第八話
それから、数日。
嫌がらせは、なくならないどころかむしろ、少しずつ悪質になっていった。
いつの間にか机の中に入れられる紙。
『ハヤクワカレロ』
『アキラメロ』
『ミノホドヲシレ』
私がいない時間を狙うように、嫌な言葉が残されていた。
私は、それを見つけるたびに消した。
紙なら捨てる。
机なら拭く。
そして、誰にも言わない。
それが、いつの間にか私の日常になっていた。
ある日の朝。
教室へ入ると、私の机の上に小さな袋が置かれていた。
「……?」
私は周囲を見回した。
まだ教室には、それほど人がいない。
もしかしたら、誰かの忘れ物かもしれない。
そう思いながら、恐る恐る袋を開けた。
中には。
黒く汚れた紙が入っていた。
そして、その紙には。
『お前がいなくなれば全部終わる』
『消えろ』
『帰れ』
それらの言葉を無数に書いた紙がぐしゃぐしゃに入っていた。
「……」
私は、しばらく動けなかった。
胸の奥が、冷たくなる。
今までとは違う。
袋を握りしめた指先が震える。
でも。
「……大丈夫」
小さく呟く。
大丈夫。
きっと、そのうち終わる。
そう思うしかなかった。
「おはよう、エリス」
「……っ」
突然声をかけられて、私は慌てて袋を鞄へ入れた。
レオンだった。
「おはよう」
「今日も早いね」
「うん」
「何してた?」
「え?」
「今、何か隠した?」
「……」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「な、何でもないよ」
笑って答える。
レオンは少しだけ私を見つめた。
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
でもその目が、少しだけ心配そうだった。
それから数日後。
嫌がらせは、さらにひどくなった。
今度は、私の持ち物だった。
昼休みが終わって教室へ戻ると、机の横に置いていた鞄が床に落ちていた。
「……?」
拾い上げる。
中身が散らばっている。
本。
ノート。
筆記用具。
そして……大切にしていた栞。
それだけが、見つからなかった。
「……あれ?」
机の中を探す。
椅子の下。
教室の隅。
どこにもない。
その栞は、昔父が買ってくれたものだった。
高価なものではない小さな木製の栞。
でも私にとっては、とても大切なものだった。
私は教室中を探した。
けれど、見つからない。
そのとき。
「エリス?」
クラリスの声がした。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「何でもない顔じゃないわよ」
「ちょっと、物を落としただけ」
私は笑った。
クラリスは怪訝そうな顔をしていたけれど、それ以上は聞かなかった。
放課後。
私は一人で教室に残った。
棚の中。
窓際。
もう一度探す。
「……ない」
見つからない。
胸が苦しくなった。
私は、その場にしゃがみ込んだ。
どうして……どうして、ここまでされなければならないのだろう。
私は何もしていないのに……。
ただ、レオンが好きなだけ。
レオンと一緒にいたいだけ。
それなのに私の大切なものまで、奪われる。
私は唇を噛んだ。
涙が出そうになる。
でも。
「……泣かない」
泣いたらもっと辛くなる。
私は鞄を抱きしめた。
そして諦めて図書館へ向かおうとした。
そのときだった。
鞄の中に、見覚えのない紙が入っていることに気づいた。
「……」
嫌な予感がした。
取り出すと、紙には。
『次は、お前の大切な人』
そう書かれていた。
「――っ」
私は息を呑んだ。
指から紙が落ちる。
大切な人。
誰のこと?
レオン?
クラリス?
ディーン?
それとも……私の家族?
