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船旅と再会(緊張性気胸)

手紙が短いのは、字を学び始めたばかりのカナンを気遣ってのことでした。本当は色々書きたいことがあったのです。

 リューと養父ハッサンを乗せた貿易船は、帝国の首都イスファダードの港を発ち、首都の近傍を流れる大河を下って海へ出た。


「……海だ、懐かしいな」


 リューが海を見るのは、この世界に生まれ変わって初めてだった。前世では何度も訪れた海だが、それ以来となれば非常に懐かしく、感慨深く感じるものがあった。


「前世では海を見たことがあるのか?」


 リューは船縁に乗り出す様にして海を見渡している。彼が発した“懐かしい”という言葉を聞いて、ハッサンはリューに前世の思い出を問いかけた。


「うん……、前世の俺が生まれたのは島国だったし、住んでたのは海辺の港街だったからね」


 リューは遠い記憶となった日本での光景を思い出す。海風に漂う潮の香りが鼻腔を刺激し、懐かしき日の思い出を呼び覚ましていた。


「でも……、今更だけど、父さんも来てよかったのかな」


 イスファダードに来てすでに3ヶ月が経つ。リューとハッサンは医学の発展のため、外科学教室で「エーテル麻酔」と「新たな手術」を懸命に主導してきた。

 だが、リューの旅立ちにハッサンが同行している今、その主導役が全くいない状態になってしまっている。リューは自分たちが留守中の外科学教室のことを心配していた。


「大事な1人息子を、単身で遠い国なんかに行かせられるか。それに、この3ヶ月でアブアールを含め、4人がエーテル麻酔を習得できたんだ。それに瘤や外傷の手術なんかは元々やっていたことだし、心配要らないさ」


 エーテル麻酔の導入と覚醒、そして緊急時の対応に至るまで、この3ヶ月で教えられることは全て教えてきた。ハッサンは彼らのことを信じていた。


「それにアブアールやナスールなんかは、お前が次にどんなものを見せてくれるのか、楽しみで仕方がないと言っていた。まぁ、それは私も同じだが」


 ゴム製のチューブ類を作ることが出来れば、医療行為の幅が一気に広がる。ハッサンはこの旅に大きな希望と期待を抱いていた。


 そしてアシニー大陸の沿岸伝いに南東へ下って行き、3週間の航海の末に大陸南東の「バラート半島」を領土とする国「ラーマヤナ王国」に辿り着く。


: : :


 カモメの声が早朝の空に響き渡る。船縁からは「ラーマヤナ王国」の首都である「マジャレバン」の街が見えた。

 海の上にはマングローブがまばらに生えており、海岸には椰子の木が茂っている。海上貿易で栄えている国の中枢港であるため、港の桟橋には地元の漁船から大国の貿易船に至るまで、大小様々な船が停泊していた。


「あれが……『ラーマヤナ王国』」


 リューは生まれ変わって初めて訪れる「外国」にわくわくしていた。マジャレバンの街の景色は、こちらの世界でいうところの東南アジア地域を彷彿とさせる。

 ラーマヤナ王国とは、首都が位置するバラート半島、そしてその付近に点在する大小様々な島嶼部を領土とする海洋国家である。言語はアバスフマル帝国と共通する単語が多く、文法も同じで、少し勉強すればある程度話せる様になるくらいなのだ。


「間もなく港に入る! 総員用意!」


 船長の号令で、水夫たちは着岸に向けて慌ただしく動き始める。舵を切り、接岸する桟橋に対して左舷を接するような角度で近づいていく。

 だがその時、アクシデントが起こった。


「危ない!」


 船員たちの叫び声が朝方の港に響き渡った。船が接岸しようとした瞬間、突如襲ってきた大波が船の側壁を打ちつけたのだ。その衝撃でマストの上部見張り台にいた若い水夫が、甲板へ落下してしまった。


