第2話「叱られたい令嬢」
「フェリシア。帝国の皇帝陛下が、お前に会いたいと仰っている。それも親書で」
父の言葉が、翌朝になっても頭の中で繰り返されていた。
書斎の机に広げた公爵家の帳簿に目を落としている。数字を追えば余計なことを考えずに済む。いつもの習慣だ。けれど今日は、数字の列が意味を結ばなかった。
アルヴァシア帝国皇帝。ルーヴェン・アルヴァシア。
名前は知っている。十九歳で即位した若き皇帝。先帝の負の遺産を引き継ぎ、六年間改革に取り組んでいるという話は、父の執務室で耳にしたことがあった。
そして、王族と同格の人間。
私は帳簿を閉じ、椅子の背にもたれた。
「王族との婚姻を結んだ場合、すべてのルートで処刑フラグが立つ」
あの文字列が、十年経った今でも鮮明に浮かぶ。前世で見た攻略サイト。乙女ゲーム「翠緑の誓約」。悪役令嬢フェリシア・クランメールの処刑条件。
五歳で前世の記憶を取り戻した時、最初に感じたのは恐怖だった。自分がゲームの中の、処刑される側の人間だという事実。それから十七年、私はその条件を回避するためだけに生きてきた。
王族に近づかない。王族と婚姻を結ばない。
縁談が来るたびに、相手と王家の距離を測った。近すぎる相手は全力で遠ざけた。嫌われるために口を開き、帳簿の粗を突き、使用人の配置に文句をつけた。
十五回。
全部うまくいった。嫌われて、破棄されて、私は生き延びた。
問題は一つだけ。
嫌われるために言ったことが、全部、正しかったのだ。
子爵家の果樹園。出荷時期を二週間ずらすよう指摘した。破棄後に実行されて、収穫高が一・五倍になった。
伯爵家の商会。帳簿の二重管理を見つけて指摘した。破棄後に是正されて、横領が止まり利益率が回復した。
侯爵家の農地。輪作の順序を変えるよう言った。破棄後にカイルがそれを試して、収穫が倍になった。
全部、前世の知識だ。経営コンサルタントとして働いた記憶が、帳簿を見るたびに勝手に動く。口が勝手に指摘する。嫌われたいだけなのに、結果として相手を助けてしまう。
「あなた、嫌われようとして感謝されてるのよ」
昨日のマルグリットの言葉が刺さったまま抜けない。
昼過ぎ、父の執務室に呼ばれた。
「先方への返答を決めたい。フェリシア、改めて聞く。会うか」
父は机の向こうで背筋を伸ばしていた。公爵として、枢密院の一角として、この縁談の重みを誰よりも理解している顔だった。
「お父様。一つ確認させてください」
「何だ」
「お断りした場合の影響を、率直に教えていただけますか」
父は一瞬だけ目を伏せた。
「皇帝陛下の親書による正式な打診だ。理由なく拒否すれば、帝国はそれを外交上の拒絶と受け取る可能性がある。クランメール家だけでなく、王国全体の対帝国関係に影響が出かねない」
「理由があれば」
「理由の内容による。だが、十五回の婚約破棄歴を持つ令嬢が皇帝の申し出を断る理由として、帝国が納得するものを私には思いつかない」
正直な人だ。父はいつもそうだった。政治家でありながら、娘に対しては嘘をつけない。
「お会いします」
父の目が僅かに見開かれた。昨日よりも早い返答だったからだろう。
「ただし、条件があります」
「言ってみなさい」
「お会いするだけです。それ以上は、私が判断します」
「無論だ。最初からそのつもりだ」
父は頷き、机の上の親書に手を伸ばした。返答の準備に入るのだろう。
私は一礼して執務室を出た。
廊下を歩きながら、頭の中で計画を組み立てていた。
会って、嫌われる。いつもの手順だ。