頭の中が真っ白になる。
「……やめて」
初めて。
声が震えた。
「もう……やめてよ……」
私は紙を拾った。
そして、そのまま鞄へ入れようとした。
その瞬間。
「エリス?」
「――!」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、レオンが立っていた。
「……レオン」
「まだいたんだ」
「う、うん……」
レオンがこちらへ歩いてくる。
「どうしたの?」
「何でもないよ」
「……」
レオンは私の顔を見る。
そして足元を見る。
そこに落ちていた、小さな紙。
レオンの視線が止まった。
「……それ、何?」
「……」
私は慌てて拾った。
「……何でもない」
「エリス」
「本当に何でもないから」
「見せて」
「……駄目!」
思わず強い声が出た。
レオンが驚いた顔をする。
私はすぐに俯いた。
「……ご、ごめん」
「いや」
レオンは静かに言った。
「怒ってないよ」
そう言いながらもう一度、私を見る。
「でも、何かあるんだよね?」
「……」
私は答えられなかった。
これ以上隠すことが、急に苦しくなった。
けれど。
「……大丈夫だから」
それだけを繰り返した。
レオンは何も言わず、ただ私の手を握った。
「……大丈夫じゃないときは、俺に言って」
「……うん」
その優しさが今は、苦しかった。
翌朝。
教室に入った瞬間。
私は立ち止まった。
「……」
私の机。
そこには、また文字が書かれていた。
今までで一番大きく。
そして、誰が見ても分かるように。
『死ね』
その文字が机いっぱいに書かれていた。
「……」
私は声を出せなかった。
教室にいた生徒たちが、こちらを見る。
誰も何も言わない。
ただ気まずそうに目を逸らしていく。
私は鞄を握りしめた。
……消さないと。
いつものように自分で消せばいい。
そう思って、机へ近づいた。
そのとき。
「――エリス?」
聞き慣れた声がした。
レオンだった。
私は振り返る。
レオンの視線が、私の机へ向く。
「……」
その顔から。
笑顔が消えた。
「……これ」
レオンが呟く。
「何?」
「……」
私は何も答えられない。
レオンが机へ近づく。
そして文字を見る。
「……誰がやった?」
「分からない」
「いつから?」
「……」
「エリス」
声が低くなる。
「いつから、こんなことされてた?」
私は俯いた。
「……少し前から」
「少し前って?」
「……」
「パーティーの後から?」
「……うん」
レオンの手が震えた。
怒っている。
それが、分かった。
「エリス」
「……ごめん。ごめんなさい。ごめん、なさい……」
「なんで謝るの?」
「……」
「エリスが謝ることじゃないだろ」
その声を聞いた瞬間。
涙が出た。
「……ごめん」
「だから、謝らなくていい」
レオンはそう言った。
でもその目は、今まで見たことがないほど怒っていた。
「何があったの!?」
クラリスが駆け寄ってくる。
その後ろにはディーンもいる。
「エリス、これ……」
クラリスが机を見る。
そして。
「……何よ、これ」
顔色が変わった。
ディーンも言葉を失う。
「……いつから?」
私は答えられなかった。
「エリス」
クラリスが私の肩に手を置く。
「もしかしてこれ、ずっと一人で抱えてたの?」
「……」
私は小さく頷いた。
「どうして言ってくれなかったのよ……」
「……ごめん」
「謝らないで!」
クラリスの目に涙が浮かんだ。
「あなたが悪いわけじゃないでしょう!」
「……」
ディーンも机を見つめていた。
普段なら軽口ばかりの彼が今は、何も言わない。
そしてレオンが、ゆっくりと口を開いた。
「……誰がやった」
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
ただその声は、教室中に響いた。
「俺の恋人に、こんなことをしたのは誰だ」
誰も答えない。
レオンは教室を見回した。
「今すぐ名乗れなんて言わない」
低い声だった。
「でも、一つだけ言っておく」
レオンが私の前に立つ。
まるで私を庇うように。
「エリスに手を出すな」
教室が静まり返る。
「俺が誰と付き合おうと、俺が決めることだ」
レオンの声が響く。
「エリスが俺の隣にいることを、誰かが勝手に決めることじゃない」
そして。
「俺の女に手を出すな」
その言葉に教室中が凍りついた。
「次にこんなことをした奴は、絶対に許さない」
怒鳴ったわけではない。
それなのにその言葉のほうが、ずっと怖かった。
「レオン……」
私は彼の袖を掴んだ。
「もういいよ」
「よくない」
「でも……」
「よくない。よくないよ、エリス」
レオンは私を見る。
怒りの中に苦しそうな色があった。
「俺が知らないところで、ずっと一人で耐えてたんだろ」
「……」
「もっと早く言ってほしかった」
「……ごめん」
「だから、謝るなって」