「ジュナイディが落ちた!」

「おい! 大丈夫か!?」


 他の水夫たち、そして船長は落下した水夫のもとへ駆け寄った。ジュナイディと呼ばれた若い水夫は、甲板に仰向けで横たわっている。

 事態の一部始終を見ていたリューとハッサンも、ジュナイディの様子を見るために駆け寄った。


「おい……大丈夫か?」


 ハッサンが素早く駆け寄り脈を取りながら声をかける。ジュナイディの呼吸は荒く、脈は極めて早い。

 同時に、リューは既に水夫の胸部を観察し始めていた。外傷は打撲だけの様だが、左側の肺周辺が不自然に膨らみ、首から見える気管が右に寄っているのが分かる。トラウベ型聴診器を左の胸に当てると、呼吸音がほとんど聞こえなくなっていた。


「これは……気胸だ。頸静脈も怒張している。すぐに処置しないと」

「キ…キキョウ?」

「……!」


 駆けつけた他の船員が困惑した表情を浮かべる。一方で、ハッサンはリューの説明を理解していた。

 気胸とは、何らかの要因で肺が破れて空気が漏れ、肺が萎んでしまう病気だ。現代医学ではその診断には胸部レントゲンが必要だが、実はレントゲンが開発される前の時代から、気胸という病態は歴史的に認知されている。故にハッサンも、気胸についてはすでに知っているのである。


「胸腔内に空気が溜まって肺が潰れているんです。それにこれはおそらく『緊張性気胸』、このままだと命が危ない…!」


 気胸の中でも緊張性気胸とは、特に致命的な病態である。肺の破れた箇所が一方向性の弁の様な状態になって、呼吸の度に空気が漏れ続け、肺を収めている空間である「胸腔」にどんどん空気が溜まっていく。

 その結果、肺は異常に縮み、さらには心臓や大血管を圧迫して患者をショックに至らしめてしまう。


「まずは胸腔に貯まった空気を抜かないと! 父さん、確か穿刺針あったよね!?」

「ああ、これだろう!」


 ハッサンは持ってきた道具箱の中から穿刺針を取り出す。それは以前から彼が所持していたもので、主に貯留した膿の排出に使うためのものだった。

 ハッサンはアルコールで湿らせた布で穿刺針をサッと消毒し、さらに患者の胸もアルコールで拭いて消毒した。


「第2肋間鎖骨中線……!」


 リューは胸骨角を触りながら、穿刺場所を決める。そして肋骨の上縁に沿って、穿刺針を突き立てた。

 一般的に12本ある肋骨は、頭側から第1〜12の番号が振られている。同時に肋骨と肋骨の間である「肋間」も頭側から第1〜11と数える。

 胸の正中に位置する「胸骨」の、体表から触れる出っ張りである「胸骨角」は、第2肋間の目印として、解剖学的・臨床医学的に非常に重要な場所なのだ。


「……よし!」


 リューは二重構造になっている穿刺針の内筒を抜く。すると留置された外筒を通じて漏れ出した空気が微かな音を立てる。気管の偏りと頸静脈の怒張が消失し、水夫の苦悶の表情が徐々に和らいでいくのが見て取れた。


「取り敢えず、命の危機は脱した。次に胸腔ドレナージをしないと……!」


 ここまではあくまで応急処置だ。次は肺の穴が塞がるまでの治療として、胸腔ドレナージチューブを挿入しなければならない。だが、リューとハッサンは胸腔ドレナージに使えそうなものを持ち合わせていなかった。


「取り敢えず、この水夫は入院での治療が必要です。マジャレバンの街には、病院はないのですか?」


 リューはそばに立っていた船長に問いかける。


「……街に診療所がある。名医と評判の医者だ、そこなら!」

「では船が着き次第、そこへ案内を!」

「わ、分かった! お前ら、接岸を急げ!」

「はい!」


 船長の号令を合図に、水夫たちは散開していく。そして貿易船はマジャレバンの港に到着した。水夫たちは木の板を担架代わりとしてその上にジュナイディを乗せ、彼の体を船縁から桟橋へ慎重に下ろしていく。

 リューとハッサンも、飛び降りる様に下船した。そして担架を抱える水夫たちと共に、マジャレバンの街を疾走する。初めての異国を噛み締める余裕などなかった。


「ここが例の先生の診療所か……!」


 船長の案内によって、街の中心地から少し外れた場所に辿り着く。玄関の上には古びた看板が掲げられ、掠れた文字で「アラファート診療所」と書かれている。年季の入った石造りの平屋だが、入り口には丁寧に手入れされた花壇があり、どこか温かみを感じさせた。


(……ん?)


