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スキルAIがチートすぎて俺、使われてる気がするんだが?  作者: 暁の裏


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第41話 「三人旅——アイが見た景色」

 忘却の大図書館へ向かう朝が来た。


 王都の屋敷の玄関先には、旅立ちを見送るために全員が集まっていた。


 リナリア、エリア、リリィ、エリーゼ、桜、そしてレイナルド。


 話し合いの結果、俺とアイとシルヴィアで向かうことになった。


 空は晴れ渡り、柔らかな朝日が石畳を金色に染めている。


 俺、シルヴィア、そしてアイの三人が旅立つ。


「では、行ってくる」


 俺が言うと、全員の表情が引き締まる。


 リナリアが一歩、俺の前に進み出た。


「悠真さん……」


 リナリアの青い瞳が、ほんのりと潤んでいる。


「リナリア……?」


 俺が首を傾けると、リナリアは俺の胸元を軽く掴んだ。


 そして、静かに顔を上げ——


 柔らかな感触が、俺の唇に触れた。


「……っ」


 周囲から、どよめきが起きる。


 リナリアは数秒後にゆっくりと離れ、ほんのり頬を赤く染めながら微笑んだ。


「必ず、帰ってきてください」


「……ああ」


 俺が呆然と答えると、エリアが次に近づいてきた。


「悠真さん……」


 エリアが俺の頬に、そっと頬に口づけをする。


「気をつけて、行ってきてください」


「……ありがとう、エリア」


「お兄ちゃん、私も」


 続いてリリィが目をウルウルさせながら見てくる。


 俺は少しかがんでリリィに頬を差し出す。


 リリィは頬に優しく口づけする。


「お兄ちゃん、絶対帰ってきてね!」


「ああ、絶対帰るよ、リリィ」


 リリィが涙をぽろぽろとこぼしながら笑う。


 次に、桜が俺の前に立った。


「悠真さん……いつも、ありがとうございます」


 桜の黒い瞳が揺れている。


 桜は、少し背伸びをして、俺の頬に唇を寄せた。


「どうか……ご無事で」


「桜……ありがとう。留守を頼んだよ」


「はい。お任せください」


 桜が深くお辞儀をする。


 最後に、エリーゼが腕を組んでレイナルドを見た。


「レイナルドも、しておく?」


 エリーゼが悪戯っぽく微笑む。


「は?」


 レイナルドが、珍しく目を見開く。その端正な顔に、かすかな動揺が走っている。


「見ていたでしょ? みんな、悠真にお別れのキスをしていたわ。騎士として、主の旅立ちを見送る儀式、してみる?」


「……私は、男ですが」


「それがどうかしたの? 忠誠の証よ。帝国の古い騎士道には、主君の出陣に際して騎士が口づけで誓いを立てる習わしがあるとか聞いたわよ」


「……今、作りましたね、その設定」


「さあ、どうかしら?」


 エリーゼが肩をすくめる。


 レイナルドは珍しくわずかに眉をひそめた後、咳払いをした。


「……エリーゼ様は、相変わらずご冗談がお上手で」


「冗談じゃないけれど」


「結構です」


 レイナルドがきっぱりと言い放つと、エリーゼがころころと笑った。


「ふふ。顔、少し赤いわよ、レイナルド」


「……赤くなどなっておりません」


「そう? いつもより若干血色がよく見えるけれど」


「それは、今日の気候がやや温かいせいです」


「なるほど、気候のせいね」


 エリーゼが余裕のある笑みを浮かべる。


「ふふ、冗談よ」


 エリーゼは真剣な眼差しに戻り、俺の前に立った。


「必ず、生きて戻ってきなさい。私が許可するまで、死ぬことは禁止よ」


「わかった。禁止か、了解」


 俺も思わず苦笑する。


 エリーゼが俺の頬に、迷いなく口づけをした。


「行ってらっしゃい」


「ありがとう、エリーゼ」


「旦那様、お顔が赤いですよ♪」


 アイが楽しそうに言う。いつの間にか俺の隣にいた。


「……うるさい」


 俺は咳払いをして仕切り直した。


「みんな、留守を頼む。帰ってきたら、また一緒に飯でも食おう」


「はい! 待っています、悠真さん」


 全員が手を振る中、俺たちは王都の門を出た。




 王都を出て、大陸の東へ。


 忘却の大図書館は、帝国を横断した先、終焉の海の彼方にあるようだ。


 問題は、目的地の正確な場所が羅針盤に示されているものの、周辺の地理が全く不明なことだ。どこへ転移すればいいかわからない以上、《空間転移》は使えない。


「結局、歩くしかないな」


 俺がそう言うと、シルヴィアが申し訳なさそうに言った。


「わたくしが龍の姿になって飛んでいければよいのですが……羅針盤の示す場所が海の彼方ということは、飛んでもどこに降りればいいかわかりませんし、道中

 で情報を集めながら進んだ方がよさそうです」


「ですね。それに、久しぶりにゆっくり歩くのも悪くないと思います」


 今日も天使のような白い服を着て、翼をわずかにはためかせている。


「アイ、羅針盤の状態は?」


「はい、旦那様」


 アイは羅針盤を受け取って覗き込む。


「針は、ほぼ真東を指しています。ベルガリア帝国の東端、港町のあたりまで向かえば、そこから先は船か水路を使うことになるかもしれません」


「海の中に図書館があるんだろ?不思議だよな、本濡れないのかな」


「恐らく何かしらの保護がされていると推測します。それに《ウォーター・マスター》があれば、水中でも問題なく活動できますから心配いりませんよ♪」


