89. 治癒と脅迫
この三日間のご理解、ご支援ありがとうございました。一応体調は回復しておりますので、更新しておきます。最後に、いつも支えてくれている人たちに感謝します。
ヘレナは振り返り、三叉戟の穂先に突き刺さったクラーケンを眺めた。
あれほど荒々しく暴れ狂っていた海の怪物も、今やかすかな息を絶やすばかりだ。
傷口からは濃い紺碧の血が絶えずじわりと滲み出ており、どう見ても瀕死の状態だった。
母上はわずかに眉を上げた。
まるで、こんな結末では少し物足りない —— そう思っているかのように。
「少しやりすぎてしまったかしら。」
ヘレナはさらりと一言漏らした。
まるで今まさに相手を死の寸前まで追い詰めていたのが自分ではないかのように。
俺は横に立って耳を傾け、心の中でそっとうなずいた。
—— 少しどころじゃないですよ、母上。
このクラーケンが今も生きているだけで、もはや奇跡と言っていい領域だ。
母上は左手を持ち上げた。
掌がほんのり輝き、柔らかく鮮やかな墨緑色の光が広がっていく。
治癒魔法だ。
光がゆっくりとクラーケンの全身を包み込む。
大きく裂き開いた傷口が、目に見える速さで閉じていく。塞がり、瘡蓋となり、新しい肉がじわじわと盛り上がってくる。
無残に断ち切られた触手の根元からは、新たな触手の芽が次々と姿を現した。
少しずつ伸び、少しずつ形を整え、気づけば捕獲前とほぼ変わらぬ姿に回復していた。
三叉戟で後頸を貫かれたままなのを除けば、外見はほぼ完璧なまでに元通りだ。
クラーケン自身も唖然とした様子で、しばらく身動きを止めた。
生え揃ったばかりの触手をそっと動かしてみる —— 持ち上げては下ろし、また持ち上げて。
何度も繰り返しながら、小さな瞳に驚きの色をあふれさせていた。
一秒前まで死にかけるほど痛めつけられていた相手が、次の瞬間には自分を癒やしてくれるなど、思いもよらなかっただろう。
俺はその光景を眺めながら、なんとなく嫌な予感が胸によぎった。
—— この流れ、絶対よくない。
案の定、母上がこちらに振り向いた。
にこにこと笑みを浮かべ、瞳の奥に悪戯めいた光を宿している。
「ねえ、娘。三叉戟をちょっと貸してあげるわね。」
ヘレナはそう言いながら、片手で三叉戟の柄を握り、そっと引き抜いた。
クラーケンが穂先からするりと離れる。
母上は片手のまま、自分の体の何倍もある巨体のクラーケンをひょいと持ち上げた。
顔色一つ変えない。
俺はもう慣れっこになっていた。
母上が人間離れした芸当をやってのけても、驚くより先に「またか」と思ってしまう。
「後でこの小さな墨イカを海に返してあげるから、あなた自身で捕まえて遊んでみなさい。」
俺:「……」
—— 遊ぶ?
