89 ゆめまぼろし2
夢幻の雪原に邪悪な女神が現れ、俄に軍神の使徒が色めき立った。
皆、それぞれ余興を楽しむ笑みが消え――俺は強く鼻を鳴らした。
「ふん……マヌケが。今さら……」
そう吐き捨てるなり、俺は振り返らずに逃げ出した。
あの邪悪な女が現れたのだ。
喚び出したのは俺だが、ろくな事にならないのだけは分かる。これはパルプンテだ。
今でこそ俺は押しているが、もうこれ以上の策はない。少なくとも今は思い付かない。ここまでは上手くアウグストの油断を突けたがそれだけだ。
故に――三十六計逃げるに如かず。
ばたばたと粉雪を掻き分け、力の限り駆ける俺に、マッチ棒が並走するようにして駆け寄って来る。
「お、おい! 邪悪な子供! あれは……あれは、いったい何を喚んだのだ……!」
俺はマッチ棒の背中に飛び乗って叫んだ。
「説明は後だ! 死にたくなければ逃げろ、マッチ棒!」
「お、おう!!」
もう隠し玉はない。何も起こらなければそれまでだが、必ず何かが起こる。あの邪悪な女が何もしない筈がない。
「……」
背後に振り返ると、立ち尽くすアスクラピアの姿が点滅しているのが見えた。
俺の召喚に応じて現れたアスクラピアだが、ここがアルフリードの領域である事からして、流石に神としての権能を振るうのは難しいと見える。分け身の類と見て間違いない。
さて、どうなるか。
回復したアウグストが立ち上がり、首を擦りながらアスクラピアを見つめている。
その表情から険が抜け、忘我の表情になった。未だアウグストは、母に対する信仰を失ってない証拠でもある。人間を恨み、嫌っているが、アスクラピアに対する憎しみや嫌悪の念は感じない。
それでこそ、『真の勇者』だ。俺が殺すに相応しい。
さらばだ、アウグスト。お互い、生きていれば、また会おう。その時は必ず殺してやる。
せいせいと荒い息を吐きながら、マッチ棒が情けない声を上げた。
「お、おい、邪悪な子供。何処に行けばいいんだ?」
「とにかく逃げろ!」
母の戯れる指先が儚い虚空をふらふらと彷徨っている。
「……」
本来は不死者や悪魔を葬る術だ。だが、この場に於いてだけは必ず違う何かが起こる。
そして――
邪悪な母の指先が、デカい切株に悠然と腰を下ろしたままでいる軍神を指差したのが見えた。
垂れ込めた暗雲の隙間から赤い光が射して来て、その照準がアルフリードの胸を捉える。
――ベアトリクス!
絶対に何かするとは思っていたが、ここであの『殺し屋』を使うとは思ってなかった。
――『PHA』――
神殺しを目論んだ宇宙人が造ったとされる恐るべき『兵器』。
詳しくは、原子破壊銃『P・H・A』PHAsed energy rectification (位相エネルギー整流作用の略)との事だが、ベアトリクスの言っていた通り、説明されても全く理解できない代物だった。
「おい。止まれ、マッチ棒」
「あ、ああ……」
俺を背負い、必死になって夢幻の雪原を駆けていたマッチ棒だったが、既に疲労困憊だった。その場に蹲るようにして手を突き、荒い呼吸を繰り返す。
俺は、そのマッチ棒の背中に腰掛け、堂々と成り行きを見守る事にした。
――『人』は『神』を殺せるか。
その答えが出る。是非とも結果を見てみたい。それを知れるなら、この命を賭けてみるのも悪くない。
ベアトリクスは、理論上『神殺し』は可能だと言った。
これで、一つこの世界の謎が解ける。それを見逃す手はない。第十使徒『クラウディア』は神器と共に跡形もなく消滅したが、軍神はどうだろう。少なくとも無傷という訳には行かないと思いたいが……
胸にピタリと照準を合わされたアルフリードが、まるで俄雨に気付いたかのように天を見上げ――
次の瞬間、アルフリードは目を剥いたかと思うと、それまでの余裕をかなぐり捨て、転がるようにして照準から逃れたのを見て、俺は爆笑した。
「だはは! 見ろ、マッチ棒! 軍神様がビビってるぞ!!」
「お、おお……」
俺の椅子を務めながら、マッチ棒も驚愕して、その場を逃げ出した軍神の姿に目を剥いている。
母が飼い殺す訳だ。第八使徒ベアトリクスは危険過ぎる。
アスクラピアが天を差した指先をふらふらと回す。
するとPHAの照準が拡がり、軍神の九名の使徒を赤い光の中に収めた。
――今だ!