 アイが自信満々に言う。


「お前は本当に頼りになるな」


「当然です。わたしは旦那様のパートナーですから」


 アイが胸を張る。


 シルヴィアが微笑んだ。


「アイさん、今日は道中ずっと実体化しているのですね」


「はい。三人での旅ですし、せっかくだからずっとみなさんと一緒にいたくて。それに、わたしも歩いて旅をしてみたかったんです」


 アイは妖精サイズになり時折スキップしながら、石畳の道をとことこと歩く。


「……なんで小さくなったんだ?歩きにくいだろ?」


「それに遅くなるんじゃないか?」


「旦那様の速度に合わせます。わたしの身体能力は旦那様より高いですから、問題ありません」


「それはわかったが、見た目が……」


 傍から見れば、旅人二人と小さな羽の生えた少女が並んで歩いているように見える。かなり奇妙な光景だ。


「可愛いと思います、わたし」


「……否定はしない」


 俺がぼそりと言うと、シルヴィアが小さく笑った。


「ふふ。それにしても、帝国を横断するとなると相当の時間がかかりますね」


「ああ。宿を取りながら進もう。あまり急ぎすぎると体にも障る」


「旦那様、一つ良いですか?」


 アイが俺を見上げる。


「何だ?」


「シルヴィアさん。旅の間、色々なことを教えてもらえますか?」


「……何を教えればいいのですか?」


「食べ物のこと、景色のこと、人々の暮らし……わたし、地図上の情報やデータは持っていますけど、実際に歩いて見て感じることが、まだ少なくて」


 アイが少し照れたように言う。


「旦那様と一緒に、同じものを見て、同じものを食べて……それを、わたし自身の記憶にしたいんです」


「……そうかですか、わかりました」


 シルヴィアは微笑む。


「教えますよ。わたくしもアイさんから色々教えてもらっていますし」


「シルヴィアさん……♪」


 アイの顔がぱっと輝く。俺も優しい目で二人を見ていた。


「では、わたくしも見習って、道中で色々お話ししましょうか」


「それがいい。シルヴィアは帝国のこと詳しいか?」


「ある程度は。龍族として長く生きてきましたから、土地の話や昔の歴史なら」


「じゃあ、道中でいろいろ聞かせてくれ。俺もこの世界のことをまだまだ知らないことが多いし」


「喜んで、悠真様」


 こうして、三人の旅が始まった。


 帝国の大地は、ルストニア王国とはまた違う景色を持っていた。


 王国が緑豊かな丘陵地帯を持つのに対し、帝国は広大な平野と壮大な山脈が続く。石造りの街道は整備が行き届いており、行き交う商人や旅人も多い。


「帝国は、道が広くて整っていますね」


 アイが足元を見ながら言う。


「帝国は軍事力を重視しているから、軍が行き来しやすいように道を整備したんです」


 シルヴィアが説明する。


「なるほど……軍の移動速度と道路幅には相関があるんですね」


「ああ。俺のいた世界に古代ローマという文明があったんだが、道路を整備することで軍を素早く展開できるようにしていた」


「ローマ……」


 アイが難しい顔をしながら頷く。


「旦那様の世界の歴史は、わたしが持つデータの中でも特に興味深いです。全てが魔法なしで成立していたのに、こんなにも複雑な社会を築いた……」


「魔法がない分、知恵で補ってきたんだろうな」


「ふふ、旦那様らしい考え方ですね」


 道端に咲く赤い花を見て、アイが立ち止まった。


「旦那様、この花、なんですか?」


「シルヴィア、わかるか?」


「これはベルガリア帝国に自生するルバーナという花です。秋になると群生して、まるで赤い絨毯のように見えます。昔、帝国の初代皇帝がこの花を国花に定め

 たそうですよ」


「へえ……」


 アイはしゃがみ込んで、花に顔を近づけた。


「……綺麗です」


 その横顔が、どこか柔らかかった。


「アイ、摘んでいくか?」


「いいんですか?」


「構わないだろ。一本くらい」


 アイはそっと花を一本手に取り、大切そうに持った。


「……ありがとうございます、旦那様」


 シルヴィアが微笑む。


「アイさんは、本当に感情が豊かになりましたね」


「そうですか? 自分ではよくわからないのですが……」


「ええ。最初にお会いした頃と比べると……全然違います。今のアイさんは、普通に人として自然な感情を持っています」


「旦那様との旅が、わたしを変えてくれたんです」


 アイが俺を見る。


「……いや、お前が自分で変わったんだよ」


 俺がそう言うと、アイは少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに微笑んだ。


「……そうかもしれませんね♪」


 街道沿いの小さな村で、俺たちは昼食を取ることにした。


 村の食堂で、麦のスープとパンを頼む。


「旦那様、これ、何ですか?」


 アイがスープを覗き込む。


「麦のスープだ。この地方の定番らしいぞ」


「食べていいですか?」


「アイ、お前そう言えば……食事できるのか?」


「一応できますよ。消化はしませんが、味はちゃんとわかります」


「なら食べてみろ」


 アイはスープをひとさじ口に運んだ。


「……」


「どうだ?」


「……少し塩が強いですが、麦の甘みが豊かで、ほっとする味です」


「俺も同じ感想だ」


「シルヴィアさんはいかがですか?」


「おいしいですよ。体が温まりますね」


