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緑の髪の少女

 会計を済ませ、重厚なマホガニーの扉が背後で閉ざされる。カウベルの軽やかな音が途切れた瞬間、午後の斜陽が視界いっぱいに広がった。店内の琥珀色とは違う、現実の光だ。眩しさに輪郭を洗われ、さっきまでの濃密な空気が一枚はがれていく。


 石畳を踏む乾いた音が、ふと途切れた。隣を歩いていたはずのグレイさんが足を止めたのだ。


 その瞬間、空気がひとつ重くなった。


 振り返った彼の表情は逆光の中で淡く滲み、白髪の縁だけが光を拾っている。けれど瞳の底の色は動かず、遠い記憶を覗き込むように深かった。街路樹の葉音が遠のき、噴水の水音だけが妙に近い。


「そうだ……肝心なことを言い忘れていた」


 低い声が、石畳の上で鈍く跳ねた。何気ない呼び止めのはずなのに、余韻だけが長く残る。


「……なんでしょうか?」


 返事のついでにスカートの布をつまみ、指先の行き場をそこへ預ける。乾いた外気が言葉の端を掠めた。


 グレイさんは、ふっと目尻を下げて微笑んだ。昼下がりの陽光が整えられた白髪を淡く縁取り、笑みの輪郭をやわらげる。けれど視線は、わたしの髪へ置かれたまま動かない。観察というより、確かめるように。


「君のその緑、いや若緑色というべき髪の色――とてもよく似合っているよ」


 緑、と言いかけて、わざわざ言い直した。色名の精度にこだわる癖が、ふいに見える。わたしも同じように、言葉の端を揃えたくなるときがある。そんなところが、妙に似ていて、逆に居心地が悪い。


「そんな……お世辞はよしてください、グレイさん」


 褒め言葉のほうが先に肌へ触れ、頬の奥へ陽が差す。布地をつまみ続けたまま、息を整える。


 けれど彼は静かに首を傾けた。視線が髪から外れ、わたしの目へ落ちて、そこで止まる。笑みの形は残っているのに、瞳の奥から色が消えた。噴水の水音が、急に耳障りなほど大きく聞こえる。


「私は正直に感想を述べたまでだ。その瞳もとても美しい。翡翠色の泉を覗くようで、見ているだけで心が穏やかになる」


 褒めているのに、口調がどこか淡々としている。賛辞というより、取り合わせを確かめるための独白に近い。若緑と翡翠色――その並びが、彼の中の何かを呼び覚ましたのだと、直感的に悟ってしまう。