母上の口ぶりはまるで、俺を打ち負かしかけた海の怪物などではなく、たった今水面からすくい上げた小さなペットであるかのようだ。
ヘレナはクラーケンのまだ微かに震える体をそっと掴んでから、ゆっくりと表情を引き締めた。
笑顔は瞬く間に消え、迫力のある面持ちに変わる。
じっとクラーケンを見据える。
声は大きくない。
だが全身が重圧に満ちていた。
「いいかしら、あなた。後で放してあげたら、できるだけ速く逃げることね。」
クラーケンの小さな瞳が、みるみる丸く見開かれた。
「もし娘が満足するまで遊べなかったら ——」
ヘレナは少し力を込め、掴む手をぐっと締めた。
「—— あなたをぶつ切りにして、タコ焼きにしてやるから。」
俺は傍らで聞いていて、目の端がぴくりと躍った。
—— タコ焼き……。
母上が、よりにもよってそんな現代の食べ物の名前を知っているなんて。
クラーケンも脅しの意味をはっきり理解したらしく、巨大な体がぴしりと固まり、慌てて生えたばかりの触手をぱたぱたと動かした。
—— ちゃんと聞き届けた、という意思表示だ。
「よろしい。わかったならそれでいいわ。」
ヘレナは満足そうに手を離した。
そのまま無造作に一投げ。
巨大なクラーケンが、小石を投げ捨てるような軽やかさで海へ放り返された。
「ぼちゃん ——!」
巨体が海面に叩きつけられ、大きな水柱が立ち上がった。
クラーケンは落水した瞬間、はっと我に返った。
八本の触手が勢いよく水をかき、一度も振り返ることなく、深海の奥へ全速力で逃げ去っていく。
先ほどより一倍以上速い。
「娘、受け取りなさい!」
母上が片手を振った。
ポセイドンの金色の三叉戟が、まっすぐ俺の元へ飛んでくる。
同時に、ヘレナの人魚形態が解けていく。
頬の鰭、腕や体を覆う濃い青の鱗 —— すべてがゆっくりと引き、あの白く滑らかな素肌が戻ってきた。
いつもの母上の姿に元通りだ。
俺は手を伸ばし、三叉戟をしっかり受け取った。
ずしり、と重みが手に伝う。
戟身には淡い水属性の魔力が流れ、俺の精霊魔力とかすかに共鳴している。
伝説級武器は基本的に主を選ぶものだ。
一度契約を結べば、他者はまず扱えない。無理に触れれば魔力の反動を受けることさえある。
だが俺と母上は血を分けた親子で、魔力の性質が似通っている。
加えて母上が意図的に制限を解いてくれたおかげで、俺はかろうじてこの三叉戟を扱える。
熟練度は母上の足元にも及ばない。
それでも、扱えるだけでも伝説級武器の威力は普通の武器の比ではない。
俺は深く息を吸い込んだ。
ブリュンヒルデの槍を収め、強く握り締めていた手を緩める。
ゆっくりと自身の魔力を三叉戟へ注ぎ込んでいく。
淡い青の魔力が戟身を伝って広がっていく。
最初は少し詰まるような感触があった。
だがしばらくすると、三叉戟が俺を認めてくれたかのように、魔力が自然に体内を巡り始めた。
続いて肌先にふわりと冷気が漂い始めた。
俺は視線を落とした。
濃い青の鱗紋が手首からじわじわと腕に這い上がる。肩、腰腹、下半身へと広がり、やがて細やかで美しい鱗が下半身を覆い尽くした。
頬の両側がわずかに膨らみ、小さな鰭が現れた。
目立つほどではない。
だが俺が半人魚の状態になった確かな証だ。
意外にも、不快感も拒絶反応も一切感じなかった。
背中で光魔法によって凝縮されていた白い翼も、三叉戟の水属性魔力に染まり、じわりと淡い青へと変わっていく。
以前より大きくしなやかで、水中での動きに適した姿に見えた。
「行ってきなさい、やりすぎないでね。」
母上が空中でにっこりと手を振る。
「わかった、母上。」
俺はうなずき、迷わず地を蹴った。
ポセイドンの三叉戟を抱えたまま膝を曲げて蹴り出し —— 一気に海へ飛び込んだ。
「ぼちゃん ——!」
海水が俺を包み込んだ瞬間。
以前感じていた拒絶感や息苦しさとはまるで別物だ。
三叉戟の加護と半人魚の力のもと、俺は水中を自在に動き回れる。
視界も澄んで鮮明だ。
耳に届くのは、水流がそっと流れる穏やかな音だけ。
魔力が体内で安定して循環し、水の抵抗が大きく和らいでいく。空中にいるより身が軽く感じるほどだ。
先ほどクラーケンが逃げていった方向を確かめ、俺は素早く深海へ潜っていった。
深く潜り続けてしばらく。
魔力探知を起動して標的を捉えようとしたその時 ——
下方から濃密な墨汁が一気に噴き上がってきた。
周囲の水域が瞬く間に真っ黒に染まる。
手を伸ばしても届かぬ、完全な闇に包まれた。
俺の胸がふっと冷え込んだ。
—— 奇襲だ!
