2例目
この章は最初の構想から比べると大分長く、湿度の高い話になりそうです。
「直腸脱」とは、大腸の最後の部分である直腸がずり落ち、肛門から腸の粘膜が脱出してしまう病気だ。原因については諸説あるが、誘因としてよく挙げられるのは強いいきみを習慣的に行なっていることである。
症状は便漏れや排便障害、直腸粘膜が脱出することによる不快感である。最初はいきみによって腸管が脱出し、やめると自然に良くなるが、次第に歩行や入浴など些細なことで飛び出る様になり、さらに病状が進むと手を使っても戻らない様になってしまう。
腸の粘膜が露出し、下着や臀部の皮膚に直に触れる不快感は、当人の活動意欲を低下させ、生活の質を著しく損なうこともある。
「・・・患者の年齢性別は?」
「48歳の男性です」
准教授のカルヴァンはアブアールに患者の情報を伝える。
(40代? ・・・若いな)
直腸脱を発症するのは多くの場合、高齢女性である。中年男性の直腸脱など、リューこと黒川も前世で経験がなかった。
(直腸脱に対する手術方法は現代で主に行われているものだけでも10種類前後・・・だが大きく分ければ腹を空けてアプローチする方法と肛門側からアプローチする方法に分けられる)
直腸脱は人類が長く悩まされてきた病だ。根治のためには手術以外に方法はなく、それに伴い多種多様な術式が考案され、細かい違いまで数えれば100種類、現代世界で主に行われているものだけでも10種類前後あるとされている。
日本で多く行われているのは「ガンツ-三輪-ティールッシュ法」と呼ばれる、直腸粘膜を豆絞り状に括り続けて縫い縮め、さらに肛門周囲に糸ないしバンドを円形に通して肛門を物理的に収縮させる手術法だ。
(でも・・・再発率という点から見れば、経肛門的アプローチの手術より、直腸をお腹側から引き上げ、仙骨に縫い付ける直腸固定術の方が優れている。現代なら腹腔鏡でできるから、傷も小さく済むんだけど・・・)
Gant-三輪-Thiersch法を含む肛門側からアプローチする手術法はいずれも術後再発率が1〜3割台と総じて高い。対して、お腹を開いて直腸を引き上げ、固定する経腹的アプローチ法は、全身麻酔が必要かつ大掛かりなものとなるが、再発率は低いのだ。
しかし、全身麻酔の手術が必要である以上、適応は手術に耐え得る体力のある者に限られる。直腸脱を発症する患者はおおよそ80歳台前後の女性だ。ゆえに経腹的アプローチ法は全ての患者に適応できるわけではないのだ。
だが、今回の患者は寿命を迎えるにはまだまだ猶予のある40代、再発の可能性はできるだけ減らしたい。
「ちなみにリュー・・・お前は直腸脱の手術はできるか?」
思案を巡らせるリューの意識に、ハッサンの声が届く。彼は暗に、リューが生きていた21世紀の日本でどの様な手術が行われていたかを聞いているのだ。
(俺が知っている直腸脱の手術法は『腹腔鏡下直腸固定術』と経肛門アプローチ法の『デロルメ法』・・・。でもこの世界で腹腔鏡手術は出来ないし・・・)
「手術法は知っている。肛門側に飛び出た粘膜を切除する方法だよ。それか・・・理論的には開腹して直腸を釣り上げて仙骨に固定する方法も可能、だよね?」
リューは言葉を選び、ハッサンに問いかける様に答えた。
「直腸脱の開腹手術・・・? ハッサン先生はそんな方法まで考案されていたのですか?」
「・・・え、・・・あぁ」
この世界では、直腸脱を経腹的なアプローチにて改善させる手術法はまだ考案されていない。ゆえに准教授のカルヴァンはリューの発言に疑問を抱き、ハッサンに問いかけた。
ハッサンは一瞬言葉に詰まるが、リューからの目配せに気づいて頷いた。
「そうだ! 無痛手術が可能になった今、開腹手術もより安全かつ積極的に行えるだろう。私が息子と共に考えた新たな術式の1つだ!」
ハッサンの力強い声色は、周囲の外科医たちを圧倒し、彼らをざわつかせる。だが、一世一代の大芝居を打ったハッサンの額には冷や汗が流れている。
(本当に大丈夫なんだろうな!? リュー!)
