幻影に重なる二つの人生
光に満ちた庭園の奥へ進むほど、わたしたちを包む白は少しずつ質を変えはじめた。
光をまとった木々のあいだから、鈴に似た微音と、古い頁をめくるみたいな記憶の残り香が漂ってくる。風はやわらかな香りを運んでいるのに、足裏へ返る感触だけが、ひと足ごとに薄い湿りを帯びていく。空気の密度も、じわりと肌へ寄ってきた。
「ミツルよ、感じるか? 空気の質が変わり始めている」
ヴィルの声には、緊張よりも探る意志が宿っていた。わたしは呼吸を整え、肌を撫でる空気の重さを測る。包む温もりの底へ、ごく薄い湿りが混じり、見えない水気が白の深みにそっと沈んでいる。
「ええ……何かが起こりそうな気がする。注意しましょう」
白光は揺らぎを深め、霧がほどけるように視界が透けていく。向こうには鏡面めいた巨大な反射が立ち上がり、光のカーテンを抜けると、足裏のやわらかな地がゆるやかに窪んで、なだらかな盆地へと続いていた。
「おい、あれはなんだ?」
目を凝らす。宙に微細な金と銀の光粒が漂い、その中心に穏やかな水面が広がっている。泉――としか呼べない。乳白の光を帯びた面は、ときおり細い紋を描き、空間全体を透る音で満たしていた。さざめきというより、繊細な弦の和音がかすかに重なる。
「これって……泉――なの?」
思わず漏れた声の横で、ヴィルも息を詰め、やがて小さく頷いた。
「たしかに泉だな……しかし、これはただの水ではなさそうだ」
引き寄せられるように歩み寄る。足もとは相変わらずやわらかく、踏むたびに薄い反発が返ってくる。縁には自然物らしからぬ透明の石――誰かの意志を写す器みたいなものが、光の端で静かに輪郭を結んでいた。
わたしは指先で水面をそっとなぞる。
水際に、読めない記号列のような微細な光が一瞬だけ点り、すぐにほどけた。
紋がすうっと広がり、純白の光が静かに揺れる。記憶の木に触れたときの反響が内側へ返り、遠い旋律が一瞬だけ目を覚ました。今度は、たしかな前兆を伴って。
《《美鶴、これすごいかも! 泉の中に、また別の記憶が渦巻いてるみたいだよ?》》
茉凜の声が弾み、わたしはもう一度、指先を浸した。冷たくない。人肌よりわずかに温かい膜が、手首までやわらかく包む。水なのに水ではないものが、皮膚の上で薄く脈を打っていた。
泉の光粒が螺旋を描いて流れ、やがて水面に薄い映像がにじみ出した。抽象だった線は形を得て、色と輪郭を帯びる。見覚えがあるようで、けれどそのままではない、儚く揺れる古の光景。
映されたのはふたつの人影だった。淡いシルエットは時間とともに立体を増し、泉が時と空をねじって遠い記憶の登場人物を呼び起こしたかのように、像へと定まっていく。
その瞬間、喉の奥がひやりと縮んだ。
どこかで見た光景だと思った途端、暗転直前の舞台袖の匂いと、白いスポットライトの熱が、遅れて内側へ滲みこんでくる。埃を含んだ幕の匂い。化粧台の鏡に並んだ小さな灯。裾を踏まないように指先で摘んだ白い布の重さ。
一歩、また一歩と近づくたび、水面の光は不規則な紋を刻み、揺らぎの奥で影が鮮やかさを帯びていく。粒子の虚像と思えたそれは、ついに人の姿へ結ばれた。
「うそでしょ……」
一人は純白のドレスをまとい、透る若緑色の髪を風に遊ばせる、十六ほどの年頃の少女だった。翡翠色の瞳がこちらを向いた瞬間、視界の縁がずきりと痛む。
そう、彼女はわたしや――デルワーズ――と、瓜ふたつだった。
ただ似ているのではない。鏡の底で磨かれ、もっと神秘的な調べへ変えられた、もうひとりのわたし。その姿を見た途端、学園祭の舞台で若緑の鬘をかぶり、純白の裾を両手で持ち上げた感触が、嫌になるほど鮮明に蘇った。
名が、内側でそっとほどける。
――姫巫女メイヴィス。
前世の台本では、そう呼ばれていた。紙の上に記されていた綴りも、舞台袖で何度も呼び合った響きも、いまでも耳の奥に残っている。メイヴィス。白い幕の向こうで、友人の声がそう名を呼んだ。
けれど、この世界の伝承に残る名は、メービスだった。
綴りも、発音も違う。たった一音のずれ。けれど、その一音がかえって怖かった。別の土地の舌で呼び直され、別の文字で書き留められ、長い時の底で少しずつ磨耗した名のように感じられた。完全に同じではないのに、根だけが同じ場所へ伸びているように聞こえる。
いま水面の向こうにいるのは、伝承に名高いメービス王女だった。数百年前のリーディス王家に生まれ、精霊の言霊を継ぐ巫女として、聖剣の眠る泉を求めて旅したと記される少女。古すぎて、神話めいて語られてきた名。
剣越しに茉凜の意識が震え、隣でヴィルが低く息を呑む。
二人目は、白銀の鎧を纏う青年だった。飾りを削いだ銀の面が、実直さそのものを静かに物語る。整えた銀髪、鋭さと温かさを併せ持つ瞳、無駄のない立ち姿。
その輪郭を見た瞬間、もうひとつの名が腹の底で鈍く鳴った。