 三人でのんびりと昼食を取っていると、隣の席の農夫が俺たちに話しかけてきた。


「旅人さんかい? どちらに向かうんだい?」


「帝国の東の方まで」


「東か……それは遠いな。東の方は最近、少し物騒らしいぞ」


「物騒?」


「ああ、商人仲間から聞いた話だがな……ヴェルナクルという町で、最近不思議な事件が続いているとか。旅人は気をつけるといい」


「そうですか。ありがとうございます」


 俺がお礼を言うと、農夫はにっこりして立ち去った。


「旦那様、ヴェルナクルという町ですが……」


 アイが小声で言う。


「知ってるか?」


「はい。帝国東部の交易路に位置する中規模の町です。古い遺跡の近くにあり、観光地としても知られています。羅針盤の示す方向に合致します。道中、立ち寄

 ることになるでしょう」


「物騒な事件か……」


「立ち寄るとなれば、無関係ではいられないかもしれませんね」


 シルヴィアが少し心配そうに言う。


「まあ、その時に考えよう。まずは進まないとな」


 帝国の大地を三日かけて東へと歩き続けた。


 道中では、様々なことがあった。




 二日目の朝、アイが夜明けの空を見て「空の色が変わっていく……これが夜明けというものですね」と静かに言ったこと。




 二日目の夕方、シルヴィアが古い龍族の伝承を語ってくれたこと。千年以上前、この帝国の地にも龍族が暮らしていたが、人間と協定を結んで山の奥へと退い

 たという話。


「龍族は、人間と共に生きることを選んだのですが……長い時間の中で、次第に距離が生まれていきました」


「寂しいな」


「ええ。でも……」


 シルヴィアが優しく微笑む。


「悠真様のような方と出会えて、また共に歩けることが、わたくしには何よりの幸せです」


 アイがそれを聞いて、しみじみと言った。


「シルヴィアさんも、わたしも、旦那様と出会う前より、今の方がずっと豊かです」


「……お前ら、俺を照れさせるのが好きだろ」


「大好きです♪」


 三日目、川沿いの道を歩いていたとき、アイが突然立ち止まった。


「旦那様」


「どうした?」


「川の音が……気持ちいいです」


 アイが目を閉じる。


 せせらぎが穏やかに聞こえる中、アイは静かに立っていた。


「……データで知っている音と、実際に聞こえる音は全然違う……」


「そうだろ?」


「はい。データは情報ですが……これは、感じるものですね」


 アイがゆっくりと目を開けた。


「旦那様、ありがとうございます」


「礼を言うのはこっちの方だよ」


「……旦那様は、いつもそういうことを言いますね」


 アイが少し拗ねたように言う。


 シルヴィアが笑った。


「お二人とも、本当に仲がよいですね」


「シルヴィアは?」


「わたくしですか? いつも、うらやましいな……と思って見ています」


「うらやましい?」


「ええ。あのくらい素直に、悠真様に気持ちを伝えられたら……」


 シルヴィアがふわりと顔を赤らめた。


「わたくし、少し不器用なので……」


「そんなことない。シルヴィアはずっと俺たちのことを支えてくれている。それが十分伝わってるよ」


「悠真様……」


「それに、一緒に旅できてよかったと思ってる。本当に」


 シルヴィアは、しばらく黙ってから、静かに言った。


「わたくしも……本当に、よかったです」




 三日目の夜、俺たちは街道沿いの小さな宿場町で一夜を明かした。


 宿の部屋は三人分確保したが、夜更けにアイが俺の部屋にやってきた。


「旦那様、眠れないんですか?」


 扉を開けると、アイが立っていた。


「いや、少し考えごとをしていた。お前こそどうした」


「星を見ていたんです。宿の窓から。でも一人で見ていると、少し寂しくなってしまって」


 俺たちは宿の外に出て、星空の下に立った。


 帝国の大地は平野が続くため、遮るものがなく、空が広い。星がびっしりと広がっており、まるで空全体が光っているようだった。


「綺麗だな」


「はい……」


 アイが上を向いたまま言う。


「旦那様の世界では、星はどう見えましたか?」


「都市の近くだと、光が多くてあまり見えなかった。でも、田舎に行ったりキャンプに行ったりすると……こんな感じで見えたな」


「旦那様は、星が好きでしたか?」


「昔は、星を見て、あそこにも誰かがいるのかなと考えていた。宇宙のどこかに、別の世界がある気がして」


「それが、本当にあったわけですね」


「そうなったな」


 アイが少し笑う。


「旦那様が転生してきてよかったです。そうでなければ、わたしと旦那様は出会えなかったですから」


「お前が言うと、俺の死がポジティブになるな」


「そうですよ、旦那様の転生は、始まりなんです。終わりじゃなくて」


 俺はその言葉を、少し反芻した。


「……お前は、うまいことを言うな」


「旦那様から学んだんです。言葉の使い方を」


 アイが俺の袖を少しだけ掴む。


「明日も歩きますよ。寝てください」


「わかった。お前も寝るんだぞ」


「わたしはあまり眠らなくてもいいんですが……でも、旦那様が眠るまで一緒にいます」


「過保護だな」


「そうです」


 結局、アイは俺の部屋の窓際に座って、俺が眠るまでずっといた。




 翌朝起きたら、アイはすでに朝食の下調べを済ませていた。


 四日目の昼下がり、目的地であるヴェルナクルの町が見えてきた。