 ハッサンは診療所の名前を見て、違和感を抱いていた。アラファートとはアバスフマルによくある姓であり、偶然か否か、彼がよく知る人物の名前だったからだ。


「ごめんください! 急患です!」

「……入りなさい」


 リューは扉を叩いた。中からシワがれた声が聞こえてくる。玄関扉を開けると、独特の薬草の匂いが鼻をつく。そして奥から、白衣姿の老紳士が出てきた。


「患者はその人かい? 取り敢えずベッドに乗せなさい」


 落ち着いた声色だが、目は鋭く患者の容体を確かめている。水夫たちは担架から病床へ、ジュナイディの体を移した。


「気胸を発症しています。応急処置として胸腔穿刺を行いましたが……」

「ふむ、なるほど……」


 リューが説明する間にも、老医は素早く患者の状態を確認していく。脈を取り、瞳孔を確認し、聴診器で肺と心の音を聞く。


「肺の穴が塞がるまで、持続的な『ドレナージ』……肺から漏れる空気の排出が必要です。胸の中に置いておける様な、長い筒状の器具はありませんか? ついでに密閉できるガラス瓶も……できれば2本」

「承知した、少し待ってくれないか……」


 老医は再び奥の部屋へ消える。そしてすぐに道具を抱えて戻ってきた。左手にはコルクの蓋がついた空き瓶が2つ、そして右手には白くて細長い“何か”が握られていた。


「胸の中に置いておくなら、柔らかい肺を傷つけない様に、こういうのはどうだろうか?」

「!!?」


 リューは老医が差し出した“何か”を受け取る。それは中が空洞になっている長さ1メートル程度の筒状の物体で、簡単には潰れないくらいの強靭さがあり、また金属とは違って周囲の状況に合わせて曲げたりできる柔軟さがあり、そして何より、前世で覚えのある触感があった。


「これって……」

「見たことないかね? この国で生産される『ゴム』と呼ばれる素材で作った管だ。私は膿の排出(ドレナージ)なんかに使ったりするがね」

「……え」


 老医はあっけらかんと説明する。リューがずっと思い描いていた理想を、目の前の老医はすでに実現させていたのである。リューは思わず、言葉を失ってしまった。


「と、取り敢えず! 胸腔ドレナージを行います!」


 リューは革手袋を装着し、準備を始める。高濃度アルコールで、患者の体と挿入するゴム管を消毒する。ゴム管はさらに軽く火で炙って加熱消毒とした。


「ドレーンの留置部位は『安全三角』と呼ばれる大胸筋と広背筋の間、具体的には第4〜5肋間中腋窩線を狙います」


 肋骨の間を触診しながら、目当ての場所を探る。そして肋骨の上縁に沿ってメスで切開を入れた。胸に何か刺したりする時は、肋骨の上縁に沿って入れるのが鉄則である。肋間神経・肋間動静脈という血管・神経が、肋骨の下縁を走行しているからだ。

 皮膚切開を入れた後は、ペアン鉗子などで皮下脂肪や筋層を鈍的に剥離していく。そして肋骨上縁を確認しながら胸膜を穿破し、胸腔に入ったら指を挿入して癒着などがないか確認する。

 その間、ハッサンはリューの指示通りに、2本のガラス瓶を使って「ドレナージバッグ」を組み立てていた。


「……よし! ドレーン挿入!」


 ペアン鉗子で把持したドレーンを、肋骨上縁に沿って胸腔内に入れる。そして先端を肺尖部(肺の上)付近に誘導していく。体の外へ出ているもう一方の先端は、ガラス瓶に接続されていた。

