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新たなる旅立ち

お待たせしました。新章スタートです。

 円城都市である帝国の首都は、その中心に高い城壁によって囲まれた「宮廷」がある。皇族の居住地であるそこは、限られた者しか出入りできない、まさしく聖域である。

 宮廷は皇族とその妃たちの私的な居住区域である「後宮(内廷)」と、皇帝や上級官僚たちの執務の場である「外廷」に分かれている。

 万が一にも妃たちが有象無象の子を身籠らない様に、皇族男子以外で後宮に出入りできる男性は去勢された役人「宦官」だけである。しかし唯一、その原則に当てはまらない者がいた。


「……心の臓、肺の臓共に、問題ありません」

「うむ、……そうか」


 医学学校内科学教授にして、筆頭宮廷医を勤めるイブン・スイート=アヴィセンナは、患者の胸に当てていたトラウベ型聴診器(象牙で作られた円筒型の聴診器)を離した。彼の目の前にいるのは、この国の頂点に立つ存在だ。


 宮廷には皇帝をはじめ、その子女や妃たち、女官や宦官、官僚など、大勢の人々が暮らしている。そんな彼ら・彼女らの健康を守るため、宮廷の内部には診療所が設置されている。診療所には女官から選抜された看護婦の他、国立医学学校から派遣された「宮廷医」が勤めている。

 宮廷医は国立医学学校の内科医から選ばれ、さらに内科学教室の教授が筆頭の宮廷医を兼ねている。さらに筆頭宮廷医は唯一例外的に、去勢せずとも後宮への立ち入りが許されていた。無論、宦官の監視付きではあるが。


 外廷にある私室にて、定期健診を終えた皇帝ムスタースィラー・アル=ラキシードは、衣服を整えて、はだけさせていた胸元を仕舞う。


「そう言えば……、シェエラザードの腹が本当に治ったと、風の噂で聞いたが」


 その時、彼はふと下野した元皇妃のことを思い出した。腹の傷を理由に、もう何年も通っていなかったため、すでに顔も良く覚えていない。

 そのため、傷を治す手術を受けさせるために後宮から出したいと、彼女の生家から申し出があった時には2つ返事で了承した。その代わりに元皇妃の姪に当たるという18歳の娘を寄越してきたが。


「……さぁ、皇妃殿下が手術を受けられた話は私も聞き及んでいますが、その仔細までは分かりかねます。外科医たちの領分ですので」


 イブンは答えをはぐらかす。実際には経過は良好であり、“腹が勝手に蠢く”という、呪いの傷と恐れられた最大の原因は無くなっている。


「そうか……」


 ムスタースィラーはそれ以上の追求をしなかった。そして彼は、別の話題を口にする。


「最近、宮廷に勤める官吏たちが話題にしているが……、外科医たちが瘤や腹の手術を全く痛みなく行う術を手に入れたと聞いた。すでに官吏の中にも、その無痛手術を実際に受けた者たちがいるが……、本当なのか? にわかには信じられないが……」

「そ、それは……」


 イブンは言葉に詰まった。リュージーンとハッサンが持ち込み、外科学教室が本格的に始めた「エーテル麻酔手術」は、国立医学学校の内部ではすでに皆が知るところとなっている。


 肩の脂肪腫を取ったサルミーン、直腸脱を治したフサイニーを筆頭に、政府中枢の高官にも、その奇跡の手術を受けた者たちがすでに十数人いた。高官たちの噂話を介して、全身麻酔の評判は皇帝の耳に届くまでになっていた。

 さらには元皇妃の手術を成功させた。元皇妃の手術について、周囲は外科学教室とシェエラザードの“和解”と捉えた者が多い。そして“呪いの傷”を治したことで、外科学教室の15年前の汚名は払拭されつつあった。


「無痛手術の話は確かに本当です。私も彼らの公開手術をこの目で見ました。しかし……、その考案者はラマーファの田舎から現れた怪しい少年です。一応、かつて外科学教室に属していた外科医の息子という話ではありますが……」