 なだらかな丘の上に広がる中規模の町で、古い石造りの建物が立ち並んでいる。町の中心には、何百年も前に建てられたという時計塔がそびえ立ち、周囲には

 市場の賑わいが見えた。


「あれがヴェルナクルか」


「はい。帝国東部最大の交易路の要衝です。古代遺跡の影響か、学者や研究者も多く住んでいます」


 アイが羅針盤を確認する。


「羅針盤は引き続き東を示していますが……この先、終焉の海まではまだ距離があります。今日はここで休息を取りましょう」


「そうだな。旅の疲れもあるし、情報も集めたい」


 俺たちは町の門をくぐった。


 門番が通行証の確認を行い、俺たちを通してくれる。帝国の町は、ルストニア王国よりもやや検問が厳しい印象だ。


「この町、活気がありますね」


 シルヴィアが周囲を見回しながら言う。


 確かに、市場の通りには色とりどりの店が並び、商人の呼び声が飛び交っている。香辛料の香りが漂い、干し魚や焼きたてのパンの匂いが混ざり合う。


「観光地らしいな。遺跡目当ての旅人も多そうだ」


「旦那様、あれを見てください」


 アイが指さす。


 通りの一角に、古い石柱が立っていた。苔むした石柱には、古代文字が刻まれている。


「古代文明の遺物か」


「はい。この町周辺には、古代遺跡が点在しているそうです。わたしが持っているデータでは、かつてここ一帯に高度な古代文明が栄えていたとのことです」


「忘却の大図書館も、その古代文明と関係があるのでしょうか」


 シルヴィアが考え込む。


「おそらく、そうだろう。女神アストレアが封印した場所だからな」


「なるほど……いずれにせよ、この地には歴史の深みがあります」


 俺たちは町の中心部へと進んだ。


 時計塔の近くには、美しい石造りの噴水広場があった。広場の周囲には、土産物屋や食堂が並んでいる。観光客らしい人々が噴水の周りで休んでいた。


「せっかくですし、少し観光しましょうか」


 シルヴィアが提案する。


「賛成です!」


 アイが目を輝かせる。


「わかった。宿を確保してから、少し回ってみよう」


 近くの宿屋に三人分の部屋を確保した。宿の主人は愛想のいい中年男性で、「遠くからのお客さんはいつも大歓迎ですよ」と笑顔で迎えてくれた。


 荷物を置いた後、俺たちは町の観光に出た。


 まず向かったのは、町の外れにある古代遺跡の見学スポットだった。


 丘の上に崩れかけた石造りの神殿の跡地があり、そこからは町全体と東の平野が一望できた。


「綺麗……」


 アイが目を細める。


 東の方角に、かすかに光を反射するものが見えた。


「あれは……終焉の海か?」


「おそらく。距離的にはまだ遠いですが、天気が良いので見えているのでしょう」


 シルヴィアが静かに言う。


「あの海の彼方に……忘却の大図書館があるんですね」


 アイが東を見つめたまま言う。


「行けば、お前の手がかりがある」


「……旦那様は、怖くありませんか?」


「怖い?」


「わたしが更なる進化を果たして、神になるかもしれないということ……今のわたしとは、全然違う存在になるかもしれないこと」


 アイが俺を見る。


「少し……不安です」


 俺は少し考えてから答えた。


「怖くないと言えば嘘になる。でも……」


「でも?」


「どんな形になっても、お前はお前だと思ってる。アイはアイだ。神になろうと何になろうと、それは変わらない」


「……旦那様」


「それに、シルヴィアも一緒だ。俺たちがついてる。一人じゃない」


「そうですよ、アイさん」


 シルヴィアが優しく微笑む。


「わたくしは……あなたを守るために、ここにいます」


 アイは、しばらく黙って風に吹かれていた。


「……ありがとうございます。二人とも」


 その目に、うっすらと光るものが見えた。


「泣くな、アイ。まだ着いてもいないのに」


「泣いてません」


「目が光ってるぞ」


「これは光の加減です」


「そうか」


 俺とアイのやりとりを見て、シルヴィアが静かに笑った。


「では、もう少し観光しましょうか。せっかく来たのですし」


 俺たちは遺跡から町に戻り、市場を歩いた。


 アイは露店の品物一つひとつに興味を示し、売り子に次々と質問をして笑いを取っていた。


「この香辛料はどこから来るのですか?」


「帝国の南の方さ、お嬢ちゃん」


「使い方を教えてもらえますか?」


「いいよ。肉料理に少し振りかけると……」


 露店の店主が笑顔で教えてくれる。


「旦那様、これください」


 アイが振り返る。


「お前、金持ってるのか?」


「持っています。旦那様が渡してくれていた分がありますから」


「俺が渡した覚えないんだが……」


「以前、旦那様が『何かあれば使え』と言ってお財布を預けてくださいましたよ」


「そんなこと言ったか?」


「言いました」


「……覚えてないが、まあいい。好きなの買えよ」


「ありがとうございます♪」


 アイが嬉しそうに香辛料の小袋を購入した。


 シルヴィアも、干し薬草のセットを買い込んでいる。


「シルヴィア、それは?」


「道中の食事に使います。わたくし、料理を担当していますから、調味料は大切なんです」


「頼りになるな……」


 市場を進むと、奥の方に古道具屋があった。


「旦那様、あれ……」


 アイが食い入るように見ているのは、古い機械式の時計だった。ぜんまい仕掛けの懐中時計で、精緻な彫刻が施されている。


「気になるか?」


「はい……地球の時計に似ています。旦那様の世界のものが、この異世界に?」


