第六話
パーティーの翌日。
私は朝から、落ち着かなかった。
教室へ向かう廊下を歩いていると、昨日までとは明らかに違う視線を感じる。
すれ違う生徒がこちらを見て、何かを話している。
「……あの子よね?」
「昨日のパーティーにいた……」
「レオン様の恋人でしょう?」
「眼鏡を外したら、あんなに綺麗だったなんて……」
聞こえてくる声に、私は思わず俯いた。
やっぱり昨日は、目立ちすぎた。
できることなら今すぐ眼鏡をかけて、いつもの私に戻りたい。でもみんなに眼鏡をかけないように約束させられてしまった。
そんなことを考えながら教室へ入ると、すぐにレオンが私に気づいた。
「おはよう、エリス」
「……おはよう」
いつもの笑顔。
その顔を見ると、なぜか少しだけ安心する。
「昨日、疲れなかった?」
「少しだけ。でも……楽しかった」
「俺も楽しかった」
レオンは嬉しそうに笑った。
そして小声で囁く。
「エリスと一緒に参加できたから」
「……」
まただ。
最近、こういうことを平気な顔で言う。
「……そういうこと、普通に言うのやめて」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
「でも、本当のことだし。眼鏡外してくれたんだね。髪も上げてくれてありがとう。顔がよく見えて嬉しい」
「……だからやめてってば」
そう言って笑うレオンを見て、私は小さく息を吐いた。
反則だ。きっとレオンのこういうところが好きなのだと思う。
格好つけたり、相手の反応を考えすぎたりしない。
自分が思ったことを、そのまま真っ直ぐに伝えてくれる。
私がどんな姿をしていても、変わらず接してくれる。
昨日、たくさんの人に見られて怖くなった私にとって、それが何より嬉しかった。
「エリス」
席に座った私に、クラリスが声をかけてきた。
「昨日はお疲れ様」
「……うん」
「朝からずっと、あなたの話題よ」
「やっぱり……」
「でも、悪い話ばかりじゃないわ。むしろ『レオン様の恋人があんなに綺麗だったなんて』って驚いている人のほうが多いみたい」
「それが困るの……」
私は眼鏡に触れた。かけてはいないが、精神安定剤代わりに持っている。
「私は今まで通りでいたいのに」
「無理でしょうね」
「……即答なんだ」
「だって昨日のあなたを見た人が、そう簡単に忘れると思う?」
クラリスは呆れたように笑った。
そこへディーンもやってくる。
「そうそう。俺だって最初、誰か分からなかったからな」
「ディーン、それ昨日も聞いたって」
「いや、本当に驚いたんだって!」
「あなたは少し黙っていたほうがいいと思うわ」
「なんでだよ!?」
いつものやり取りに、思わず笑ってしまう。
そのときだった。
教室の前方から、何人かの女子生徒がこちらへ歩いてきた。
その中に、一人だけ見覚えのない令嬢がいた。
肩まで伸びた焦げ茶色の髪。
小柄で、目立つような装飾品も身につけていない。
派手さはなく、どこか控えめな印象の少女だった。
彼女は周囲の女子生徒たちに囲まれながらも、ほとんど口を開かない。
「……あれ?あんな子、いたっけ?」
私が小さく呟くと、クラリスがそちらを見た。
「ミレイア・ハートウェル子爵令嬢よ」
「知ってるの?」
「クラスが違うから名前くらいしか知らないけどね。あまり目立たない子だから、エリスとは接点がないと思うけど」
「そうなんだ」
そのとき、ミレイアと目が合った。
彼女は一瞬だけ目を見開いた。
そして、慌てたように視線を逸らした。
私は少し不思議に思ったけれど、それ以上気にすることはなかった。
昼休み。
いつものように四人で昼食を取っていると、クラリスが少しだけ声を落とした。
「……そういえば、エリス」
「なに?」
「昨日のパーティーで、あなたのことをずっと見ていた令嬢がいたの。気づいていた?」
「……分からない」
「そうよね」
クラリスは一度、周囲を確認するように視線を動かした。
「セリーナ・グランフォード侯爵令嬢」
その名前を聞いた瞬間、レオンの手が止まった。
「……セリーナ?」
「ええ」