「……ほう」


 そしてイブンは、外科学教室の評判が立つことに焦りを覚えていた。彼は部下の内科医を見学と称して手術室へ送り、外科医たちの動向を探っていた。そして明らかになったのは、エーテル麻酔も、それを用いた新たな手術法も、1人の少年が主導していたという事実だった。


「しかし、彼らは医学学校で学んだこともない怪しい者をのさばらせているのです。これは由緒ある医学学校の医師としての誇りを曲げるようなもの。私には到底真似できませんな……」

「……なるほど」


 イブンにとって、リュージーンは得体の知れない存在だ。彼は外科医たちが怪しい奴に頼っていると、皇帝に告げ口したのである。

 万が一にも外科医と内科医の立場が入れ替わるようなことになってはならない。全ては自分たちが医学の“本道”であり続けるために。


: : :


 元皇妃の手術から3週間が経った。アイーシャが後宮へ入ったことは、少しだけ学生や医師たちの間で話題になっていたが、噂はすぐに消え去っていく。

 そしてシェエラザードもすでに抜糸を終え、退院していた。彼女は謝礼の手紙と共に、多額の寄付金を外科学教室へ送った。その事実はリューの名声をますます高め、学生や若手の外科医たちは、彼を“エース”と見做すようになっていた。


「リュージーン、次の鼠径ヘルニアの手術、私に助手をさせて貰えないか?」

「もちろん! こちらこそよろしくお願いします、ナスール先生」


 リューはそれに奢ることなく、いつも通り日常の業務と手術をこなしていた。手術を受けた患者の口コミが、新たな患者たちを呼び寄せる。



 だが、養父のハッサンは彼の様子がどこかおかしいことに気づいていた。彼は教室の実験室でリューに話しかける。


「なぁ、お前……、ラマーファへ帰るか?」

「……え」


 エーテルの精製を行なっているリューに、ハッサンは帰郷を提案する。彼は時折上の空になるリューのことを心配していた。リューの心はどこかに、隙間ができてしまったかの様だった。


「……俺は別に大丈夫だよ」


 そう言って、リューはニコッと笑う。だが、ハッサンの心配は拭えない。



 その後、彼は往診のため街へ出る。綺麗に整備された大通りの両脇には、石造の建造物が並び、その間を多くの人々や馬車、ラクダが行き交う。行き交う人々この国の民だけではなく、交易のためにこの街を訪れた多種多様な人種の姿があった。


(そっか……、父さんには分かるくらい、俺落ち込んでるんだ)


 リューは暗い顔で人波の中を歩いていた。アイーシャの自己犠牲は、彼の心に暗い影となって残っていた。あれほど医学に傾倒していた少女が、その夢をあきらめてしまうことになるなんて。リューは彼女の心情を思うと、どうしても気分が塞ぎ込んでしまう。


「……」


 リューは商店が並ぶ繁華街を離れ、貴族や傍系皇族の邸宅が並ぶ地区へ移動する。そして目当ての邸宅の前に立つと、屈強な門番へ屋敷の主人へ取り繋ぐ様に伝えた。


「リュージーン・ヒルクライハー=ロラン様ですね、お待ちしておりました。ご主人様は中でお待ちです」

「……どうも」


 落ち着いた服装を纏う侍女が、屋敷の玄関から現れる。彼女はそのまま、リューを屋敷の中へ招き入れた。そして侍女はリューを主のもとへ案内する。


「シェエラザード様、リュージーン様がお見えです」


 廊下を進んだ奥、客間にこの館の女主人が待っていた。窓辺に座るその女性は、アラベスク模様が編み込まれたゆったりとした衣服、そして種々の宝石を組み込んだイヤリングやネックレスを纏い、頭にはスカーフを巻いている。