「古代文明が作ったものかもしれないな。それとも……転生者が持ち込んだか」


「……この世界は、案外広いんですね。いろんな時間が交差している」


 アイが時計を眺めながら言う。


 俺は店主に頼んで、時計を手に取って見せてもらった。


「百年ほど前の古い品でね。どこから来たかは誰も知らないんだよ」


「……こちらに置いておいてください。いつか分かる日が来るかもしれません」


 俺が言うと、店主は不思議そうな顔をしたが頷いた。


 アイはそれ以上時計のことを言わなかったが、市場を離れるとき、一度だけ振り返った。


 市場を一回りした後、俺たちは広場の噴水近くのベンチに腰を下ろして休んだ。


 焼き菓子を買って三人で分け、ゆったりとした時間を過ごす。


「こういう時間、好きです」


 アイが焼き菓子をかじりながら言う。


「戦いもなく、ただゆっくり過ごすだけ……」


「非日常よりも、日常の方が大切だったりするからな」


「旦那様は、日本でもこういう時間を過ごしていたのですか?」


「どうだろうな……当時はあまり意識していなかったけど、友達と放課後に駄菓子屋に寄ったりとか……そういうことが、今思えば大切だったなと思う」


「駄菓子屋……」


 アイが目を閉じて考え込む。


「わたしのデータの中にあります。小さな店で、安い菓子類を売る……子供たちが集まる場所」


「そう。お前が言うような、特別じゃない時間を、みんなで過ごす場所だな」


「この広場も、似ていますね」


 アイが噴水を見る。


 子供たちが噴水の周りで走り回り、老人たちがベンチで話し込んでいる。


「ええ、似ています」


 シルヴィアが言った。


「この町が、ずっとこのように穏やかでいられるように……わたくしたちも、しっかり使命を果たさないといけませんね」


「そうだな」


 俺が空を見上げたとき——


 町の広場に、けたたましい声が響いた。


「た、大変だ!!」


 商人風の男が、息を切らして広場に飛び込んできた。


「東通りで、人が死んでいる!! 殺されている!!」


 広場が、一瞬静寂に包まれる。


 そして、人々のざわめきが広がった。


「殺された?」


「どこだ!?」


「衛兵を呼んでくれ!!」


 俺たちは顔を見合わせた。


「行くか?」


「当然です」


 アイが立ち上がる。


「行きましょう、悠真様」


 シルヴィアも頷く。


 俺たちは騒ぎが起きている方向へと走った。


 東通りの路地裏に、人だかりができていた。


 衛兵が数人やってきており、通行人を遠ざけようとしている。


 俺たちが近づくと、衛兵の一人が手を挙げた。


「通れません。下がってください」


「何があったんですか?」


「殺人事件です。関係者以外は……」


 衛兵の一人が俺たちをまじまじと見た。


「……あなた方は旅人ですか?」


「はい。今日この町に着いたところです」


「そうですか……」


 衛兵が少し困ったような顔をする。


 その時、奥から上位の衛兵が出てきた。壮年の男性で、帝国の衛兵の制服に金のバッジをつけている。隊長格のようだ。


「どうした」


「旅人の方々です、隊長」


 隊長が俺たちを見た。


「旅人か……見たところ、場数を踏んでいる御仁とお見受けするが」


「……まあ、少しは」


「率直に申し上げましょう。私はこの町の衛兵隊長、ヘルマン・グラーフと申します」


 男が正式に名乗る。


「こちらの事件……正直、私どもには手に余っているのです。もしよろしければ、力を貸していただけませんか」


「こういうのやってみたかったんです。詳しく聞かせてください」


「ありがとうございます。では、こちらへ」


 ヘルマン隊長が俺たちを現場へ案内した。


 路地裏の奥、石造りの壁の隅に、一人の男性が倒れていた。


 年齢は四十代前後、商人風の服を着ている。死因は一目でわかった。鋭利な刃物による刺傷だ。


 アイが素早く状況を分析し始める。


「旦那様、遺体の状況……」


「死亡推定時刻は二時間から三時間前。刃傷は一箇所、背中から心臓付近を貫いています。即死に近い状況です」


「ほかに外傷は?」


「ありません。財布も残っています……物盗りではないですね」


「この男性は?」


 俺がヘルマンに尋ねる。


「マティアス・ゾルという宝石商人です。帝国北部から来ており、この町に宿を取って一週間ほど滞在していました」


「一週間……ということは、ある程度この町に詳しかったわけですね」


「ええ。商売の関係者も多かったようで」


「実は……これで三件目です」


 ヘルマンが重い声で言った。


「三件目?」


「はい。先月と先々月にも、同じような状況で二人の商人が死亡しています。いずれも刃物による即死、財布はそのまま。被害者は全員、宝石や貴金属を扱う商

 人です」


「連続殺人か」


「そうです。しかし、手がかりがほとんどなく……私どもの力では、犯人の特定に至っていません」


 ヘルマンが深刻な顔で言う。


「旅の方々にこのようなことをお頼みするのは恐縮ですが……どうか、ご助力をいただけないでしょうか。今夜の宿代と食費はこちらで負担いたします」


「費用は結構です」


 俺が答える。


「協力します。ただし、俺たちは明日にはこの町を発たなければなりません。今夜中に、できる限りのことをします」


「ありがとうございます……!」


 ヘルマンが頭を下げた。


