死闘宗の殺戮手 14
「もうお礼参りですか」
アサメもさっと立ち上がる。身を切る冷たい風が二人の間を駆け抜けていく。
「負けっぱなしは性に合わないだろ」
悪戯っぽくにやりと笑うゴクロウを鋼の瞳が睨み上げた。
「負けてませんし。というか、どうやって追うんですか」
「手掛かりならある」
緋色の硬貨を指差す。
「自分の住所を硬貨に刻む暗殺者なんてどこにも居ませんよ。名刺じゃあるまいし」
軽快と響く金属音。アサメは呆れたように溜息を吐いて硬貨を弾き返した。
大きな掌がぱしりと難なく掴む。
「書いちゃいないが、教えてはくれる。手軽さでいえば一番簡単な方法でな」
アサメは眼を瞑って眉間に指を当てた。
なんとなくだが、彼の考えが読めてしまう自分に嫌気が差していた。
「一応、聞きましょうか」
「狗の面なら右に、漢字の面なら左に行くぞッ」
「街を練り歩きたいだけですよね、それ」
高笑いするゴクロウと、呆れが礼に来て何も言えないアサメは東の方角へ屋根を伝って行くのであった。
小一時間が過ぎる。
実に不思議な硬貨投げだった。
歓楽街の大通りに沿って瓦屋根を伝い、ゴクロウはあっちへふらふらこっちへふらふら、物見遊山と洒落込む。大都市の一角だ。とにかく建物が多く、途切れずに密集している。迷宮といっても過言ではないだろう。
だがアサメは首を傾げていた。
右か左か宣言して弾く。だが出る面が狗ばかりと偏っていた。地図もなしに明らかに一直線と目的地へ進んでいる。児戯と一蹴するには有り得ない占いが二人を導く。
その先は東部方面の、湯気が湧き立つ峡谷に並ぶ街。
冬だというのに雪が積もっておらず、地面が暖かい。起伏の著しい山間を上手く利用する形で平家家屋が埋没し、ずらずらと軒が連なっていた。
立ち込める湯気が、むっと鼻を突いて離れない。
「すごい、硫黄臭いですね」
「まさに煤湯だなあ」
淡い色合いの提灯があちこちに灯る、夜の温泉街に迷い込んでいた。
行き交う人々の着物や格好が舞燈町よりも落ち着き払っており、暖簾の奥から穏やかな談笑と食欲を唆る気配が漂ってくる。比較的古い建物ばかりだが、木造の出来は頑丈。深みのある濃い色合いに長い歴史が芯まで染みついていた。
夜にしては人通りの多い通りに出ると、アサメは石柱に刻まれた達筆の文字を読み上げる。
「旧煤湯本町、ですか」
街全体から威厳が感じられるだけの事はある。
「いかにも昔ながらのお偉い方が居座っていそうだな。さて、右か左か」
硬貨を弾いて掴み、開くとやはり狗の面。渡した本人も子供騙しのまじないに使われるとは思いもしていないだろう。
行こうか、と顎をしゃくるゴクロウに肩を竦めて追随するアサメ。
夜を照らすほの明るい大通りを往く。時刻はまもなく十時を回るかという頃。
土産物屋や渾々と湧く足湯の庵。狭い道の奥にひっそりと構える高級そうな屋敷宿。
そして特徴的ともいうべきは、湯宿と同じ程度に点在する大小様々な仏閣だった。曇天の垂迹者、雲仙四天名の石像があちこちに鎮座し、店を覗けば手乗りほどの大きさで象られた木像も並んでいる。
氷霧、廻彩、闇雨。
そして今、二人が見上げるはゴクロウの倍はあろうか。
「微妙に違いますね」
穏やかな香の煙に包まれた、灼雷の石像を見上げる。
「だな。もっとこう、おっかないというか。これはちょっと、慈愛に満ち満ちている気がする」
数ある垂迹者像の中でも特に多く並ぶのが、灼雷の女身像だった。
夜明けに本物と対峙した二人にとって、その御姿はいまだ鮮烈と脳裏に焼きついている。本物はこれよりもまだ大きい。