 現代ならばX線を見ながら行う行為だが、そんなものがないこの世界では、手探りで進めていくしかない。


「次に、このゴム管を皮膚に縫合して、固定します」


 リューは糸を通した縫合針を持針器で掴み、皮膚に針を通す。そして糸をチューブに巻き付けて結び、チューブを固定した。処置による出血を布で拭きながら、チューブが繋がれたガラス瓶の中を見つめる。

 2本のガラス瓶の瓶口はコルク蓋によって密閉されている。しかし、それぞれのコルク蓋からは2本のゴム管が突き出していた。

 まず、患者の体から伸びているゴム管は中身を空にしている瓶に続いている。そして空瓶からもう1本の瓶へゴム管がカーブしながら繋がっていた。もう1本の瓶は容器の3分の1程度水が注がれており、カーブしたゴム管の先は水の中に沈められている。

 さらに、水の瓶からもう1本短い管が飛び出しており、それは水面に接触しない空中で固定されていた。


挿絵(By みてみん)


「簡易的なドレナージバッグです。患者の肺から血液が漏れると、この1本目の空瓶の中に血が溜まり、空気が漏れると2本目の水瓶の中に気泡となって現れます。この水で肺の中の空間と外の空間は遮断され、外気の逆流を防ぎ、また圧力が一定に保たれる仕組みになっています」


 リューは胸腔ドレナージについて説明する。ベッドの上には、水夫のジュナイディがぐったりした様子で眠っていた。

 空瓶の中に溜まった血はごく少量で、幸いにも肺や肋間の血管が損傷する「血胸」は起こっていない様だった。


「……なるほど、これなら漏れた空気や血液を胸の中から外へ一方向に排出し続けることができるな。なら、空気が漏れなくなったら抜去できるわけか」

「はい、そうなります」


 老医はドレナージバッグの仕組みを瞬時に理解していた。水瓶の中に気泡が現れるのは、肺の穴が塞がっておらず、胸の中で空気が漏れ続けていることを意味している。

 そして気泡が止まるということは、肺の穴が治ったか管が詰まったかの何方かを示唆する。深呼吸させて刺激したり、さらに経過を見て呼吸状態が悪くならないかを診て、問題なければ管が抜けるのだ。


(本来ならレントゲンでこまめに確認するのがセオリーだけど、そんなものこの世界にはない。抜去は慎重にしないと……)


 ことを急いてドレーンを抜くと、穴が塞がりきっていなかった場合は当然気胸の再発を来たす。故に、抜去の判断は慎重にしなければならないだろう。


「長年医師をやってきたが、こんな処置は初めて見たな。これはお前さんが考えたのか?」

「……はい」


 リューは少し返答に迷ったが、ここは素直に肯定することにした。

 老医は続けてハッサンへ視線を向ける。


「君がこの少年の師かね?」

「あ、えぇ……、まぁ、そんなところで……」


 ここで否定しても話が面倒くさくなると思い、ハッサンは曖昧な言葉で肯定した。それよりも、彼にはずっと気にかかっていることがあった。


「それよりも、あの……、ずっとお伺いしたいと思っていましたが……」


 ハッサンは意を決して問いかける。


「カムラード先生、ですか?」

「……!」


 ハッサンはその老医を知っていた。実際はお互いに“もしや”と思っていたが、彼が先に口火を切ったというのが正しい。


「やはりお前……、ハッサンか?」

「はい、ご無沙汰しております。まさか……こんなところでお会いすることになるとは!」

「??」


 ハッサンは感激のあまり、声を震わせる。事情がわからないリューは、困惑の表情で2人を見ていた。

 老医の名はカムラード・セイシュウ=アラファート。15年前に皇后の帝王切開を行い、医学学校を追放された先代の外科学教授本人であり、ハッサンや当代教授のアブアールが長らく師と仰いでいた偉大な外科医であった。

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