クラリスが気まずそうにレオンを見る。
「あなたの元恋人でしょう?」
「……まあ、うん」
私は思わずレオンを見る。
「元恋人……」
「……言ってなかった?」
「聞いてない」
「ごめん」
レオンは素直に謝った。
「いつ付き合ってたの?」
「少し前まで」
「少し前って?」
「……エリスと知り合って、少しした後ぐらいに別れた」
「え……」
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
私とレオンが初めて会ったのは、図書館だった。
それから少しずつ話すようになって、友達になって。
そして、恋人になった。
その頃まで、レオンには別の恋人がいた。
そう考えると、何とも言えない気持ちになる。
「別れた理由は?」
クラリスが尋ねる。
レオンは少し困ったように笑った。
「セリーナとは……うまくいかなかったんだと思う」
「それだけ?」
「うん」
「セリーナは納得していたの?」
「……たぶん」
レオンの返事は歯切れが悪かった。
私は何も言えなかった。
そのとき。
「エリス」
クラリスが私を見る。
「何も無いとは思うけど、少し気をつけたほうがいいかもしれないわ」
「……どうして?」
「セリーナは、まだレオンに未練があるって噂があるの」
「……」
胸が、また小さく痛んだ。
出来れば、レオンの口から言って欲しかったと言うのはワガママなんだろうか。
その日の放課後。
私はレオンと一緒に廊下を歩いていた。
図書館へ向かう途中だった。
すると。
「レオン様」
後ろから、凛とした声が聞こえた。
振り返るとそこには、美しい令嬢が立っていた。
艶やかな金色の髪。
整った顔立ち。
背筋の伸びた姿。
セリーナ・グランフォード侯爵令嬢。
彼女は私を見ると、一瞬だけ目を細めた。
そして、レオンへ視線を戻す。
「少し、お話があります」
「……俺に?」
「ええ」
レオンは私を見る。
「エリス、先に図書館へ行っててくれる?」
「……うん」
そう答えようとした。
けれど。
「いいえ」
セリーナが私を見た。
「あなたもいてください」
「……私?」
「ええ。あなたにも関係のある話ですから」
その言葉に、私は思わず背筋を伸ばした。
セリーナは私をまっすぐ見つめる。
「昨日は、とても綺麗でしたわ」
「……ありがとうございます」
「正直に申し上げて、驚きました」
その声には、褒めているような温かさがない。
「今までレオン様に寄ってきた女性とは、随分と毛色が違いますもの」
私は黙って聞いていた。
「レオン様は、昔から目立つ方でした。周囲には、彼に近づきたい女性がいくらでもいましたわ」
セリーナは淡々と続ける。
「その中で、私はレオン様とお付き合いしていました」
「……はい」
「ですから、あなたが突然レオン様の恋人になったと聞いたときは、正直に言えば驚きました」
レオンが少し険しい顔になる。
「セリーナ」
「まだ話の途中です」
セリーナはレオンを見た。
「私は、あなたを責めているわけではありませんわ」
「でも、エリスに――」
「レオン様」
セリーナの声が少し強くなる。
「あなたは昔から、誰かを庇うときだけ余計なことを言いますわね」
「……」
レオンが黙る。
私は二人のやり取りを見つめていた。
昔、恋人だった二人。
私の知らない時間を共有している。
その事実が、少しだけ胸に刺さった。
セリーナは再び私を見る。
「エリスさん」
「はい」
「あなた、本当にレオン様のことを理解していらっしゃるの?」
「……え?」
「彼がどれほど多くのものを背負っている人なのか。公爵家の人間として、どれほど周囲から期待されているのか」
言葉が出てこない。
「あなたは、ご自分がレオン様の隣に立つことで、何が起こるのか考えたことがあります?」
「……」
「昨日のパーティーでも、あなたは大勢の人の視線を集めていましたわね」
セリーナは冷たく笑った。
「美しいドレスを着て、眼鏡を外して、皆に注目される。それだけなら簡単ですもの」
「セリーナ!」
レオンが声を上げる。
けれどセリーナは止まらない。
