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物語の塔  作者: ck
本能寺編
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第15話 雨の戦場

最後の槍が門を抜けても、リオはそこを見ていた。


足音が遠ざかる。

空いた場所へ、筵を抱えた兵が入ってきた。


「そこの二人。手が空いておるなら、これを持て」


リオとカイが、同時に振り向いた。


兵の向こうで、男が座り込んでいた。

片足を伸ばし、膝の上の布を押さえている。

さっき運ばれてきた男だった。


リオは信盛を捜した。

門の脇で、残った兵に指示を出している。


「手伝っても、いいですか」


信盛は、筵を見た。


「傷の手当てはできるか」


「いえ。運ぶことなら」


「ならば、それをやれ。四人とも、砦の外へは出るな。呼ばれたら、すぐに戻れ」


アリアが頷いた。

ツムギは先に男のそばへしゃがみ、伸ばした足に触れないよう、筵の端を広げた。


「こちらに座れますか。急がなくていいから」


男が腕を突っ張る。

アリアが背を支えた。


カイが、筵の向こう側を持った。


「そっちをお願いします」


リオは向かいへ回った。


「はい」


布の巻かれた膝を見てから、縁へ指をかける。

カイが一度、リオの手元を確かめた。


「持ち上げます。せーの」


思ったより重かった。

リオの肘が伸び、筵が傾いた。

男が息を詰める。


「少し、待ってください」


カイは足を止めた。

リオが持ち直すまで、そのまま待った。


「大丈夫です」


二人で、小屋の方へ歩いた。


何を持つか。

どこで止まるか。

そういうことなら、話せた。


男を下ろしてから、リオはカイを見た。

袖をまくった腕に、泥がついている。


会議室で閉じられた文庫本を、思い出した。


カイは筵の端を伸ばし、立ち上がった。


「もう一人、いるそうです」


「……行きます」


リオも、膝についた土を払った。


◆


小屋には、四人が横になっていた。


一人は自分で歩いてきた。

二人は、仲間に肩を借りていた。

足を傷めた男だけが、まだ起き上がれずにいた。


傷を見て回る兵に、アリアが水を渡した。

ツムギは頼まれた布を裂いていたが、途中で手が止まった。

歯を食いしばって引くと、思っていた方へ裂けなかったらしい。


「……これ、短くても使えますか」


兵が手を伸ばす。

ツムギは布を渡し、残りを膝へ置いた。

今度は、端をよく見てから引いた。


リオは水を運んだ。

桶を置くたび、指の付け根が痛んだ。


屋根はあったが、戸口が広かった。

横になった男の足の先まで、光が差している。

壁際には、まだ使っていない筵と布が積まれていた。


外へ出たところで、桶狭間、という言葉がまた浮かんだ。


義元を討ったこと。

少ない兵で、大軍を破ったこと。


それから、雨。


リオは空を見上げた。

雲はあった。

だが、どちらから雨が来るのかなど、分からなかった。


読んだものによって、戦いの説明は違っていた。

強い雨が降ったことは、覚えている。


小屋へ目を戻した。


あの男は、自分で立てない。

雨が吹き込んできてから、また運ぶことになる。


リオは桶を置き、信盛の方へ歩いた。


「雨の備えを、しておいた方がいいと思います」


信盛が顔を上げた。


「雨だと」


「強い雨と、風が。あの小屋では、中まで濡れてしまうかもしれません」


信盛は小屋を見た。

それから、空へ目を向ける。


「降ると分かるのか」


リオは口を開きかけた。


歴史の本に、そう書いてあった。

あなたの主君が勝つ日のことを、僕は読んだことがある。


言葉にはできなかった。


「……降らないかもしれません。でも、今のうちなら、運べます」


「なぜ、そう思うた」


リオは指を曲げた。

桶の縁を握った跡が、赤く残っていた。


「説明できません」


信盛は、リオを見た。

すぐには、目を離さなかった。


「おぬしと会うた頃、殿はまだ吉法師と呼ばれておった」


「はい」


「俺も若かった」


信盛が、自分の顎へ手をやった。


「おぬしだけ、そのままの顔で戻ってくる。久しいと言えばよいのか、昨日の続きなのか、分からぬ」


リオは何も言えなかった。


「気味の悪い男だ」


信盛はそう言ったが、リオを遠ざけようとはしなかった。

