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魔術師たちの午後

 白磁のカップから立ち昇る湯気が、午後の日差しを透かして揺らめいている。


 カチ、と触れ合うソーサーとスプーンの微かな硬質音。周囲の客たちが交わす談笑のさざめきは、薄い伴奏のように空間へ溶けていた。その穏やかさに身を委ね、わたしは向かいのカップに揺れる琥珀色をぼんやりと見つめる。指先に伝わる陶器の温もりが、張り詰めていた神経をゆっくりほどいていく。


 ふと、その心地よい微睡みを遮る気配があった。近づいてくる靴音が違う。忙しなく給仕をする若者たちの軽いリズムではない。重みと溜めのある、磨かれた革靴の響き。


 わたしは反射的に顔を上げ、視線を音の主へ向けた。


「失礼いたします」


 声の主は、銀を混ぜた髪をきちんと撫でつけた初老の男性だった。仕立ての良い燕尾服に身を包み、背筋をすっと伸ばした立ち姿。きっと、この店の支配人に違いない。柔和な目元の奥に、客を見定める鋭い光がわずかに宿っている。


 支配人はテーブルの脇で足を止めると、貴人に謁見するかのように深々と腰を折った。衣擦れの音が、存外に大きく耳に残る。


 向かいの席に座るグレイさんは、その恭しい態度に眉ひとつ動かさなかった。紅茶を口に運ぶ動作を止めず、ただ視線だけを支配人へ滑らせる。


 ――慣れている。


 わたしはその横顔を盗み見た。敬われることに、跪かれることに、この人は何も感じていないわけではない。ただ、それが日常の一部として染みついているのだ。目尻の皺ひとつ動かさず、けれど相手の存在はきちんと認めている。その一度の瞬きだけで、周囲の空気がわずかに重く沈んだ気がした。


「グレイ様、本日はお越しいただきまことに光栄に存じます。奥の特別室をご用意しておりますが、こちらでよろしかったでしょうか?」


 支配人の口から漏れた言葉に、わたしは息を呑んだ。特別室。そして、迷いのない「様」付け。予感はあったのに、目の前の老紳士がただの常連客ではないという事実が、支配人の態度で輪郭を持って迫ってくる。わたしはカップを持つ指に力を込め、そっとグレイさんの様子を窺った。


 窓から差し込む陽光が、彼の手元のシルバーのスプーンを白く光らせた。


「それには及ばんよ。今日はここでいい。この席のほうが庭の噴水がよく見えるからな」


 返された声は、あまりに平坦だった。権威を誇示するでもなく、謙遜するでもない。ただそこに在ることが当然であるかのような、静かな圧。


 支配人は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに仮面を被り直し、再び深く頭を下げた。


「左様でございますか。では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」


 一礼の余韻を残し、支配人が音もなく去っていく。後に残されたのは、先ほどより少し濃くなった沈黙と、腹の底でざわめく疑問の数々だった。


 グレイさんはカップを傾け、何事もなかったかのように紅茶を啜っている。その指先は長く、節くれだっているのに動きは滑らかだ。爪の形まで整っていて、手入れの行き届いた上品さが滲む。


 わたしは舌裏の渇きを覚悟して、意を決して口を開く。


「……失礼を承知でお尋ねします。グレイさん、あなたはいったいどのような立場のお方でいらっしゃるのですか?」


 問いかけは、思ったよりも震えていたかもしれない。彼は紅茶のカップをソーサーに戻すと、面白がるように口の端を上げた。白い髭に隠れた唇の形が、ほんの少しだけ歪む。ティースプーンで紅茶を軽くかき混ぜるたび、小さな渦が生まれては消えていく。


「はは……何者でもないさ。ただ、少しばかり長く生きてはいるがね」


 はぐらかされた。けれど、その言葉の響きには、嘘とは言い切れない重みが含まれている。どれだけの時間を積み重ねれば、これほど自然に、そして傲慢にならずに人の上に立てるのだろう。


 わたしは視線を落とし、カップの縁に映り込んだ自分の顔を見つめた。不安げに揺れる瞳が、ひどく頼りなく見える。


「まあ――」


 グレイさんはサンドイッチをひとつ摘まむと、視線をわたしに戻した。その眼差しは、先ほど支配人に向けたものとは違う。目尻の皺がふっと緩み、日向に出た猫のような温かさが宿っている。


「君が思っているほど特別ではない。むしろ、私から見れば君のほうが特別に思える」


 不意打ちだった。心臓が、とくんと一度だけ大きく跳ねる。


「わたしが……ですか?」


 裏返りそうになる声を必死に抑え、わたしは問い返した。彼は冗談を言っている風でもなく、機嫌を取ろうとしているわけでもない。口元には微かな笑みが浮かんでいるが、瞳の奥は静かに凪いでいる。ただ事実を述べるように、淡々と言葉を紡ぐ。


「そうだとも。このティールームにいるどの客よりも、君の存在は際立っているよ」


 その言葉は柔らかいのに重かった。胃の奥を、そっと押されるみたいに。


 ――もしかして、このウィッグのせいだろうか……。


 彼の瞳が、まっすぐにわたしを射抜いている。逃げ場のない視線に晒され、指先がじわりと熱くなるのを感じた。


 ――この人は、いったいわたしに何を見ているの? 何か知っているの?