 だが、そんな華美な衣装や装身具よりも遥かに輝くのは、美少年と見紛うばかりに凛々しい(かんばせ)だった。元皇妃の気品さは、下野しても尚その輝きを失っていない。


「……あ、え、……お久しぶりです、殿下!」


 リューは一瞬動きを止めてしまう。そして、しまったと心の中で叫びながら慌てて跪いた。

 シェエラザードはそのぎこちない様子を見て、くすくすと笑う。


「まぁ、そんなに畏まらないでよ。何より、私はもう“殿下”ではないんだ」


 彼女は窓辺から立ち上がると、客間の真ん中に鎮座するソファに腰掛けた。


「さぁ、手術の創の経過を診に来たんだろう。そんなに離れていては見えないぞ」


 シェエラザードはそういうと、上着を豪快に捲り上げる。部屋の壁際で控えていた数人の侍女は、ギョッとした表情を浮かべた。


「は、はい! では、失礼いたします」


 リューは元皇妃に近づくと、ソファの前に再び跪いて創の観察を行う。抜糸を終えて1週間ほど経ったその創は綺麗にくっつき、感染やケロイドの予兆も無かった。

 そして、皮膚の下で縫い合わせた腹筋はしっかりとくっついている。もう“呪い”はそこに残っていなかった。


「経過は良好な様です。痛みはどうですか?」

「退院してしばらくはチクチクとした感覚があったが、今はもうほとんど気にならないな」


 腹壁瘢痕ヘルニアは治癒していた。ヘルニアによって摩耗した皮膚は切除しており、手術前と比べれば見栄えは大分良くなっている。


「君はまるで魔法使いの様だな」


 シェエラザードは衣服を整えながら、ポツリとつぶやいた。

 地方都市から現れたこの少年は、無痛麻酔という奇跡の技を携えて首都に来た。そして他の外科医の追随を許さない程、人体について造詣が深く、そして誰も知らない手術法で、数々の人々を救ってきた。

 そんな、誰も信じられないような事実を言い表すなら、まさしく彼女の表現が相応しいのだろう。


「魔法使い……ですか、そんな大層な者ではありません」


 その瞬間、リューの脳裏にはあの女学生の顔が浮かんだ。本当に魔法が使えたのなら、高い壁の向こう側にいる彼女を連れ出せたりしないだろうか。そんな他愛もない空想が過ぎる。


「少し……話をしないか?」

「……はい?」


 シェエラザードはそう言うと、リューに椅子へ座る様に促した。そして部屋の中に控えていた侍女たちに、1組のワイングラスと秘蔵の葡萄酒を持ってくる様に命じる。

 2人は侍女が盆に乗せて持ってきた銀製のグラスを受け取る。そしてもう1人の侍女が2人のグラスに葡萄酒を注いだ。


「あ、あの……」


 リューが恐縮していると、シェエラザードがある話題を口にする。


「先日、アイーシャから手紙の返事が来た。手術の経過が良いことを伝えたら、喜んでいたよ。彼女もまぁ、気丈にやっている様だ」

「ほ、本当ですか!」


 シェエラザードは、後宮へと消えた女子生徒の現況を伝える。その瞬間、リューの顔はパっと明るくなった。


「しかし、彼女も弱みを見せる(タチ)ではないから、手紙の中でも愚痴や後悔を綴ることはないが…、やはり、君のもとで学べなくなったことは、とても悔いていると思う」

「……!」


 アイーシャは気の強い女性だ。後宮でも決してめげたりしないだろう。だが、その心の奥底には医学の道が絶たれたことへの後悔がきっとある。シェエラザードは手紙の文面の端々から、それを感じ取っていた。


「君は本当に、アイーシャのことを大切に思ってくれていたんだな。それが、彼女にとって何よりの励みになるよ」


 リューはアイーシャがいなくなったことのショックから、まだ完全に立ち直っていない。この街で唯一、心を許せた同年代の友と言っても過言ではない存在だったからだ。


「そう言えば……、アイーシャの手紙に君が悩んでいると書いてあった。“柔らかく丈夫な物質”を探しているから、もし心当たりがあったら協力してやって欲しいと」

「……え?」


 リューがこの世界に生まれ変わり、そして再び外科医として立ち上がってすでに数ヶ月が経過した。エーテル麻酔、高濃度消毒用アルコール、生理食塩水、そして手術器具。この世界で安全な手術を行うために必要とする様々なものを、あらゆる者たちの協力を得ながら揃えてきた。

 だが、今も尚、クリアできていない問題がある。それは現代医学には不可欠な「チューブ類」を、この世界に再現できていないことだった。


 経鼻胃管、ドレナージチューブ、尿道カテーテル、さらには点滴チューブなど。チューブ類は現代医療において、診療科を問わず不可欠なものだ。だが、かつて日本で外科医をしていた時に、当たり前のものとして使っていたそれらが、この世界には存在しない。