その目が、もう一度小屋へ向く。


「殿も、昔からそういうお顔をなさる。こちらにはまだ見えておらぬことを、もう確かめてきたような」


「僕は、信長様のようには」


「同じ働きをせよとは言うておらぬ」


信盛は小屋へ歩き、入口から中を見た。

積まれた筵を指し、兵に何か尋ねる。

答えを聞いてから、柱の縄を引いた。


「濡れてから動かすよりはよい。奥の荷を出せ。寝かせる場所を移すぞ」


兵が頷いた。


「布も中へ入れろ。風を受ける側は塞げ。ただし、出入りはできるようにしておけ」


信盛はリオへ向き直った。


「運ぶ手は足りるな」


「はい。僕たちで」


「ならば頼む。雨が来ぬでも、邪魔にはなるまい」


リオは頭を下げた。


信盛は、門へ向かう兵を呼び止めた。


「殿へ、こう伝えよ。那古野の客が、強い雨になると申しておる。こちらは備えをするとな」


リオは顔を上げた。


「信盛さん」


「何だ」


「僕は、あの人たちが濡れないようにと思って」


信盛は頷いた。


「それは聞いた。殿へ知らせるのは、俺の判断だ」


待っている兵へ、目を戻す。


「この日に、あの客が戻った。殿の吉兆やもしれぬ、とな」


兵が頭を下げ、門を出ていった。


リオは、その背を見送った。


寝ている男を、雨の当たらないところへ移す。

そこまでのつもりだった。


同じ言葉が、今は信長の方へ運ばれていた。


◆


荷を動かし、筵を敷き直した。


男を運び終えても、雨は降らなかった。

リオは空を確かめ、また水を汲みに行った。


桶を置くと、足を傷めた男が手を上げた。


「殿は、進まれたか」


「はい」


「そうか」


男は、戸口を見た。


「兄が、一緒に行った」


リオは器を差し出した。

男が受け取り、少しずつ飲む。


「戻ったら、ここにおると伝えてくれ」


「お名前を、聞いてもいいですか」


男が名を告げた。

兄の名も教えた。

リオは二つとも、口の中で繰り返した。


歴史の本で、見たことのない名前だった。


◆


初めに、屋根が鳴った。


リオが顔を上げたときには、土へ大きな跡がいくつもできていた。

次の瞬間、戸口の向こうが白くかすんだ。


外で声がした。

雨の音に、途中から聞き取れなくなる。


アリアが、立てかけた板へ両手をついた。


「縄が緩んでる。こっち」


カイが駆け寄った。

板を押さえる手が増え、その下へリオがしゃがみ込む。


縄の端を引いた。

濡れた指が滑る。


「もう少し、持っていてください」


「持っています」


カイの声が、すぐ上でした。


リオは縄を柱へ回した。

結び目を引き、ほどけないか、もう一度引く。


板が鳴った。

それでも、さっきよりは動かなかった。


「いいわ。離すわよ」


アリアが、少しずつ手を離した。

カイも離す。

三人とも、しばらく板を見ていた。


風が、屋根の上を通り抜けた。


リオは膝を伸ばした。

戸口の土は、もう水を含んでいた。

移す前に男の足があったところへ、雨が吹きつけている。


奥では、ツムギが器を押さえていた。

震える男の手と、自分の両手で包むようにしている。


「ゆっくり。こぼしても大丈夫だから」


男は、何か言った。

ツムギが顔を寄せた。


「聞こえなかった。もう一回、教えて」


リオは、戸口へ向いた。


何も見えない。

信長が、どこまで進んだのか。

出ていった伝令が、追いつけたのか。


雨が来た。

覚えていたことが、一つ起きた。


だから、次も同じだと考えたくなった。


だが、ここは誰かが書いた物語だった。

冒頭で一人の行動が変われば、結末まで変わる。

その話をしていたカイが、すぐ横で袖を絞っていた。


勝つはずだ。


思っても、口にはできなかった。

勝ったとしても、ここにいる男の兄が戻るかは知らない。


リオは空いた器を持った。

奥から呼ばれ、そちらへ戻った。


◆


雨の音が細くなってからも、しばらく誰も板を動かさなかった。


外へ出ると、軒から落ちた滴が首へ入った。

リオは肩をすくめた。

土に残った足跡へ、水が溜まっている。


アリアが隣へ出てきた。

袖を絞り、息を吐く。


「寒くない?」


「少し」


「中にいた方がいいわ」


そう言いながら、アリアも門の方を見ていた。


馬の音がした。


兵が走る。

リオも一歩出かけ、桶へ足をぶつけた。

中の水が跳ねた。


信盛が、来た男を迎えた。


男は何かを叫んでいた。