 反論も肯定もできず、わたしは逃げるように紅茶を一口飲んだ。少し冷めはじめたラベンダーとローズヒップのブレンドティーが、柑橘とは違う柔らかな酸味を舌の上に残す。カップ越しの熱が冷えかけた指先を温め、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。


 窓の外では、噴水の水音が一定のリズムで続いている。高く上がったしぶきが風にほどけ、白い霧のように散っていった。


◇◇◇


 銀の三段スタンドが空になる頃には、わたしの緊張もずいぶん和らいでいた。満たされた胃袋と、甘い余韻。背もたれに体を預け、深く息を吐き出す。こんなふうに何もしない時間を過ごすのは、いつぶりだろうか。記憶の糸を手繰り寄せても、日々の忙しなさに埋もれて思い出せない。


 カチャリ、とカップを置く音が無音を打つ。


「満足できたかね?」


 グレイさんの声に、わたしははっと我に返った。彼の瞳には慈しみが宿り、その奥で、揺るがない知性が光っている。目元の皺が深くなり、唇の端がゆるやかに持ち上がっている。見つめ返すほど、腹の底がじんわり温かくなった。


「はい。本当に素晴らしいお茶の時間でした。こんな経験は、生まれて初めてです」


 嘘偽りのない本心を込めて、わたしは深く頭を下げた。彼は満足そうに目を細め、最後の一口を飲み干す。カップを置く仕草にも、音を立てまいとする気遣いが滲んでいた。


「それはよかった。君が楽しめたなら、なによりだ。私にできるお礼としては、ささやかすぎて、申し訳ないと思うがね」


 押し付けの気配がない。受け入れて、肯定して、そこに置く。言葉の端から、静かな余裕が滲んでいた。


「だが、こうした落ち着ける時間はとても大切だと思うんだよ。特に、君のように忙しくしているような人にはね」


 何気ない一言だった。けれど、その言葉は腹の奥に小さくない波紋を広げた。


「……そんなふうに見えますか?」


 無意識のうちに、声が少し低くなる。グレイさんは肩をすくめるように微笑んだ。首を傾げる角度、瞼を伏せる間。その一つ一つが、こちらの心を見透かすための道具に見えてくる。


「なにも体だけのことではないよ。心の話さ。私には君が少しばかり気負いすぎているように見える」


 喉の奥が、きゅっと鳴った。


「えっ……?」


 図星だった。誰にも言わず、笑顔の下に隠していたつもりだった焦燥。それを会って間もないこの老紳士は、いとも容易く見抜いてしまう。分厚いコートを剥ぎ取られたような心許なさが、背筋に貼りつく。


「そういう時は、こうした場所で一息つくのも悪くはないだろう?」


 不安に揺れるわたしを宥めるように、声が柔らかく落ちてくる。グレイさんの指先がソーサーの縁をなぞり、その動きに合わせるようにわたしの緊張もほどけていく。


「たしかに……仰る通りなのかもしれません」


 小さな吐息とともに、わたしは肯定の言葉を漏らした。認めざるを得ない。この人が作り出す空気の前では、どんな虚勢も意味をなさないのだと。


 ふと視線を逸らすと、窓の外の景色が目に入った。傾きかけた陽射しが、庭園の緑を黄金色に染め上げている。噴水の水音だけが、変わらぬリズムで時を刻んでいた。


 この穏やかな時間が、永遠に続けばいいのに。そんな叶わぬ願いが、ふわりと頭をよぎる。


 けれど、終わりは唐突に訪れた。テーブルに落ちていた光の角度が、わずかに変わる。それまで和やかだった空気が、ふいに張り詰めたものへと変わった気がした。


 グレイさんが、ゆっくりと姿勢を正す。背もたれから離れた肩が、静かに四角くなる。


「そうだ。私から君に一つだけ質問をしてもよいかね?」


 その声のトーンに、わたしは背筋が粟立つのを感じた。先ほどまでの慈しみに満ちた顔ではない。目元の皺は変わらないのに、瞳の奥の光だけが鋭く凝っている。知性と鋭さを兼ね備えた、一人の男としての顔がそこにあった。


 わたしは唾を飲み込み、小さく頷く。


「はい、どうぞ」


 彼はカップをテーブルの隅へと押しやり、組んだ両手を膝の上に置いた。その指が、わずかに組み直される。


 一拍の間。その数秒が、永遠のように長く感じられる。店内の話し声が遠ざかり、わたしの鼓動だけが耳の奥でうるさく鳴り響いた。


「君は――」


 彼の唇が紡ぐ言葉を、わたしは瞬きも忘れて待つ。グレイさんの瞳が、わたしの網膜の奥底にある何かを探るように細められた。白い眉の下で、深い皺がほんの少しだけ寄る。


「――魔術師ではないのかな?」


 その一言は、静かな湖面に巨大な石を投げ込んだかのように、わたしの世界を激しく揺らした。指先が震え、ソーサーの縁に触れる。


 冷たい陶器の感触だけが、ここが現実であることを教えてくれていた。

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