「恋人だから隣に立てると思ったら、大間違いですわ」
その言葉が胸に刺さった。
「あなたがどれだけレオン様を好きでも、それだけでは次期公爵家当主の隣には立てません。身の程を知りなさい」
私は俯いた。
何も言い返すことが出来なかった。
セリーナの言っていることが正しいのかもしれない。いや、正しいのだろう。
私は男爵家の娘。
魔法も使えない。
一度綺麗なドレスを着せてもらったからといって、それで身分が変わるわけではない。
レオンは公爵家の跡取り。
私とは、何もかも違う。
身の程を知れとは、まさに私にピッタリの言葉だ。
すると。
「……エリス」
レオンが私の手を握った。
「気にしなくていい」
「でも……」
「俺が好きなのはエリスだから。エリスはエリスのままで良い」
その言葉に、胸が熱くなる。
セリーナはそんな私たちをしばらく見つめていた。
「……そう」
小さく呟く。
そして、私に向かって言った。
「では、せいぜい頑張ってくださいませ」
それだけ言うと、セリーナは背を向けた。
去っていく彼女の背中を見ながら、私は何とも言えない気持ちになった。
「……大丈夫だった?」
レオンが心配そうに尋ねる。
「大丈夫、少し驚いただけ」
「ごめん」
「レオンが謝ることじゃないよ」
「でも……」
「大丈夫。……大丈夫だから」
私は笑ってみせた。
けれど、本当は少しだけ不安だった。
セリーナは、明らかに私を歓迎していない。
それどころか、まだレオンに気持ちが残っているのなら、これからもっと嫌なことを言われるかもしれない。
そんなことを考えながら図書館へ向かっていると、廊下の角から小さな影が現れた。
「あ……」
ミレイアだった。
彼女は私たちを見ると、慌てたように道の端へ寄った。
「ご、ごめんなさい……」
「どうして謝るんですか?」
「いえ……なんでもありません」
ミレイアは俯いた。
「その……今、セリーナ様とお話しされていましたよね」
「ええ」
「……大丈夫でしたか?」
その声には、本当に心配しているような響きがあった。
「大丈夫です」
私が笑うと、ミレイアはほっとしたように微笑んだ。
「よかった……」
「ミレイアさんは、セリーナさんとお知り合いなんですか?」
何気なく尋ねる。
すると、ミレイアの表情がほんの少し固まった。
「……はい」
「そうなんですね」
「同じ……派閥の集まりで、お話しすることがあります」
「セリーナさんって、昔レオンの恋人だったんですよね?」
「……はい」
ミレイアは一瞬だけ私を見た。
「……レオン様のことを、今でもお好きなのだと思います」
「え?」
「セリーナ様は……ずっと、レオン様のことを見ていましたから」
そう言ったミレイアの声は、とても小さかった。
「……そうなんですね」
「はい、すいません」
「いいえ、教えてくれてありがとうございます」
ミレイアはそれ以上何も言わず、私たちの横を通り過ぎていった。
数歩進んだところで、私はふと振り返る。
ミレイアの後ろ姿が見えた。
小さな背中。
ゆっくりと歩く姿。
その手には、何冊かの本が抱えられていた。
私は特に気にせず、前を向いた。
――そのとき。
ミレイアが抱えていた本の隙間から、一枚の紙が床に落ちた。
けれど、彼女は気づかなかった。
私はそれを拾おうとした。
その瞬間。
「エリス」
レオンに呼ばれた。
「行こう」
「うん」
私はそのままレオンの後を追った。
落ちた紙は、廊下の片隅に残された。
しばらくして、誰もいなくなった廊下で、ミレイアが一人で戻ってきた。
彼女は床に落ちていた紙を拾い上げる。
そして、周囲を確認するように静かに辺りを見回した。
誰もいないことを確認すると、紙を大切そうに胸元へしまった。
その表情は、いつもの大人しい少女のものだった。
けれどほんの一瞬だけ、その瞳には冷たい光が宿っていた。
――私はまだ知らない。
セリーナの鋭い言葉よりも、もっと近くに、もっと静かな場所に、私を見つめている瞳があったことを。
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