第一話
なろう公式企画「春チャレンジ2026 仕事」と
琥珀様の「春の異世恋推理'26」企画に参加します。
推理要素についてですが、殺人事件などは起きません。軽い謎解きです。
よろしくお願いいたします。
ファンガース地方のコゼット伯が治めるメイサの街は、実は旅人や商人達から密かに評判が良い。
街の規模はわりと大きく、立地は開けた草原で近くに川もあり、温暖な気候に恵まれている。
が、最も賛美される点はそこではない。他の街に比べて治安が比較的良く、安心して過ごしやすいことなのだ。
……ところが、当のメイサの住人にはそんな自覚はない。
他の大きな街はとても遠く、住人のほとんどは街から出たことがないか、あったとしても同じ伯爵領内の小さな農村くらいしか知らない。
それをよく知るのは街から街を渡り歩く旅商人である。
メイサに到着した彼らが旅の疲れを癒やそうと酒場に入った時。街の住人が酒を片手に悪口を言っているのを小耳に挟む。
曰く、「領主様は変わり者だ」とかなんとか。
「やれやれ。領主への愚痴が『変わり者』だけなのが、なんと幸せか知らないとは」
旅商人は小さく呟くのみ。
高い税に住人が喘ぎ酒を呑むことも叶わず、それどころか浮浪者が溢れるような街をいくつか見てきた彼にとって、ここは天国のように思える。しかしこの恵まれた環境を当たり前のものとして享受している住人たちに、余所の有様を語ったところでどうせ信じはしないだろう。
まあそれに。
領主が住民への税を軽くしてくれているお陰で、ここでは安く品物を仕入れられる。下手に喋っては自分の損になるだけ、と商人は運ばれてきた酒で言葉を喉の奥に流し込んだ。
さてしかし、そんなメイサの街の平和の一端を、ある人物が担っていることは旅商人達も知らない。
下町の一角にその店はある。
石造りの無骨な壁には窓ひとつなく、入口も人ひとりしか通れない狭さ。
中に入るとやや薄暗い真四角の部屋をカウンターが仕切っている。ランプの明かりに照らされているのは壁際にずらりと並ぶ鍋やヤカン、カップや木べらなどの小間物と、眼鏡をかけたひとりの老女。
「いらっしゃい」
かなり……やや大げさなほど嗄れた声が、気持ちのこもらぬ挨拶の言葉を紡いだ。
一方で、その言葉を受ける客は店主とは正反対だ。ふくよかな身体を揺らして発するは、溌剌とした声に歯切れのよい滑舌。ただし声音だけは涙に塗れている。
「聞いてよエディットさん! うちの旦那が浮気してんのォ!」
「おやおやローズ。どうしたんだい藪から棒に」
「絶対に浮気よ! 今日だって金目の物を集めて出かけたし、それにあの人が昨日帰ってきた時、服に甘い匂いがしたのよ!」
エディットと呼ばれた老店主は、くいと片眉を上げた。
「おやまぁ、それは聞き捨てならないねぇ。どんな匂いだい?」
「ええと、嗅いだことのない匂いだったわ。甘ったるい蜜のようで、でも香ばしいような刺激的な感じもして」
「ふん、そうかい」
エディットの銀縁眼鏡が、ランプの明かりで鈍く光る。
「……そういえば以前、酒場の主人が言っていたねぇ。東の方ではスパイスをすり込んだ肉を蜜がけにして焼く御馳走があるとか。主人が新しいメニューでも開発したんじゃないかい?」
「え? じゃあ女の匂いじゃなくて、酒場の料理の匂いってこと!?」
「さあねぇ。でもローズ、いつも酒場に金を落としてる客はあんたじゃなく、亭主の方さ。あんたが酒場に行って問い詰めたところで、本当の事を教えてくれるかはわからないよ。それどころか……」
老女の顔に刻まれたシワが、意地悪げにくっと深まった。
「あんたが浮気を確かめていると気づかれたら、酒場の主人は亭主に有利なウソをつくかもしれないねぇ」
「うう、じゃあなんて訊けばいいの?」
「普段酒場になんて行かないあんたと違って、私はたまに酒を飲みに行くから疑われないだろ。それとなく新メニューが出ていないか訊いておいてあげようかね?」
「まあ、助かるわ! ありがとうエディットさん!」
「お礼は口じゃなくお代で頼むよ」
エディットが片手をカウンターの上に出すと、女は脇に積んであった木の匙を物色しはじめた。子どもの口に合いそうなサイズの匙を選ぶと、エディットの手に銅貨を八枚乗せる。
「まいどあり」
「じゃあよろしくね!」
彼女は来た時と同じくふくよかな身体を揺らすが、表情と声は明るく……さしずめ雨上がりの虹といった雰囲気で……店を出ていった。
エディットは傍らの、年季の入った分厚い帳面をめくる。「R」のページを開き指で内容を追っていった。
「……」
そこに丁寧に書かれたメモを元に、ローズの夫に関する記憶を手繰り寄せる。だが思い出せない。
それもそのはず。元々彼女は彼を街で数回見かけたことしか無いのだった。
しかし、運命の神はエディットに味方する。
店の扉がギギ……と苦しげな声を上げて細く開かれると、その隙間に目当ての男の顔がぬっと現れたのだ。