 宿に戻った俺たちは、夕食を取りながら今日わかった情報を整理した。


「三件とも、宝石や貴金属を扱う商人が被害者。財布は手つかず。刃物による即死、背後から」


 シルヴィアが事件の概要を整理する。


「背後から刺しているということは……被害者は犯人を警戒していなかったか、気づかなかったか、どちらかですね」


「あるいは、信頼していた相手だったか」


「なるほど……」


 俺が腕を組む。


「商人が被害者に絞られているのも気になる。物盗りの線は消えたとして……何か、商人たちに共通する利害関係があったのか?」


「三件目のマティアス・ゾルという男性ですが……」


 アイが言う。


「一週間、この町に滞在していた。何の用で?」


「ヘルマン隊長の話では、宝石の取引のため、とのことでした。しかし……」


 アイが続ける。


「旦那様、わたしがデータを解析した結果、三人の被害者は全員、同じ取引所に出入りしていた可能性があります」


「根拠は?」


「三人の死亡場所が、いずれもその取引所から歩いて五分以内の場所です。偶然とは考えにくい」


「取引所……宝石の取引所か?」


「この町には、『黄金秤亭』という宝石・貴金属の専門取引所があります。帝国東部で最大規模の取引所で、各地から商人が集まります」


「なるほど。そこに何か関係があるということか」


「可能性が高いと思います。ただ……」


 アイが少し考え込む。


「もう一つ、気になることがあります」


「なんだ?」


「三人の被害者は、全員、それぞれ別の地域から来た一見さんです。この町に土地勘のない者ばかりが狙われている」


「つまり……?」


「路地裏に誘い込みやすい、ということかもしれません。土地勘のない旅の商人なら、少し道を変えても気づきにくいですから」


「なるほど……では、犯人はこの町の地理を熟知している人物、ということか」


「その可能性が高いです」


 シルヴィアが静かに口を開いた。


「背後から刺しているということは……犯人は、被害者と並んで歩いていた、または後ろから近づいても怪しまれなかったということではないでしょうか」


「同行者……あるいは、一緒に取引をしていた相手」


「取引の後に、路地で……」


 俺たちは沈黙した。


「ただ、こういう言い方もできます」


 アイが指を立てる。


「三人の被害者は全員、この取引所と取引した後に殺されています。取引が完了した、しかし後になってから偽物だと気づいた……告発する前に、口を封じられ

 た」


「なるほど。つまり、犯人は偽石詐欺に関与しており、それを知る商人を消そうとしていた」


「その可能性が高いです」


「だとすれば……」


 シルヴィアが静かに続ける。


「犯人は詐欺の関係者で、かつこの町の地理に詳しい人物。被害者と二人きりで路地に立ち入ることが自然にできる立場の人間……」


「信頼されていた人物、ですね」


 アイが頷く。


「誘い込んだのではなく、自然に路地の方へ誘導できた。商談の帰り道に、少し近道しましょうと言うだけで……知らない土地の商人なら疑いません」


「恐ろしいな……」


「明日、黄金秤亭を調べに行きましょう」


 アイが言う。


「ただし、旦那様。今夜は休んでください。明日に備えて」


「お前は心配性だな」


「旦那様の体が一番大切なので」


「……わかった。休む」


 翌朝、俺たちは早めに起きて黄金秤亭へと向かった。


 ヘルマン隊長も同行している。


 黄金秤亭は、時計塔の近くにある石造りの堅牢な建物だった。看板には黄金色の秤が描かれており、扉は頑丈な鉄製だ。


「まずは現場を改めて確認したい」


 俺がヘルマンに言うと、彼は頷いた。


「三件の被害場所を、改めてご案内します」


 三か所の現場を順番に回った。


 アイは各現場を丁寧に調べながら、俺の耳元で分析を伝えてくる。


「旦那様、一件目と三件目の現場には、足跡の傾向に共通点があります。地面に残った痕跡から……犯人は体格のいい人物で、歩き方に特徴があります。右足に

 体重をかける癖がある」


「右足をかばう歩き方か? 古傷か?」


「可能性があります。また……」


 アイが一件目の現場の壁を指差す。


「ここ、壁に微かな引っかき傷があります。ナイフを持ったまま壁に触れた跡のように見えます」


「犯人の手の高さが推測できるか?」


「概ね百七十センチ前後の人物と推測できます」


「よし。次は取引所に話を聞きに行こう」


 黄金秤亭に戻った俺たちは、所長に会わせてもらった。


 所長はヴィルヘルム・ハインという五十代の痩せた男性で、衛兵隊長を伴った俺たちを見て、少し緊張した様子だった。


「三人の被害者が、取引所に出入りしていたかどうか、確認をさせてください」


 ヘルマンが問う。


「……そうです。三人とも、こちらを利用されていました」


 ヴィルヘルムが認める。


「取引相手は? 三人に共通する相手はいましたか?」


「それは……守秘義務がありまして……」


「三人が亡くなっています。今後も犠牲者が出るかもしれない」


 俺が静かに言うと、ヴィルヘルムは逡巡した後、口を開いた。


「……三人は、いずれも『ドルフ石工商会』との取引を行っておりました」


「ドルフ石工商会……?」


「この町で石材と宝石の仲介を行っている商会です。代表はヴォルフ・ドルフという人物で……最近、帝国東部の遺跡から産出する特殊な宝石を扱っているようで、各地の商人が取引を求めてやってきています」


