90. クラーケン討伐の凱旋、海辺の希望
小さな目の中に、水色の光がちらりと点った。
続いて、細い水魔法の射線が数条、俺に目を向け放たれてくる。
クラーケン自体は確かに水魔法の適性を持つ。
でも、元々の戦い方は強靭な肉体、触手、噛み合いの力に頼るものだ。魔法の素質は元々高くはない。
おまけに、今、全ての触手を土魔法で封じられている。
放てるのはせいぜい、最も基礎的な水系の射線 —— それだけだ。
威力は、頼りないほど乏しかった。
魔法障壁を張るまでも億劫で、俺はただ軽く手を振り、微かな魔力の波動を広げた。
「ぷ、ぷ、ぷ ——」
数条の水魔法射線が俺に届く前に、魔力の波動に掻き消されて、そのまま海水の中に溶けていった。
俺はゆっくりと降下し、クラーケンの目の前に立った。
まだ微かに震えているその海怪を、静かに見下ろす。
無駄な抵抗を続けさせないために。
反抗の意欲を完全に断ち切るために。
俺は手中のポセイドンの三叉戟を握り直し、迷いなく振り下ろした。
治癒されて生え揃ったばかりの触手たちへ向けて。
金色の戟刃が、ひやりとした光を水中に走らせた。
「ざ、ざ、ざ ——!」
鋭い断裁音が、海中に連続して響いた。
母上に癒やしてもらい、つい先ほど生え揃ったばかりの触手が、また全部、根元から落ちた。
紺碧の血が海水に広がっていく。
激しい苦痛と大量の失血に襲われ、クラーケンは悲鳴を上げる暇もなかった。
巨体がびくりと硬直し、瞳が白目をむき —— そのまま気を失って、完全に海底に沈んだ。
一切の抵抗能力を失った。
俺は海底に昏倒したクラーケンを見て、ゆっくりと息を吐いた。
治癒魔法は肉体の傷を癒やすことはできても、失われた大量の血までは補えない。
再生力がいくら高くても、これほどの失血には耐えられない。
ここで始末してしまえば、確かに話は簡単だ。途中で目を覚まして暴れる心配もない。
でも —— 少し考えて、俺はその考えを捨てた。
このクラーケンはライク郡沖でずっと暴れ回り、船をいくつも壊してきた。
漁師たちが海に出られず、人々の生活を崩す元凶ともなっている。
もし生け捕りにして港まで連れ帰り、公の場で裁ければ ——
苦しめられた民の心に一つの決着をつけられる。
それだけじゃない。エリクセン領の力を沿岸一帯、周辺の領地にまで知らしめられる。
民の信頼も領地の名声も —— 生け捕りのほうが、海底で斬り捨てるより、ずっと意味がある。
俺は迷いを捨て、ポセイドンの三叉戟を持ち上げた。
クラーケンの後頸部を狙い、ぴたりと合わせて、ゆっくり突き刺した。
穂先は肉身を貫いたが、急所には届かない。
ただ、無事に動けぬよう、しっかり貫き留めた。
全てを終えた俺は、三叉戟を掴んだまま身を翻し、上の海面へと向かって泳ぎ始めた。
水色の翼が水中で静かに揺れる。
昏倒したクラーケンを引きずりながら、一歩ずつ、水面へ向かって浮かんでいく。
俺は巨大な獲物を連れて、ゆっくりと水面を割った。
半空に舞い上がり、メイフラワー号の甲板へと降り立つ。
周囲で忙しく働いていた水夫たちが、その光景を目にした途端、一斉に手を止めた。
抑えきれない歓声が上がった。
さっき甲板で話しかけてきたオーレリアンが、特に力強く拳を突き上げていた。
満面に興奮をにじませて。
俺は船一番の太い麻縄を持ってくるよう命じた。
クラーケンを甲板の中央に据え、何重にも巻いて、がっちりと縛り上げる。
途中で目を覚ましても、絶対に抜け出せないように。
でも —— クラーケンという巨大な「荷物」が加わったことで、メイフラワー号は船体の浮き具合が一気に限界を超えた。
船長はすぐ判断した。
甲板に据えてある投石機をはじめ、固定された重火器を全て取り外し、海へ投げ捨てる。
一つ、また一つと、重い金属が海へ落ちていった。
船体が少しずつ浮き上がり、ようやく安全な喫水線まで戻った。
航行中、俺たちは三人で交代しながらクラーケンの番をした。
時々治癒魔法を当てて命を繋ぎ止め、水魔法で体表を潤し続けた。
港に着く前に干からびて死なないように。
俺はたまに舷側の手すりに凭れ、近づいてくる海岸線をぼんやりと眺めた。
これは全部 —— 本当のことなんだろうか。
夢の中でやったことと、何も変わらない気がする。
いや、違う。
これは夢じゃない。
それが実感として、じんわり胸に沁みてくる。
ユーナはよく、こっそり俺の隣に腰を下ろしてきた。
何も言わない。
ただそこにいて、静かに寄り添っていた。
俺はずっと、彼女が俺のことを純粋に頼りにしているだけだと思っていた。
信頼している年上の姉 —— いや、兄か —— そういう感じで。
…… まあ、今は考えないでおこう。
二日後。
メイフラワー号は夕陽を背に、ゆっくりとライク郡の港へ入港した。
船が完全に停泊する前から —— 俺は目の前の光景に目を見張った。
波止場に人が溢れていた。
男も女も、老いも若きも。漁師、職人、商人、子ども —— 町の住民がほぼ全員集まっているように見え
た。
全員が首を伸ばし、船の方向を凝視していた。