――最優の騎士ウォルター。
学園祭の舞台で、姫巫女の傍らに立ち続けた男装の騎士。その名が、いま泉の奥に立つヴォルフの姿と重なり、内側で軋む。
――違う。彼の名はヴォルフだ。
名前だけが違うのではない。綴りも違う。音も違う。ウォルターとヴォルフは、別の名として耳に届く。けれど、白い泉の前へ並び立つ距離も、互いを見るまなざしの温度も、あのときわたしたちが演じた物語と、あまりに似すぎていた。
同じではない。
それなのに、無関係だとも言えない。
その半端な重なりが、泉の湿った光より冷たく、胸の奥へ染みこんでいく。
泉の縁に立つ姫と騎士のあいだへ、あの最後の祈りが不意に蘇る。
『泉に眠る精霊たちよ、わたしたちの命を捧げます。どうかこの美しい世界を守って下さい。そして……どんな形になってもかまいません。わたしたちを一つにして、ずっと離れないように、一緒にいられるようにして下さい……』
――あれは台本だったはずなのに。
舞台の上で声を震わせたのは、役だった。白いスポットライトの熱を浴び、観客席の暗がりを見つめ、決められた言葉を決められた順に口にした。それだけのはずだった。
それなのに、あのとき、本当にそう願っていたのは、役ではなく「柚羽美鶴」のほうだった。
見ないふりをしていたものが、胸の奥で細くひび割れていく。
映像のメービスは、傍らの騎士へ静かに視線を滑らせた。そこに宿るのは憂いと決意の均衡。
世界を守るため、巫女は聖剣を騎士へ託した――その伝承が、いま水面の向こうで息をしている。しかもそれは、前世で知っていた物語と不気味なほど重なっていた。
「どうして……どうしてこんなにも同じなの……? 偶然で片づけるには、あまりにも……」
舞台で見たはずの悲しくも美しい物語が、いま伝説として水面の向こうに揺れている。その事実だけで、足もとのやわらかな地がひどく危ういものに思えた。
《《だよね……。こんなのありえないよ。ねえ、いったい何が起きてるの? わたしたちが演じた演劇と、ほとんど同じなんだよ……なにこれ、わけわかんない》》
つくりものだと思っていたものが、指先の届く場所で呼吸を始める。視界がかすむほど心が揺れ、息が細くなる。茉凜の声も震えていた。彼女でさえ、このずれを笑い飛ばせずにいる。
「こんな運命って……ありえるの……?」
上ずりかけた声を押し留めたとき、ヴィルのまなざしが真っ直ぐ届いた。無表情に見えながら、その奥には微かな不安が灯っている。
「どうした、ミツル? 『同じ』ってどういうことだ? 何か知っているのか?」
唇の裏までせり上がった「前世」という二文字を、歯のあいだで噛み潰す。いまそれを口にした瞬間、いまの「ミツル」という輪郭まで、水面みたいにほどけてしまいそうだった。
泉の上を細い紋が走り、白い光が彼の横顔をかすめていく。わたしはその揺れへ視線を落とし、浅く息を継いだ。
まだ、話せない。
「……いえ、何でもないの。ちょっと混乱して、頭が追いついていないだけ。ごめん、気にしないで」
率直な説明を避け、泉へ視線を戻す。舌の奥に、舞台袖の埃の味が残っていた。姫と騎士の幻影が淡く揺れ、記憶と伝承のあわいで内側のざわめきが静かに波打っている。今は、剣と泉が掬い上げた遠い断片として受け止めてもらえばいい。
剣の奥の茉凜も黙ったままだった。追いつけないのは、きっと彼女も同じなのだろう。
「ミツル、本当に何でもないのか?」
訝しむまなざし。優しさに包まれながらも、奥には「隠していないか?」という探りの気配がある。けれど、いま踏み止まるしかない。水面のメービスは微笑を湛えたまま、冷ややかに静止している。
「あまりに美しすぎて不思議な光景だから、ちょっと息を呑んだだけ……。それに、やっぱり代々のリーディス王家の巫女というのは、似たような容姿をしているのね」
言葉は形を保っていた。けれど、喉の奥だけが少し遅れて震える。うまくごまかせたとは思えなかった。それでも、いま差し出せるいちばん安全な説明は、そこにしかなかった。
彼はしばしわたしを見て、小さく息を吐いた。
「……そうなのか? たしかに似ている。というよりは、いや……」
言いさしのまま、追及は止んだ。
その余白に、そっと感謝を置く。同時に、言わなかったことの重さが胸の底へ沈んだ。ヴィルが見逃してくれたのか、それとも今は問い詰めないと決めただけなのか、わからない。けれど、その沈黙のやさしさが、かえって舌の奥を苦くした。
白光の中、泉の姫と騎士は、永遠をひとところへ留めたみたいに動かなかった。揺れる水面の奥で、まだ名を持たない真実だけが、静かにこちらを見返している気がする。
メイヴィスとメービス。
ウォルターとヴォルフ。
同じではない名。けれど、同じ泉の前へ戻ってくる名。
わたしは胸の奥の小さな灯をかばうように、その幻影を見つめ続けた。まだ、言葉にしてはいけない。