クラーケンは逃げていなかった。
墨の中に身を潜め、俺を待ち伏せしていたのだ。
ほぼ反射的に、俺は魔力探知を全力で起動した。
水属性の加護を受けている今、魔力探知の範囲は大きく広がっている。
周囲の水流のわずかな揺らぎまで、くっきりと脳裏に映し出された。
次の瞬間 —— 漆黒の墨の中から、太い黒い影が弾丸のように飛び出してきた。
猛烈な勢いで、まっすぐ俺の胸へ迫りくる。
触手だ!
俺はすぐさま背後の淡青い翼を羽ばたかせ、横へ全力で身をかわした。
三叉戟の加護があっても、水中の抵抗は空気よりはるかに大きい。
翼を動かす速さはどうしても落ちる。
急所だけは辛うじて避けられた。
だが触手の端が左の太腿をかすめ、ぱしりと一撃を与えた。
ちり、と軽い刺痛が走る。
俺は視線を落とした。
太腿に三センチほどの切り傷が刻まれていた。
淡い金色の血が海水に溶け込みながら、ゆっくりと広がっていく。
幸い、ポセイドンの鱗の加護のおかげで傷は深くない。
表皮だけの傷だ。初級治癒術をかければすぐ塞がる。
俺は軽く眉をひそめた。
—— このクラーケン、思ったより肝っ玉が大きいな。
あれほど母上に痛めつけられ、癒やしてもらったくせに、海に戻った途端、俺に奇襲を仕掛けてくるとは。
俺のほうが母上よりなめやすいと見込んでいるらしい。
俺の口角がわずかに上がった。
心のどこかで、むしろ少し面白くなってきた。
逃げずに海底に潜んで待ち伏せするなんて…… 悪くない。
俺は触手が飛んできた方向へ向け、光属性の魔力光線を連続で放った。
「どん、どん、どん ——!」
白い光線が漆黒の墨の中で鮮やかに際立つ。
周囲の珊瑚礁に次々と命中し、岩礫が四方へ飛び散った。
光線はクラーケン本体には届かなかった。
だが隠れ身にしていた珊瑚の茂みを大半打ち崩し、周囲の水流を乱した。
「—— なるほど、あそこに隠れていたか。」
魔力探知が正確にクラーケンの居場所を捉えていた。
残った珊瑚礁の下に身を縮め、地形を盾にしている。
見つけたからには、もう逃がさない。
クラーケンも気づいたらしく、自分の居場所が露見したことを察した。
隠れるのを諦め、巨大な体をゆっくり珊瑚礁の下から這い出させ、再び逃げ出そうとした。
—— だが数歩動いたところで、動きがぴたりと止まった。
俺には上空からはっきり見えていた。
海底の砂礫がざわめき、細かい砂や砕石が自然とクラーケンの触手に吸い付いていく。
最初はうっすら一層に過ぎなかった。
俺が魔力を注ぎ続けるにつれ、触手に絡みつく砂礫がどんどん増し、重みを増していく。
まるで全ての触手に重い枷を嵌められたようだ。
土属性の拘束魔法だ。
木属性の蔦の檻より発動に時間はかかる。
だが一度定着すれば、拘束力は金属性魔法に次ぐ強さを誇る。
力任せに暴れるタイプの魔物を抑え込むには、最も適している。
クラーケンは焦って暴れ狂った。
触手を振り回して砂礫を振り払おうとする。
だが一振りするごとに、普段の何倍もの力を消費する。
重い砂礫の層が幾重にも絡みつき、やがてクラーケンは完全に海底に縫い止められた。
触手は動かない。
巨大な体躯が無力に海底に伏している。
絶望したように、大きな体を揺らしながら上空を見上げた。
そこには俺がいた。
ポセイドンの三叉戟を手に、ゆっくりと降下してくる。
白金色の長髪が水中になびき、淡青い翼が静かに揺れている。
鱗が深海の微かな光を受け、うっすらと輝きを放っていた。
クラーケンの瞳には、今の俺が先ほどの母上よりずっと恐ろしく映っていることだろう。
俺は翼で身の姿勢を整え、クラーケンの真上でぴたりと静止した。
珊瑚礁から完全に引きずり出された巨体が、俺の視野に丸ごと収まる。
もう逃げ場はない。
完全に追い詰められたクラーケンが、絶望の咆哮を上げた。