レオンは私の手を握った。
「これからは一人で抱えないで」
私は小さく頷いた。
「……うん」
その日の昼。
私たちは四人で集まっていた。
けれどいつものような空気ではなかった。
クラリスも。
ディーンも。
そしてレオンも。
誰も笑っていない。
「……誰だと思う?」
ディーンが口を開いた。
「分からない」
レオンが答える。
「でも、俺たちのことを知っている奴だ」
「エリスがあそこまで言われてたなら、普通の嫌がらせじゃないわね」
クラリスが言う。
「私たちの周りで、エリスを嫌っている人……」
「……」
レオンが黙り込む。
そしてしばらくして。
「……セリーナ」
その名前が出た。
私の胸が小さく跳ねた。
セリーナ・グランフォード侯爵令嬢。
レオンの元恋人。
今でもレオンを好きだと言っていた。
そして私に対して、あれほどはっきりと敵意を向けてきた人。
「……確かに」
クラリスが眉を寄せる。
「セリーナなら、動機はある」
「でも、証拠はない」
ディーンが言った。
「そうね」
クラリスも頷く。
「嫌っているからって、嫌がらせをしたとは限らないわ」
「……分かってる」
レオンは答えた。
けれどその表情は険しかった。
「それでも、話を聞く必要はあると思う」
私は何も言えなかった。
セリーナ様が犯人だとは思いたくない。
でもあの人が私を嫌っていることだけは、間違いなかった。
放課後。
私たちはセリーナを探した。
けれどなかなか見つからなかった。
ようやく中庭近くで姿を見つける。
「セリーナ」
レオンが声をかける。
セリーナは振り返った。
「……レオン様」
「少し話がある」
「何でしょう?」
レオンは、机に書かれていた文字。
これまでに届いた手紙。
持ち物を隠されたこと。
すべてを話した。
セリーナは黙って聞いていた。
そして。
「……それで?」
「何か知ってることはない?」
レオンが尋ねる。
セリーナはしばらく私を見る。
そして。
「まず私は、エリス様のことを好きではありません」
「……」
「正直に申し上げます」
セリーナは静かに言った。
「私からすれば、レオン様を奪った方ですもの」
胸が痛んだ。
けれど。
「ですが」
セリーナの表情が変わった。
「こんなことをするほど、私は落ちぶれておりません」
「……」
「私がエリス様に腹を立てていることと、誰かを陰から傷つけることは別ですわ」
レオンが黙っている。
「何か知らないか?」
「……今のところは何も」
セリーナは答えた。
「ですが」
少しだけ考えるように目を伏せる。
「私の周囲にも、エリス様を快く思っていない者はおります。無いとは思いますが、私への忠誠心から間違いを犯す可能性はゼロではありません」
「……」
「私から聞いてみましょう」
レオンが眉を寄せた。
「いいのか?」
「ええ」
セリーナは私を見る。
「このままでは、私まで疑われ続けるでしょうから」
そして。
「それに」
一瞬だけ、セリーナの目が真剣になった。
「私がレオン様を好きだったことと、エリス様を傷つけていいことは、同じではありません」
私は何も言えなかった。
「私が直接聞きます」
セリーナは言った。
「私の周囲にいる者たちに。何か知らないか、私自身で確認します」
「……分かった」
レオンが頷いた。
「ありがとう、よろしく頼む」
「お任せください」
セリーナはそう言った。
その日の帰り道。
私は一人だった。
レオンたちとは途中まで一緒だったけれど。
私は図書館へ寄ってから帰ると言った。
正直、一人になりたかった。そしていつもの場所へ行きたかった。
静かなところで、少しだけ落ち着きたかった。
廊下を歩く。
窓から夕日が差し込んでいる。
長く伸びた自分の影を見ながら、私は小さく息を吐いた。
全部、知られてしまった。
もう一人で抱えなくていい。
そう思うと少しだけ、肩の力が抜けた。
レオンが怒ってくれた。
クラリスが心配してくれた。
ディーンも真剣に考えてくれた。
セリーナ様まで巻き込んで。
不本意ながらも、私のために動いてくれると言った。
こんなにも。
たくさんの人が私を気にかけてくれている。
「……」
嬉しかった。
だからもう大丈夫。
そう思った。
図書館へ向かう廊下の角を曲がる。
その先に一人の人影が見えた。
「……?」
誰だろう。
私は立ち止まった。
けれどその人物は私を見ると、すぐに廊下の奥へ消えていった。
「……」
私は少しだけ不安になったが、そのまま歩き出した。
翌朝。
教室にエリスの姿はなかった。
「……」
レオンは、空いた席を見つめた。
「エリスは?」
誰も答えない。
クラリスが、青ざめた顔で言った。
「……昨日から、連絡がつかない」
その瞬間、レオンの胸の奥に嫌な予感が走った。
「……嘘だろ」
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