第1話「十五回目の朝」
署名を終えた羽根ペンを、インク壺の横に置いた。
婚約破棄の成立を示す宮内府の書類。最後の欄に記された私の名前は、もうすっかり慣れた筆跡で書かれていた。
十五回目。
書斎の窓から差し込む朝の光が、乾いたばかりのインクを照らしている。春にしては冷たい風が薄いカーテンを揺らしていたが、私の心は凪いでいた。いつものことだ。
「終わりましたわ」
独り言のつもりだった。けれど背後の長椅子から、待ってましたとばかりに声が飛んできた。
「あら、今度はどんな理由?」
叔母のマルグリットが、刺繍の手を止めずに言った。朝からずっとここにいたのだ。書類が届く日を知っていて、わざわざ私の書斎に陣取っていたのだろう。
「相性の問題です」
「十五回全部それで通すつもり?」
針が布を刺す小さな音が、沈黙の中で妙に響いた。
私は答えなかった。答える必要がない。婚約破棄の理由は毎回違う。書類上は。けれど私が父に告げる理由はいつも同じだった。相性の問題。それ以上の説明はしない。できない。
マルグリットは刺繍枠を膝に下ろし、私の方を見た。
「カイル・ロンバルト。侯爵家の嫡男。穏やかで誠実で、あなたに対して一度も声を荒らげなかった。それでも相性が悪い、と」
「ええ」
「ふうん」
叔母は立ち上がり、書斎の棚から茶器を取り出した。自分で茶を淹れるのは叔母の癖だ。使用人を呼べばいいのに、と言ったことがある。「自分の手で淹れた方が美味しいのよ」と返された。
湯気の立つ杯が私の前に置かれた。
「面白い話を聞いたのだけれど」
「面白くない話でしたら聞きます」
「残念ね、面白い方よ」
マルグリットは自分の杯に口をつけ、一拍置いた。
「社交界で、あなたの噂が二種類あるの」
知っている。知っているが、叔母の口から聞くのは初めてだった。
「一つ目。十五回も婚約破棄された哀れな公爵令嬢。高望みしすぎて誰にも選ばれない我が儘な娘。クランメール家の恥さらし」
杯の中の琥珀色の液体を見つめた。この噂は三回目あたりから定着している。
「二つ目」
叔母の声が少しだけ楽しげになった。
「フェリシア・クランメールと婚約すると、なぜか家が繁盛する。破棄された後に、なぜか収益が倍になる。子爵家の果樹園。伯爵家の商会。侯爵家の農地。全部、彼女が去った後に花開いた」
胃の底が冷たくなった。
「……どこでそんな噂を」
「どこでもよ。最初はただの偶然だと思われていたけれど、十五回目ともなると偶然では済まないでしょう? 夜会で何人かに聞かれたわ。『クランメール家のお嬢様は、何か特別なことをされているのですか』と」
まずい。
私は目立ちたくないのだ。嫌われて、忘れられて、静かに公爵家の片隅で帳簿を整理していたい。それだけでいい。
「叔母様。その噂、広まっていますか」
「広まっているから言っているのよ」
マルグリットは杯を置き、刺繍枠を再び手に取った。
「で、次はどうするの。また縁談が来る前にお父様の内政補佐に戻って、書斎に籠るつもり?」
「そのつもりです」
「そう。でも残念ね」
針が布を貫いた。
「お父様が、新しい縁談を持ってきたわよ。今度は外国からですって」
手が止まった。
杯を持つ指先に力が入った。外国。それは王国内の貴族ではないということだ。王国内であれば、最悪でも侯爵家止まり。王家に近づく心配はなかった。
けれど外国の、しかも縁談を公爵家に持ち込むほどの相手となると。
「叔母様。相手は」
「お父様に聞きなさい。あたくしが言うことじゃないわ」
マルグリットは微笑んだ。ただしその目は笑っていなかった。叔母がこの顔をする時は、心配している時だ。
公爵邸の東棟にある父の執務室は、いつも紙とインクの匂いがした。
壁一面の書棚。重厚な樫の机。その向こうに座る父、アルベルト・クランメールは、枢密院の書類から顔を上げて私を見た。
「座りなさい、フェリシア」
「失礼します、お父様」
椅子に腰を下ろした。父の机の上に、見慣れない封蝋が押された書簡が一通。紺色の蝋に、双頭の鷲の紋章。
心臓が跳ねた。
アルヴァシア帝国の国章だ。
「単刀直入に言う」
父は書簡に手を置いた。
「縁談の申し出だ。帝国側から正式に打診があった」
「帝国の、どなたからですか」
声が平静を保っていることに、自分で驚いた。
父は一瞬だけ間を置いた。
「アルヴァシア帝国皇帝、ルーヴェン・アルヴァシア陛下だ」
空気が変わった。
皇帝。隣国の皇帝。王族と同格かそれ以上の、この大陸で最も高い地位にある人間。
頭の中で、十年前に読んだ文字列が蘇る。攻略サイトの、あの一文。
「王族との婚姻を結んだ場合、すべてのルートで処刑フラグが立つ」
処刑フラグに、最も近い相手。
「お父様」
「聞いている」
「お断りすることは」
「できる」
父は即答した。そこで一度、言葉を切った。
「できるが、帝国との関係を考えると、理由なき拒否は外交問題になりかねない。先方は正式な手続きを踏んでいる。連絡官を通じた打診ではなく、皇帝の親書だ。これを門前払いにすれば、クランメール家だけの問題では済まなくなる」
父の声には感情がなかった。政治家の声だ。
「フェリシア。私はお前に無理を強いたことはないつもりだ。十五回の婚約破棄、一度もお前を責めなかった。理由があるのだろうと思っている」
胸が詰まった。
「だが今回ばかりは、慎重に考えてほしい。断るにしても、理由がいる。それも帝国が納得する理由が」
沈黙が落ちた。
窓の外で鳥が鳴いていた。春の鳥だ。のんきな声だと思った。
十五回逃げてきた。十五回、嫌われることを選んで、相手の家を知らないうちに立て直して、そして去った。
次の相手は皇帝。
逃げ場が、狭くなっている。
「……お会いするだけなら」
自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
「会うだけでいいのね、お父様。それで先方が満足されるなら」
父は頷いた。安堵ではなかった。心配の色が、皺の深い目元に滲んでいた。
「会うだけでいい。それ以上は、お前が決めなさい」
執務室を出た。
廊下を歩きながら、頭の中で計算を始めていた。いつもの手順だ。会って、嫌われて、終わらせる。皇帝だろうと帳簿は帳簿。数字を見れば粗が見つかる。粗を指摘すれば嫌われる。十五回繰り返してきたことを、もう一回やるだけだ。
大丈夫。いつもと同じ。
そう言い聞かせた。
けれど足取りは、いつもより少しだけ重かった。