 なぜならゴムやビニール、シリコーン、プラスチックなど、「柔らかく」「丈夫で」「密閉性のある」物質が、この国に存在しないからだ。


 リューはアイーシャにこのことを話していた。そんな物質があれば、この世界にはない新たな医療行為が可能になることも。彼女はずっとそのことを覚えていたのだ。


「それでね、君に見せたいものがある。南方の商人が献上してきた防水衣だ」

「防水衣…ですか?」


 シェエラザードはソファの裏に隠していたある「衣服」をリューに渡す。無地で色気のないデザインだったが、その触感は自分たちが身につけているそれとは明らかに一線を画していた。


「ああ、何でも特殊な樹液を加工したものを布の表面に塗りたくってあるそうだ。撥水性を持っていて、雨量の多い南方では雨粒から身を守るために重宝するのだろうが、そもそも雨が少ないこの国では需要がなくてね」


 シェエラザードとアイーシャの生家である「イドリースィー家」は、南方諸国との貿易で財を成す貿易商の一族である。その関係で、彼の国の商人が本家の屋敷へ、自国の品物を売り込みに来ることがあった。この「防水衣」もその1つである。

 一族の者たちは当然ながら「需要がない」と見向きもしなかったが、シェエラザードはアイーシャの手紙を思い出し、自身の別邸へこっそり持ち出していたのである。


「こ、これは……、『ゴム』だ!」


 現代世界のそれと比較すれば大分ざらついているが、触感や樹液から作るという話から、リューはそれが「ゴム」であるとすぐに気づいた。


「どうやら、役に立てそうだな」


 リューの様子を見て、シェエラザードはニヤリと笑う。自身の見立てが少年の役に立ったことを喜んでいた。


「近日中、南方へ出発予定の貿易船がある。波の国『ラーマヤナ王国』へ向かう船だ。そこに行けば、その『ゴム』という素材について詳しく分かるかも知れない」


 シェエラザードはリューに選択を示した。彼自身が追求する医学の発展のため、この国から一時離れて危険な旅路に乗り出すかどうかの決断を迫った。

 しかし、リューの答えは初めから決まっていた。


「行きます! 行かせてください!」


 彼は未知の国への旅立ちを決断する。


「……分かった、船の船長には、私の名で話を通しておく。気をつけろよ」


 シェエラザードはそう言うと、グラスの葡萄酒を一口含んだ。


: : :


 1週間後、ラマーファの街に戻ったカナンは、鍛冶屋として完全に復活した父ワルートを支える日々を送っている。そんな日常の中で、彼女はいつかリューがラマーファに帰ってくる日を待っていた。


「ごめんください! 首都から手紙を届けに来ました」


 そしてこの日、彼女らの家に「配達人」が現れる。配達人とはこの国において、都市間の郵便物配送を担う者たちだ。日本で言うところの飛脚である。


「……? はい!」


 カナンは首を傾げながら、訪れた配達人に対応する。

 この国の郵便料金は都市同士の交通の困難さ故に、最安値の普通便(出荷・配送共に不定)でも、庶民の手が全く届かないというほどではないが、決して安くない。

 彼女はそんなものを我が家へ出すような知り合いに、心当たりがなかったのである。


「受け取り人はカナン・フォーエルツェラール=ラムジーさんになっています」

「わ、私!? ですか?」


 カナンは驚きながら手紙を受け取る。そして差出人を見ると、そこにはリュージーン・ヒルクライハー=ロランと書かれていた。


「リューからだ!」


 差出人の名を見たカナンは、蝋で閉じられた封筒をその場で開封した。膨らむ期待とは裏腹に、中に入っていた便箋には短く簡潔な文章が書かれていた。


ー波の国に行ってくる 用事が終わったらラマーファへ帰りますー


「……え? ……ええ〜っ!?」


 かくして、リューはハッサンと共にアバスフマル帝国を離れ、アシニー大陸南東の半島に位置する国「ラーマヤナ王国」へと渡った。

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