周りの声が重なり、リオには初め、分からなかった。


「義元を討ったぞ!」


今度は聞こえた。


リオは、桶の縁を握った。


信盛が男の腕をつかみ、何か尋ねた。

男が大きく頷く。


「殿は御無事か」


「御無事でございます!」


信盛が手を離した。

その顔から、ふっと力が抜けた。

すぐに振り向き、兵を呼ぶ。


小屋の中でも声が上がった。

横になっていた男が、片肘をついて起きようとする。

ツムギが駆け寄った。


「待って。立たなくていい」


自分も笑いながら、男の背へ手を入れている。


リオは桶を置いた。


「よかった」


口にすると、もう一度言いたくなった。


「よかった」


アリアが頷いた。

その向こうで、カイが小屋の中を見ていた。


リオは、男の兄の名を思い出した。

戻った者に聞かなければならない。


脇に置いた黒い本が、小さく震えた。


手を拭いてから、リオは表紙を開いた。

白かった頁へ、黒い線が広がっていく。


線が重なり、一枚のカードになった。


雨にかすむ旗の列。

手前には砦の門と、誰かを支える幾つもの腕が描かれていた。

顔は見えなかった。

筵の端を握った指だけが、妙にはっきりしていた。


今の戦を写した一枚に、自分のいた場所も入っていた。


リオは、自分の手を見た。

爪の間に、泥が残っている。


桶狭間で、義元が討たれた。

それを、知っていた。


雨の中で待っている時間が、こんなに長いことは、知らなかった。


「リオさん、そっちの布を取ってくれる?」


ツムギに呼ばれ、リオは顔を上げた。


「はい」


本を閉じ、乾いている方の布を取った。


◆


勝報が届いても、すぐに全員が戻るわけではなかった。


砦へ入ってくる者がいる。

人の名を聞き、また外へ走っていく者もいる。

リオは男に聞いた兄の名を、そのたびに尋ねた。

知らぬ、という答えが続いた。


足を傷めた男は、何度か尋ねたあと、戸口を見るだけになった。


濡れた筵を外へ出した。

泥のついた器を洗った。

小屋の中へ差していた光が、少しずつ横へずれた。


門の外が騒がしくなったとき、リオは空の桶を持っていた。


今度は、信長だった。


馬を下りると、すぐに信盛が近づいた。

二人は歩きながら話した。

信長の鎧にも、袖にも、乾きかけた泥がついている。


リオに気づくと、足を止めた。


「雨に備えよと申したそうだな」


リオは桶を下ろした。


「伝わったんですか」


「信盛の使いが来た。吉兆だそうだ」


信長が、信盛を見た。

信盛は小さく笑い、尋ねた。


「雨には遭われましたか」


「十分にな」


信長が袖を引く。

二人とも、少し笑った。


リオは信長を見た。

出ていくときより、声が掠れていた。

それでも、目はよく動いていた。

運ばれていく筵を見て、小屋へ顔を向ける。


「こちらは、どうだ」


「雨の前に、奥へ移せました」


「そうか」


信長は頷いた。


それだけだった。

雨を知らせたことが、戦に何をもたらしたのかは、語られなかった。


リオも聞かなかった。


「勝ったと聞いて、みんな喜んでいました」


言うと、信長の口元が大きく緩んだ。


「取ったぞ。義元を」


鎧の上から、自分の腿を一度叩く。


相撲で勝ち、振り向いた少年を、リオは思い出した。

今の声にも、隠しきれない喜びがあった。


「おめでとうございます」


「うむ」


信長は笑ったまま、信盛へ向き直った。


「義元の下におった者どもは、これから誰の話を聞くかのう」


信盛の顔が変わった。

笑みを収め、近くにいた兵を手で呼ぶ。


リオは、信長を見た。


「もう、次のことを?」


信長が振り向いた。


「今までできぬことが、できるぞ」


言い終える前に、呼ばれた兵へ手を伸ばした。

肩をつかみ、顔を近づける。

誰が、どこへ退いたのか。

どこまで、自分で見てきたのか。


報告を聞く信長の口元には、まだ笑みがあった。


リオは足元の桶を持ち上げた。


勝てば、あの顔は少し満たされるのだと思っていた。


少年だった信長は、相撲に勝つと、もう一度と言った。

物語を聞けば、ほかの話もあるのかと尋ねた。


今日は、義元を討った。


その先に何があるかを、まだ誰も話していない。

信長はもう、そちらへ身を寄せていた。


第15話・終

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