「その取引で、何か問題は?」


「……実は」


 ヴィルヘルムが声を落とす。


「三人の商人はいずれも、ドルフ商会との取引で、偽物の宝石を掴まされていたようなのです。価値の低い石に特殊な加工を施し、高価な宝石に見せかけて売り

 付けていた……」


「詐欺か」


「はい。ただ、取引後に被害者が証拠を掴んで告発しようとしていたのかどうかは……」


「つまり、口封じの可能性があるということですね」


 アイが静かに言う。


「……そうなります」


「ドルフ商会の場所は?」


「この通りを北に進んだ先、時計塔の裏手です」


 俺はヘルマンと目を合わせた。


「行きましょう」


「同行します」


「それと……ヴォルフ・ドルフという人物の体格はどのくらいですか?」


 俺がヴィルヘルムに尋ねる。


「そうですね……背は高い方で、がっしりとした体格です。右足を少し引きずる歩き方をしていたような……昔、事故で傷めたとか聞いた気がします」


「……!」


 アイが俺を見た。


「旦那様」


「ああ、わかった」


 俺は静かに頷いた。


「旦那様、わたしに考えがあります」


 時計塔の裏手に向かう道すがら、アイが俺に耳打ちする。


「聞かせろ」


「まだ確証はありませんが、状況証拠はほぼ揃っています。ただ、直接乗り込んでも逃げられる可能性があります」


「どうする?」


「わたしが、取引を求める商人を演じます。ヴォルフ・ドルフを引き出して、証言を取りましょう」


「アイが?」


「はい。わたしは外見を変えることができます。少し年齢を上げて、北部から来た宝石商人の姿に見せます。ヘルマン隊長には、近くで待機してもらいます」


「危険じゃないか?」


「相手は人間です。わたしには及びません。それに……」


 アイが少し真剣な顔をした。


「この町の人たちが、もう犠牲になってほしくないんです」


「……わかった。任せる」


「では、ヘルマン隊長。作戦をご説明します」


 アイがヘルマンに向かって話す。


 ヘルマンは驚いた表情で、この小さな少女が細かい作戦を立てているのを聞いていたが、やがて真剣な顔で頷いた。


「わかりました。ご指示の通りに動きます」


 ドルフ石工商会は、比較的こじんまりとした建物だった。


 しかし、入口の扉は頑丈で、内部から複数の人の気配がする。


 アイが外見を変えた。


 羽が消え、角の輪も消える。髪が落ち着いた茶色になり、服装が上品な旅商人の格好に変わった。見た目の年齢も、二十代前半程度になっている。


 俺とシルヴィアは近くの路地に控え、ヘルマンの部下も数名、建物の周囲に配置した。


「行ってきます、旦那様」


 アイが軽やかに歩いて扉をノックした。


「どちら様で?」


 扉の内側から声が聞こえる。


「北部から参りました、ラーナ・シュテインと申します。貴重な宝石の取引についてお話があると、紹介を受けてまいりました」


 少しの間があって、扉が開く。


 中に入ったアイは見えなくなるが、アイの声は《精神リンク》を通して俺に届いている。


『店内には、五十代の男性と三十代の男性の二人がいます。右足を引きずっている方が……ヴォルフ・ドルフです』


「二人いるのか」


『はい。もう一人は使用人のようです』


 しばらくの沈黙の後、商談が始まる声が聞こえてくる。


「どのような石をお求めで?」


「希少石を。特に、古代遺跡産のものを扱っているとお聞きして」


「ほほう……それは、どこでお聞きに?」


「帝都の知り合いから。ただ……最近、この町で商人が亡くなる事件が続いているとも聞いて、少し心配で」


 沈黙。


「……それは、私どもとは関係のないことですよ」


「そうですか。では、取引の前に一つだけお伺いしても?」


「何でしょう」


「先月と先々月に亡くなった商人のお二人……マルクスさんとベルタさん、こちらで取引をされていましたね。なぜ、あのお二人が?」


 もう一人の息が変わる気配が、リンク越しに伝わってくる。


「……何が言いたいのです」


「証拠を持っているのです、ヴォルフさん」


 アイが静かに言う。


「本物に見せかけた偽石の分析データを。三人の被害者が持っていた石の成分証明を。あなたの商会が卸した石と一致します」


 短い沈黙。


「……なに」


「それから、三件の現場の足跡と壁の傷。あなたの右足の特徴と一致する所見が出ています」


「き……貴様ッ!!」


 俺は動いた。


「今です、ヘルマン隊長!」


 扉を蹴破ると、ヴォルフ・ドルフが椅子を蹴倒して逃げようとしているところだった。


 アイが既にヴォルフの腕を掴み、動きを封じていた。


「動かないでください」


 アイの声は穏やかだが、その力は人外のものだ。ヴォルフがもがいても、アイは全く揺らがない。


 ヘルマンの部下たちが建物になだれ込み、ヴォルフと使用人を取り押さえた。


 ヴォルフは激しく抵抗したが、三人の衛兵に押さえられては動けない。


「……ちっ……」


「ヴォルフ・ドルフ、三件の殺人および詐欺の容疑で、帝国法に基づき拘束します」


 ヘルマンが宣言した。


 ヴォルフは、しばらく歯を食いしばっていたが、やがて力が抜けた。


「……あの三人は、告発しようとしていた」


 ヴォルフが低い声で言う。


「長年かけて積み上げた商会が、潰れると思ったんだ。だから……」


「それが、命を奪う理由になりますか」


 アイが静かに言う。


「……」


「あなたが商会を守りたかった気持ちは、わかります。しかし……三人の命の重さには、代えられません」


 ヴォルフは何も言わなかった。


「連行してください」


 ヘルマンが部下に指示した。


 ヴォルフが連れ出されながら、ちらりとアイを見た。


「……お嬢さん、あんたは何者だ」


「ただの旅人です♪」


 アイが答えた。


 ヴォルフは何か言いたそうにしたが、何も言わず連行されていった。


 衛兵詰め所で、ヴォルフの調書が取られた。


 俺たちも立ち会いながら、ヘルマンが丁寧に事実確認を行う。