朱殷の瑕疵を全身に負い、欠けた左腕の傍らには金剛石の錫杖。
嵐の如き嶮しさと、神々しい美を惜し気もなく放つ雷の女神。
満身創痍の二人を救い、多くを語らずに去った理性の雷。
「何だったんでしょうね」
女身像を見上げていたアサメの視線はちらりとゴクロウの厚い胸元へ。朱殷の傷痕は稲妻によく似ていた。
灼雷が負う瑕疵と全く同じ痕を、ゴクロウはどんと叩いた。
「命の恩人であることには違いねえぜ。言いそびれたが、ありがとう」
ゴクロウは象に夜光礼を示し、アサメもそれに倣う。神仏習合の施された厳かな街並みは、そこに居るだけで自然と背筋が伸びる思いだった。
観光も程々に硬貨投げを続けて旧煤湯本町を往く。舞燈町とは違い、奥ゆかしくも探究心を擽られる街並みは歩いているだけでも充分に楽しめた。田舎者丸出しのゴクロウは忙しなく辺りを見回す。
「ひとっ風呂浴びてぐっすり眠りてえもんだ」
「やっぱりきちんと休めてないじゃないですか」
やや怒り気味で窘めるアサメに、ゴクロウは笑って返した。
「雰囲気だよ、雰囲気。あったら入りたくなるってもんだろ、風呂」
「よく分かりません。というか、私は大衆浴場、あまり好きじゃないんで」
「出た出た人見知り」
じろりと見上げるとゴクロウは舌を出しておどける。
「他人の垢が浮いた湯がヤなんです」
もっともな理由だな、とアサメは本心を隠した。
この鋭利な尻尾では人目に憚られる。
じろじろと見られるか、避けられるであろう事はありありと想像がついた。気にするだけ無駄だが、わざわざ嫌気の差す視線を受けたくはない。
そうか、とゴクロウは察するとまた硬貨を弾く。
「お」
手を開くと、ついに“闘”の文字を表に出した。
覗き込んでいたアサメは眉を潜める。
「この漢字。出たら出たで、妙にきな臭く感じるのは気のせいですか」
「気のせい気のせい」
硬貨が指し示す方の街角を曲がる。
なんの変哲もなく、さしたる特徴もない湯宿が立ち並んでいた。先ほどまで見回してきた格式高い宿と比べると等級が二回りは劣っている節すらある。その割には人通りが絶えないのは恐らく、料金が良心的で利用しやすい証だろう。
ほどよい雑踏の大衆通りをゴクロウとアサメは練り歩き、道が分かれていれば硬貨を弾く。人通りは穏やかで無粋な輩や粗暴な酔漢がたむろしている気配もない。
「こんな神聖な処に、死闘を吹聴する連中が潜んでいるとは思えませんが」
アサメの言う通りだ。
「あいつらはたしかに物騒だが、宗徒を名乗ってんだ。何らかの高尚な教訓に従って生きている。仏に通じるモノの一つや二つ、ありそうじゃないか」
硬貨を弾く。
「貴方くらいですよ。一言も口を聞かずに襲撃を仕掛けてくる行為が高尚だなんて言いのけるのは」
「来るもの拒まずってな」
手を開く。
闘の字が指し示す方向。気付けば外界から切り離された領域に入り込んでいた。
無骨な構えの山門が暗い夜に鎮座する。両脇に仁王像の姿は無い。
長年の経年劣化により山号の字は掠れ、判読不可能の荒涼とした寺。周囲から人の気配はすれど、この暗がりの先からは虚無ばかりが伝わってくる。
「いかにも、ですね」
境内を覗けば、仏寺の奥に灯る微かな光のみ。あとは闇ばかりが四方と広がっていた。
気味の悪い空気にアサメが二の腕をさすっていると。
「仏が留守なら出るだろうな。幽霊」
手首をぶらつかせるゴクロウが悪戯っぽく呟いた。間抜けな真似をじろりと睨む。
「それより怖いのが隣に居たわ」
「怒りますよ」
どこ吹く風とゴクロウは十段もない階段を登り、堂々と正面から入っていった。遅れてアサメが後に続くが、その足取りはやや頼りなかった。