 どう受け取ればいいのか分からないまま、笑みだけが小さくこぼれた。戸惑いと心地よさが、同じ場所に同居する。


「君は、自分が思っている以上に、とても魅力的だよ」


「そんなこと、ないです。わたしなんか……」


「言ったではないか『君の存在は際立っている』と。いいかい、これもまた大切な君の長所のひとつだ。――自覚しておきなさい」


 確信のある声が、石畳の上へ静かに落ちる。否定の言葉は形にならず、口の奥で引っかかったまま消えた。


 ただ、小さく頷く。


 ふと彼は目を細め、わたしの背後――街路の先、あるいはもっと遠い場所へ視線を投げた。夕方の風が乾いた石の匂いを運び、噴水の湿りが頬を撫でる。


「君を見ていると、つい昔を思い出してしまってね……」


 その声に宿る追憶の響きに、わたしは知らず息を呑む。老成した賢者ではなく、時を抱えた一人の男の横顔が、そこにあった。


「……もう二十年以上前になるかな。かつて、君と同じような髪の色を持つ子がいた」


 胃の奥がきゅっと狭まった。彼が言っているのは伝説ではなく、彼の生活に触れていた誰かだ。紙の上の名ではなく、呼べば振り向いたはずの人。


「その子は――そう、とても不思議な子だった。明るくて心優しくて、それでいて芯が強かった。君と同じように、人を惹きつける魅力を持っていた……」


 紡がれる言葉のひとつひとつに、彼の目の奥の景色が滲む。触れるのをためらうほど繊細で、誰にも触れさせずにしまってきた記憶だと伝わってくる。


「その方は今……どうされているんですか?」


 問いかけるべきではない、と理性が警鐘を鳴らすより早く声が漏れていた。けれど彼は不快を示さず、むしろ慈しむように微笑み、小さく首を振った。


「別れてから、二度と会えなかったよ……」


「……どうしてですか?」


「ま、いろいろと思うに任せぬことがあってね。彼女は私の手の届かぬ、ずっと遠くへ行ってしまった……」


「そ、そうですか……」


「だが、私は信じている。その子が自分の道を見つけ、どこか遠くの空の下で力強く生きているはずだ、とね」


 その言葉には未練の湿り気ではなく、乾いた信頼があった。会えなくても信じることはできる。その強さが、風の匂いといっしょに胸の奥へ入ってきた。


 グレイさんはふたたび、わたしをまっすぐに見つめる。今度は過去の誰かを通すのではなく、今のわたしを見ている目だった。


「すまないね。こんな老いぼれの感傷に付き合わせてしまって」


「いいえ、とんでもありません。こちらこそ、お礼を言わせてください。心休まる時間と貴重なお話を、ありがとうございました」


 感謝を込めて丁寧にお辞儀をした。


「はは、そんなに畏まることはないよ」


「ところで、わたしに興味を抱かれたのは、その……やっぱりこの髪の色のせいだったのですか?」


 問いの続きは、声にならなかった。若緑と翡翠――その取り合わせが、彼の記憶の鍵なのだろうか。


「本音を言わせてもらえば、そんなところだろうか」


 グレイさんは遠い目をしたまま、静かに答えた。その視線は伝説の彼方ではなく、手の届きそうな過去を見つめているように思えた。


「だが、君は君だ。その子とは違う。そして君は何者にも縛られず、自由であるべきだ。そのことだけは、どうか忘れないでほしい」


 言葉が、ゆっくり内側へ落ちていく。誰かの代わりではない。わたしはわたしとして、ここにいていいのだと。


 最後に彼は、手袋をはめた手でそっとわたしの肩に触れた。革の感触が布地越しに伝わり、その温もりは言葉より雄弁に、託されたものの重さと安心を同時に運んだ。


「君にとっての人生は、まだこれからだ。その先には様々な出来事が待っていよう。楽しいことばかりではない。難しい選択を迫られることもあるだろう」


 ふっと息をつき、彼は再びわたしを見つめた。瞳の奥に、祈りにも似た光が宿っている。


「だが、私は信じている。君ならば、自らの力で道を切り開ける、とね」


 穏やかな笑みを見送りながら、噴水の水音が夕陽の下にくっきり残っているのを聞いた。その響きは、過去と未来を結ぶ細い糸となって、耳に残った。


◇◇◇


 別れ際の微笑みが、まだ心の奥に熾火の熱を残している。その余韻を抱えたまま、わたしは茉凜の見立てに従い、手早く買い物へ意識を切り替えた。


 市場通りは夕刻の喧騒に満ちていた。香辛料の匂いが鼻を掠め、露店の布が風に鳴る。人波の肩が触れ合うたび、現実の体温が押し戻してくる。


 メモの紙を折り直し、人混みを縫うように歩く。


《《ほら美鶴、あそこの店! 燻製肉かな、かなり安くなってるよ! それと、水筒の替えパッキンも買っておかないと!》》


 脳内で響く茉凜の快活な声が、感傷へ沈みかける意識を現実へ引き戻す。腰に下げた『ローズ・クレスト』が歩みに合わせて小さく揺れ、その重さが「今」を繋ぎ止めていた。


 すべてを揃え終えた頃、両手に食い込む荷の重みが骨までじわりと沁みてきた。肩で息を整えながら顔を上げると、建物の隙間から見える空は淡い飴色ににじみ、街全体がやさしく包まれている。その色に、眉間の力が少し抜けた。


 喧騒から逃れるように中央公園へ向かう。石畳の音が土の柔らかさへ変わり、噴水のある広場が近づくにつれて、空気の温度がわずかに下がった。


 古びたベンチを見つけ、どさりと腰を下ろす。荷物を地面に置くと、肩から抜けた重みが遅れて戻り、噴水のしぶきが夕陽を受けて淡い霧になって舞っていた。その湿りを眺めているだけで、張っていたものがほどけていく。


「まったく、買い物だけのつもりが、こんなに疲れる羽目になるなんて。ずいぶん濃い一日だったな」


 独り言が吐息と混じってほどけた。背もたれに身を預け、しばらく目を閉じる。


 視界を遮ると、音だけが残る。遠くで遊ぶ子どもたちの笑い声、露店の片付けのざわめき、風が葉を揺らす擦れ。重なり合って、ざらついた空気の中で不思議と心地よい。


「茉凜、今なら周りに人もいないし、お喋りできるよ」


 柄に触れると、冷たい金属が皮膚へ返り、それに応えるように声が頭蓋の内側へ静かに広がる。


《《お疲れ様、美鶴。いろいろあったもんね。別に無理して話さなくたっていいよ。焦らなくていいから、まずは休もう。寝る前にまたゆっくり話せばいいしさ》》


「うん、ありがとう。そうしよう」


 気遣いが、硬くなっていた神経を撫でていく。


 目を開け、空を見上げた。橙と紫が静かに溶け合い、夜を迎える前の刹那の色が広がっている。その色に心を奪われながら、ふと麻袋を見下ろした。


 中身は、明日の朝食のためのささやかな食材たちだ。ずっしり重い田舎風のパン、脂の乗ったハム、少し奮発した塊のチーズ。明日の朝、これらを使って『茉凜のオススメ』を作る――そんな日常のひとこまが、今のわたしには確かな成果に思えた。


 追うべき実利と、守るべき正体。思いがけず触れた過去の因縁。いくつもの糸が一度に引かれ、内側が少しだけざわめく。答えはまだ霧の中だ。


 それでも。


「……『ここ』に来て、いろいろと大変だけど。わたし、頑張ろうって思う」


 誰に聞かせるでもなく零した言葉が、小さな灯になって広がっていく。確信にはまだ遠い。不安も消えてはいない。けれど袋越しに伝わるパンの重みが、静かな熱としてわたしを支えていた。


 噴水の水音が耳をくすぐり、波紋となって内側のざわめきを洗っていく。風が頬を撫で、夕暮れの匂いが髪をすり抜けた。

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