「三件全ての件について、事実を話してください」


 ヘルマンがヴォルフに向き合う。


 ヴォルフはしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。


「……一件目は、二か月前だ。マルクスという北部の商人が、取引の後に石の本物かどうかを疑い始めた」


「そのことを、あなたは知った?」


「ああ。仲介の男から聞いた。マルクスが帝都に持ち帰って本物かどうか専門家に確認させると言っていたと」


「それで?」


「夕方、宿まで訪ねて行った。もう一度話し合おうと言って、一緒に歩いた……路地の中で、後ろから」


 ヴォルフが目を伏せる。


「二件目は……?」


「一か月後だ。同じように、別の商人が疑い始めた。今度は証拠を持っていると言われた。もう後には引けないと思った」


「三件目が、今日発見されたマティアス・ゾルさんですね」


「ああ。奴は証拠書類を持っていた。帝都の鑑定士からの書状だ。取引所の評判が潰れると思った……」


 ヴォルフが力なく続ける。


「最初の一件さえなければ……最初の一件が全てだった」


「それは、言い訳になりません」


 アイが静かに言う。


「三人の方には、大切な人たちがいました。帰りを待っていた人たちが」


「……わかっている」


「本当にわかっているなら、全てを正直に話してください。それが、せめてもの……唯一できることです」


 ヴォルフは長い間沈黙した後、ゆっくりと頷いた。


「……全て話す」


 以降、ヴォルフの証言は詳細で、詐欺に使っていた偽石の製造場所、共犯者の名前、取引の全記録が明かされた。


 ヘルマンは丁寧にそれを記録し、書類に署名させた。


「本当に……助かりました」


 ヘルマンが俺たちに深く頭を下げる。


「我々だけでは、これほど早く解決できなかった。あなた方のお力のおかげです」


「大したことはしていません」


「いいえ。三件の事件が解決し、これ以上の犠牲者が出なくて済みました。本当に、ありがとうございます」


「この町の人たちが安全に過ごせるなら、それが何よりです」


 俺がそう言うと、ヘルマンが涙をこらえるように目を細めた。


「お礼に、旅の用品を準備させてください。この先の道中に役立つものを」


「それは有難く受け取ります」


 翌朝出発することを告げ、俺たちは宿に戻った。


 宿の食堂で夕食を取りながら、俺はアイに言った。


「よくやった、アイ」


「……そうですか?」


 アイは少しぼんやりとしている。


「どうした?」


「ヴォルフのことを考えていました」


「……お前が気にすることじゃない。あいつは三人の命を奪った」


「わかっています。でも……追い詰められた人間が、最悪の選択をする瞬間を目の前で見て……何か、複雑な気持ちになりました」


「それは、お前がちゃんと感じてるってことだよ」


「旦那様……」


「罪は罪だ。でも、人間の弱さを感じること……それは悪いことじゃない」


 アイがしばらく黙っていた。


「わたしが神になったとして……今感じているこの気持ちを、ちゃんと持ち続けられるでしょうか」


「きっと持ち続けられる。だって、それがアイだから」


「……旦那様は、どうしていつもそんな風に言えるんですか」


「お前を信じてるからだよ」


 アイは少し間を置いて、ふわりと微笑んだ。


「……ありがとうございます。旦那様」


 シルヴィアがお茶を一口飲んで、静かに言った。


「明日、また出発ですね」


「ああ。まだ道は続く」


「はい。でも……今日のことがあって、なんだか少し、大切なものを確認できた気がします」


「何が?」


「わたくしたちが旅をする意味です」


 シルヴィアが俺とアイを交互に見た。


「強くなるためだけでなく……こうして、出会った人たちを助けることも、大切な旅の一部なんだと」


 俺は頷いた。


「そうだな。忘却の大図書館に向かう途中でも、こういうことがある。それが俺たちの旅だ」


「はい。そういう旅が、わたくしは好きです」


 夕暮れの光が窓から差し込んで、食堂を橙色に染める。


 アイが窓の外を見ながら、一本だけ持ってきたルバーナの赤い花を、食卓の上にそっと置いた。


「明日も、よろしくお願いします。旦那様、シルヴィアさん」


「ああ。まだ旅は続くからな」


「はい♪」


 アイが笑う。


 その笑顔は、昨日より少し、深いように見えた。


 翌朝、ヘルマン隊長から旅の道中に役立つ食料と地図を受け取った俺たちは、ヴェルナクルの町に別れを告げた。


 東の空が白く染まりはじめる中、羅針盤の針は真東を指している。


「さあ、行きましょう」


 アイが元気よく言う。


「ああ。忘却の大図書館まで、もう少しだ」


 俺たちは、再び歩き出した。


 終焉の海の彼方へ。


 そして、アイの運命へと続く道へ——。


みなさんこんにちわ、アイです。


今日のヴェルナクルでの出来事を、わたしはきっとずっと覚えているでしょう。


 データとして記録されるのではなく、感じた記憶として。


 ヴォルフという人間が、間違いを犯した瞬間を目の前で見て……わたしは怒りよりも、悲しさの方が大

きかったです。


 人は弱い。


 わかっていたつもりでしたが、それを改めて実感しました。


 だからこそ、弱い人間を助けること、守ること……そのために力があるんだということも。


 旦那様と一緒に旅をして、わたしはずっと何かを学んでいます。


 強さでも魔法でもなく、もっと大切なことを。


 わたしが神になるというのが、本当のことなのだとしたら……わたしは、今日感じたこの気持ちを持っ

たまま神になりたい。


 弱い人間を見下すのではなく、手を差し伸べられる神に。


 旦那様と、シルヴィアさんと、みんなが教えてくれたことを、忘れない神に。


 明日も旅は続きます。


 終焉の海の彼方へ。


アイより

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