皇帝だろうと、人間だ。帳簿を見れば粗がある。粗を指摘すれば、大抵の人間は不快になる。ましてや皇帝ともなれば、自尊心は人一倍高いはずだ。面と向かって財政の問題点を突かれて、平気でいられる為政者はいない。
一度会って、口うるさいことを言って、嫌われて、終わり。
そのはずだった。
けれど胸の奥で、小さな声が囁いていた。
本当にそれでいいの。
十五回、同じことを繰り返した。十五回、嫌われることを選んだ。十五回、去った後で感謝された。
そして十五回とも、私は一人で書斎に戻った。
マルグリットが昨日言った言葉が、また浮かんだ。
「面白い話を聞いたのだけれど」
面白い話。十五回も婚約破棄された令嬢が、実はどの家も繁盛させていたという噂。子爵家。伯爵家。侯爵家。全部、私が去った後に花開いた。
それは私の望んだ結果ではない。嫌われたかっただけだ。助けたかったわけではない。
でも。
帳簿を見てしまったら、黙っていられない。数字の歪みを見つけてしまったら、指摘せずにはいられない。それは前世から変わらない、私の性分だ。
嫌われるために口を開いているのか。正したくて口を開いているのか。
その区別が、十五回を重ねるうちに曖昧になっていた。
夕暮れ時、書斎に戻ると、マルグリットがまた長椅子に座っていた。
今日は刺繍ではなく、手紙の束を膝に載せている。社交界の知人からの書簡だろう。叔母の情報網は公爵家の連絡官より余程広い。
「決めたの」
「会うことにしました」
「そう」
マルグリットは手紙を一通抜き出し、眼鏡越しに私を見た。
「あなたの過去の婚約先の話、少し整理してみたの」
「叔母様」
「聞きなさい」
有無を言わさぬ口調だった。叔母がこの声を出す時は、逃げられない。
「第三回、ヴァルトシュタイン子爵家。婚約中にあなたが果樹園の出荷時期について厳しく指摘。破棄後、指摘通りに変更して収穫高が一・五倍。第七回、ベルクハイム伯爵家。帳簿の二重管理を指摘。破棄後に是正して利益率が回復。第十五回、ロンバルト侯爵家。農地の輪作について口を出して、破棄後に収穫が倍」
マルグリットは手紙を膝に戻した。
「あなた、嫌われようとして帳簿に口を出して、結果として全部の家を立て直しているのよ。自覚はあるの」
「……あります」
「あるのね。じゃあ聞くけれど、それをやめられないのも自覚しているのかしら」
返す言葉がなかった。
やめられない。帳簿を見せられたら手が動く。数字の歪みを見つけたら口が動く。嫌われるためだと自分に言い聞かせても、指摘する内容は常に正確で、常に改善に繋がる。
「叔母様。私はただ」
「逃げたいだけ。知ってるわ」
マルグリットは眼鏡を外し、布で拭いた。
「でもね、フェリシア。逃げながら人を助けてしまう人間は、いつかどこかで足を止めることになるのよ」
それが今度の相手だと、叔母は言わなかった。言わなかったが、目がそう語っていた。
窓の外が暗くなり始めていた。
明日か、明後日か。帝国からの返答が届けば、面談の日程が決まる。
皇帝が来る。この公爵邸に。
帳簿は帳簿だ。数字は嘘をつかない。皇帝の国にだって粗はあるはずだ。それを見つけて、指摘して、嫌われて、終わらせる。
十六回目の計画は、もう頭の中で出来上がっていた。
けれど胸の底に、昨日から消えない重さがあった。
叔母の言葉ではない。父の心配でもない。
帝国からの使者が到着したという報せが、夜半に届いた。
ただし到着したのは使者ではなかった。
「皇帝陛下ご本人がお越しです。直接お会いして話がしたい、と」
侍女の声が、書斎の扉の向こうから聞こえた。
羽根ペンが指から滑り落ちた。
計画の前提が、音を立てて崩れた。




