在が、そっと側で光っていた。
「ありがとう、ヴィル。でもあなたこそ、隠れてこそこそするのはやめてよ。いつもびっくりさせられるんだから」
吐息に混ぜた素直さが、静けさへ溶けていく。胸の淀みが、すっと引いた。
「あ、ああ……わかったよ。今度からちゃんと説明する。でもなあ、別に隠れたつもりはないんだが……」
とぼけた声に、上の星がにじむ。木々のさざめきがかすかに擦れ、闇の手触りが柔らいでいった。
《《ヴィルはね、それがかっこいいと思ってるんだよ、きっと。ほんと馬鹿だよね。けど、そこが彼らしいとこかも》》
微かな息遣いが笑う。ぶっきらぼうに見えて、支えるために笑い飛ばしてくれる人たちがいる。だからわたしは、立ち上がれる。
そっと息をつき、周囲を見る。泉の光が淡い揺らめきを描いている。ここはもうわたしを責めない。ただ静かに、見守っている。
「……行こうか」
囁くと、ヴィルは無言で頷き、茉凛が剣身で微かに応じた気がした。遠い夜鳥の声が一度だけ鳴き、闇に溶ける。
何が待つかはわからない。歪な因子も呪いも、奥に潜むままだ。それでも今は、それらごと抱えて歩いていける気がした。
泉の面に揺れる淡い光が、足もとへかすかな道を落としている。夜はまだ長い。けれどその先へ向かうための小さな灯は、もう消えていなかった。