そう思った瞬間、曇天を切り裂いた銀の光が、軍神とその使徒九名を含んだ雪原を照らし、大爆発を起こした。
巨大なきのこ雲を起こしたその爆発は広範囲に及び、爆風に巻き込まれたアウグスト諸共夢幻を吹き飛ばし、俺とマッチ棒の二人も爆風に飲まれて吹き飛んだ。
凄まじい破壊力だった。
思い知ったかと俺は嗤う。人をナメるなと俺は嘲笑う。爆発の衝撃に揉まれ、身体中をズタボロにされながら俺は笑いに噎せた。
「付け上がるなよ、アルフリード」
だが、直撃こそ避けたとは故――
俺も死んだな、と覚悟した。本体の身体ならともかく、ガキの身体はこの爆風の衝撃に耐えられない。マッチ棒を巻き込んでしまった事だけは申し訳なく思う。
この分では、直撃を受けた軍神の使徒も無事ではないだろう。何名かは死んだかもしれない。
咄嗟に神力のバリアを三重に展開して衝撃に備えた俺だったが、爆発の衝撃は凄まじく、一瞬でバリアを紙切れのように打ち破り、まず右足が吹き飛んだ。続けて左手が消し飛び、更に灼熱の熱風で丸焼きになり――
まだだ。
爆風に吹き飛ばされながら、俺は身体を丸め、頭を庇って最大限、延命に努める。
続いて視界が焼け、左目が見えなくなった所で軍神の結界が割れた。
邪悪な母による手荒い救済措置だ。
俺は残った右手でなんとかマッチ棒を捕まえて、部屋に『跳んだ』。
跳べた。生き残った。
部屋に帰ればなんとかなる。
遠くからロビンの悲鳴が聞こえたような気がした。
俺の意識があったのはそこまでだ。
◇◇
……そして……明けない夜が訪れる……
俺は何とか生きていて、意識は半ば醒めない夢の中を彷徨う。
そいつは暗がりの中にいて、強情に背中を向けていた。
銀色の髪。小さな背中の少年。それは――ディートハルト・ベッカー。
だが、俺が知っているものとは少し雰囲気が違う。
殺気立っていて、激しい怒りに震えている。そいつは酷く苛立ったように言った。
「……またか。これ以上、お前に力を貸したくない。俺を便利使いするのはよせと何度言ったら分かるんだ……」
同じ声。同じ魂。ディートハルト・ベッカー。俺という名の少年。
「……なんの事だ……?」
何とか答えを返した俺の言葉は酷く掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。
「……?」
ディートハルトが、ゆっくりと振り返る。その顔は怪訝そうに眉間に皺が寄っていて――
そいつの瞳は、闇を溶かしたような黒だった。
俺と目が合って、驚いたように刮目した。
「なんだ、その様は。あぁ、言うな。また馬鹿をやったんだろう。俺は、治る見込みのない患者と、付ける薬のない馬鹿が嫌いだ。お前はその両方だ。最早、言葉もない」
こいつ、言いたい放題だな……
「……急げ……」
なんの事だ?
「……最近、なんだか酷く眠いんだ……声がどんどん遠くなって行く……表に出られる時間も減った……」
黒い瞳のディートハルト。俺の知っているディートハルトじゃない。
「……このままじゃ、『俺』は必ず失敗する。伝えたい事が……『俺』には知っておかねばならない事が……」
夢にしては質量を感じる。俺は、何を見ているのか。そもそも、こいつは誰だ。
俺は、こいつに会わなきゃいけない。
「……『俺』が完全に消えてしまう前に……『俺』たちは……」
「意味が分からない。詳細な説明を希望する」
その問い掛けに、黒い瞳のディートハルトは首を振る。
「そんな暇はない!」
なんだ、このクソ短気なガキは。若い頃の自分を見ているようで酷くムカつく。頭の一つも張ってやりたい気分だ。
……若い頃?
俺には記憶がない。なかった筈だ。それは既に蛇に喰わせた。なのに何故……
「急げ! まだ間に合う内に! 母の裏をかくにはそれしかない!」
「……」
「戻してやる。今の俺には、それだけしかできない。『聖痕』の効果が消える時、俺は俺でしかなくなる。そうなればアウトだ。複雑化した因果を解くには……」
なんだ、これは。
俺は誰と会っている。誰と話している。何の話をしている。
夢か幻か。恐らくは、その両方。
声が遠くなる。俺は『俺』に、大事な物を預けたままだ。それだけは分かる。
俺は急がねばならない。
複雑に絡み合った因果を解くには、失われた『記憶』が必要だ。
――『力』だけでは駄目だ。
俺には、複雑化したこのパズルを解く為の重大なピースが欠けている。
俺は急がねばならない。『真実』が消える前に。このままでは、『俺』という存在は不完全なままだ。
そこまで考えた所で、身体が急速に浮上するような感覚がして――
俺は覚醒した。