緊張、期待、怒り、そして信じ難さを宿した瞳。
帰航の途中、早馬が先に領地へ知らせを届けていた。
エリクセン家の令嬢と公爵夫人が自ら海へ出て、長年この海を荒らし続けたクラーケンを生け捕りにした —— と。
だから今日、町の者たちがこぞって集まった。
ずっと自分たちを海に出させなかった、生活を奪い続けた元凶の正体を、この目で確かめたかったから。
そして、その恐怖から解き放ってくれた者が誰なのかを、やはりこの目で見たかったから。
甲板に縛り付けられたクラーケンは、この二日間で満身創痍になっていた。
巨大な体はしわんで萎み、かつて猛々しく振り回していた触手は力なく垂れ下がり、目は半開きで、もがく力すらない。
俺と母上とユーナが交代で治癒魔法をかけ、水をかけ続けなければ —— とっくにカチカチのスルメになっていただろう。
俺たちは船から回収した、沈没したメアリー・ローズ号の太い主帆柱を立て直させ、瀕死のクラーケンをそこへきつく縛り直した。
屈強な水夫たちが数名がかりで担ぎ上げ、一歩一歩、この「戦利品」を船から降ろして —— ライク郡の全住民の前に、どんと立てた。
その瞬間、波止場全体が沸いた。
「あれが…… クラーケン?」
「そうだ!これが俺たちの生活を壊したやつだ!」
「息子がこいつに引きずり込まれたんだ…… 殺してやる!」
地鳴りのような怒号が一斉に湧き上がった。
ライク郡は海で生きる町だ。十軒のうち八軒は漁師か、水夫か、船頭か、海商だ。
クラーケンが現れてから、航路が絶たれ、漁船は出られず、商船は迂回し、町の暮らしは一気に疲弊しきった。
領主府の援助がなければ生き延びられない人も出てきた。
募り積もった不満、恐怖、怒り —— 全てが、この一瞬に爆発した。
罵倒する声、泣きじゃくる声、包丁や魚叉を握りしめて前へ前へと押し寄せる人々。
何もかもをめちゃくちゃにしたあの怪物を、己の手で引き裂いてやりたかった。
水夫たちがすぐに密集して人垣を作り、押し寄せる群衆を必死に押しとどめた。
鍛え抜かれた体躯と気迫で、なんとか台の前に誰も出させなかった。
俺は少し離れたところに立って、その光景を眺めていた。
胸の中が、少しざわざわする。
—— そのとき。
喧騒が空を割りそうになったそのとき、穏やかながらも、不思議と全員の耳に届く声が波止場に響いた。
「皆さん、少し聞いてください。」
母上だった。
仮設の高台にゆっくりと歩み上がり、拡声魔法で声を四方に届かせた。
台下はまだ騒然としていた。
でも少しずつ、視線が高台に集まっていく。
エリクセン家の公爵夫人、ヘレナだ —— と、一人が気づく。二人が気づく。十人、百人と伝わっていく。
罵声が消えた。
怒号が止まった。
全ての視線が、高台の上へと集中した。
母上はわずかに首を傾け、台下に集まった一つひとつの顔を視線でなぞった。
疲れた顔、虚ろな顔、絶望した顔、それでも微かに何かを望んでいる顔。
飾り言葉は一切なかった。
ただ静かに、はっきりと、一言一言丁寧に告げた。
—— クラーケンは、生け捕りにした。
今日から、ライク郡沖の海に、海怪はいない。
漁師は安心して海に出ていい。商船は安心して港に入っていい。
あなたたちの生活は、少しずつ元に戻っていく。
演説の最後、母上はゆっくりと腰の細剣を抜いた。
戦闘用ではない。
繊細な彫刻と飾りが施された、儀礼用の細剣だ。
領主の権威を象徴し、正義と裁断を体現する、儀式の剣。
母上は帆柱に縛られたクラーケンの前に歩み寄った。
嫌悪もなく、嘲りもなく。
ただ、恐怖に終止符を打つ者の、静かな厳かさがそこにあった。
「ライク郡のために。」
短く、静かな一言。
細剣がクラーケンの心臓の位置に静かに刺さった。
紺碧の血が、ゆっくりと流れた。
長い間この海域を苦しめ続け、数え切れない人の夜を恐怖で染めてきた海怪が —— かすかに身を震わせ、静かに力を失った。
ライク郡の空を覆い続けていた暗雲が、この瞬間、晴れた。
一拍の静寂。
次の瞬間 —— 波止場全体から、天を震わす歓声が炸裂した。
人々は抱き合い、笑い、泣いた。
恐怖が消えた。重圧が消えた。絶望が消えた。
代わりに —— 解放があった。安堵があった。未来への新しい希望があった。
俺は人混みの端に立って、その光景を見ながら、ひとりでに口元が緩んだ。
クラーケンの脅威がなくなれば、迂回していた商船がまた戻ってくる。
港がまた賑わいを取り戻す。
漁師が海に出て、商人が取引を再開して、経済が少しずつ息を吹き返す。
ライク郡全体がまた動き出す。
これは全部 —— これから少しずつ、実現していくことだ。
エリオット家に代々伝わる、あの話と同じだ。
翼を持つ天使が、人々の生存を脅かす海怪を打ち倒した。
怪物の肉を飢えた民に分け与えて、皆が生き延びられるようにした。
希望が、再び降り立った —— と。
その物語が今、現実の中で繰り返されていた。
水夫たちは刃物を手に、儀礼の荘厳さを保ちながら、クラーケンの肉を切り分け始めた。
その場にいる全ての郡民へと、一人ずつ、届けていく。




