名前も知らない
翌朝、久しぶりに少し早く目が覚めた。
休んだだけで世界は案外簡単に戻るらしい。
そう思いながらゴミ袋を持って外へ出る。
隣の部屋の前に人影がある。 隣人だ。
ドアを背にし、紙コップを持ちながら外を眺めていた。
「あ、おはようございます」
「…おはようございます」
返事をすると隣人はいつものように少し笑った。
湊は少し言いにくそうにしながら言葉を綴る。
「あの、この前、ありがとうございました」
「スープですか、メモですか」
「…両方です」
「欲張りですね」
「助かりました。本当に」
隣人は一瞬だけ驚いた顔をしてすぐ柔らかく笑った。
「それならよかった」
風が吹く。
隣の郵便受けには何も入っていなかった。
表札もずっと空欄のままだ。
そこで名前を知ろうとした自分に湊は少し遅れて気づいた。
「今日は元気そうですね」
「少しだけ」
「少しなら十分です」
その言い方が妙にうれしくて
湊は返事に困った。
隣人は空を見たまま、なんでもない声で言う。
「春が来たら、ここも静かになります」
「今も静かじゃないですか」
「そうでした」
意味が分からず湊は苦笑いをした。
「じゃあいってきます」
「いってらっしゃい」
階段を下りながら湊はふと思う。
あの人の名前をまだ知らない。
それだけのことが
なぜか少し気になった。
一階まで降りてから理由もなく振り返る。
隣人がいた場所にはもう誰もいなかった。