彼は信頼と焦りと、少しばかりの恨みを込めた視線を義理の息子に向ける。リューは「大丈夫・・・多分」と心の中で呟いた。
「確かに・・・我々が知る従来の手術法は再発が多い。だが、全身麻酔が実現したからと言って、実際にその新たな術式を行うかどうかは別の話だろう。カルヴァン・・・その患者とは次、何時に会う約束をした?」
「3日後・・・教室内で話し合った後、邸宅を訪ねるとお伝えしました」
「・・・分かった、・・・私が行って説明する」
相手は政府中枢の文官だ。アブアールは外科学教室の代表者として、患者のもとへ自らが説明へ向かうことを決める。
「ハッサン先生、リュージーン君・・・新たな直腸脱の手術法について説明してくれませんか?」
安全で患者に負担のない、全身麻酔開腹手術の記念すべき1例目になるかもしれない。アブアールは再びハッサン親子に新たな手術の教えを乞う。
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3日後、アブアールはハッサンとリューを引き連れ、その文官の邸宅を訪れた。
「医学学校外科学教室教授、アブアール・アブルカシス=サフラヴィーと申します」
「こ、こちらこそ・・・ようこそお越しくださった・・・」
客間に通されたアブアールは、目の前に座る依頼主に頭を下げる。男は背を丸め、およそハッサンやアブアールと同年代とは思えないほどに老け込んでいる様に見えた。
男の名はフサイニー・フバイル=アルファティ、中枢の法務局に勤務する官僚だ。だが、最近では直腸脱の悪化のため椅子に座ることも難しくなり、また便漏れによる匂いも相まって仕事も欠勤が相次ぎ、屋敷に籠ることが多くなっていた。
当然、医者には相談していたが、普段かかっている内科医は飛び出た腸管をその都度肛門に押し込んで治すことを指導するだけで、根本的な治療はできなかった。そんな折、右肩の巨大な瘤に悩まされていた武官が、手術で治療した話を聞き、藁をも縋る思いで外科の外来を尋ねたのだ。
「・・・では、早速ですが私にも肛門の状況を拝見させて貰ってよろしいですか?」
「はい、よろ・・・よろしくお願いします」
フサイニーは素直に診察を受け入れる。その後、彼らは周囲の目が届かない様に、フサイニーの自室へと移動した。床の上に仰向けに寝転がって、下着をおろして貰う。すると肛門から脱出して赤々しく浮腫んだ直腸粘膜が現れた。
(これは・・・10センチメートルは脱出している)
アブアールの診察に続いて、ハッサンとリューも肛門の診察を行う。その脱出長はリューの予測を超えるものだった。彼は手袋をつけた右手の人差し指で、直腸を押し戻す様に肛門内部を触診する。
(直腸瘤や痔核の合併はない様だ)
リューは前世の記憶を思い起こす。
(確か・・・日本のガイドラインだと脱出腸管の長さが10センチを超える場合、経肛門手術で推奨されるのは『アルテマイヤー法』、でも・・・俺はこの手術の経験がないし、何よりこの世界で腸管の切除・吻合を伴う手術をするのは気が引ける・・・)
アルテマイヤー法は肛門から飛び出た腸管を切除し、新たに縫って繋ぎ直す手術法である。しかし、この方法も再発率は低くない上、繋ぎ直した腸管がちゃんとくっつかず、便が漏れてしまう「縫合不全」という重大な合併症の危険がある。
(この世界で縫合不全を起こしたらもう助けられないだろう・・・。だが、他の経肛門手術ではこの長さの直腸脱を押し込めるとは思えない・・・)
「アブアール・・・この長さの脱出腸管は、我々の知る従来の手術法では・・・」
「はい、ハッサン先生・・・おそらくは全ての腸管を元に戻すことは難しいかと思います」
ハッサンとアブアールも予想を凌駕する病状の酷さに驚いていた。それに、この世界で伝わる手術法では、おそらくは全ての腸管を戻すことは難しいことも判明してしまった。
「フサイニー殿・・・1つ、提案がございます」
「・・・提案?」
開腹手術による経腹的アプローチ法、こちらの世界ではよく知られる手術法だが、この世界では開腹手術自体が患者の命に関わるものだ。
だが、無痛手術が可能になった今、開腹手術は日常的に行える治療の選択肢に入ることとなる。実験の場であった前回の脂肪腫摘出術や15年前の緊急帝王切開とは異なり、外科学教室として初めて行う、予定の全身麻酔開腹手術・・・アブアールはその第1号として、フサイニーに白羽の矢を立てることを決意していた。
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さらに1週間後、手術の日がやってきた。この日まで、アブアールは解剖学の書を読み込み、手術に備えてきた。そしてリューも空中で手を動かしながら、前世の記憶を呼び起こしつつ、シュミレーションを重ねていた。
手術台の上には、フサイニーが横たわっている。緊張しているのか微かに震えているが、長年悩まされていた直腸脱とおさらばできることへの期待からか、その顔はどこか晴れ晴れとしている様にも見えた。
「で、では! 麻酔をかけていきますよ」
麻酔医として枕元に立つのは、最初にフサイニーの診察を行った准教授のカルヴァンだ。彼はリューの講義を思い返しつつ、フサイニーの口に被せた布マスクの上に、希釈したエーテルを垂らしていく。
(誤って目にエーテルがかからないように、両目も布で覆い、そしてエーテルは高濃度だと喉頭痙攣を起こすから・・・水で希釈したものを8枚重ねの布マスクの上へ少しずつ垂らしていく・・・)
ラマーファの診療所や前回の公開手術では、麻酔医として薬師のシャナがエーテル麻酔の導入を行なっていた。だが、彼女がラマーファに帰ってしまった以上、もはや頼ることはできない。
ゆえに、リューは外科学教室の外科医たちへ、今までずっと麻酔の指導を行なってきた。これからは、彼ら自身が全身麻酔をかけていかなければならないのだ。
(興奮がおさまった・・・瞳孔は散大なし!)
エーテル麻酔が適切な深さへと移行していく。舌根沈下で窒息しない様に、カルヴァンは経口エアウェイを挿入して気道を確保する。
ちなみに、場所は前回の公開手術とは異なり、観覧席などはない正規の手術室である。全身麻酔がなかった今までは、主に外傷の治療や皮膚腫瘍の摘出術、果ては宦官の去勢術などをこの部屋で行なってきた。
「脈拍、呼吸、異常ありませぬ」
麻酔をかけるカルヴァンは、患者の様子を報告する。リューは高濃度アルコールで術野を消毒し、清潔な布をかける。そして周囲を見渡し、全ての準備が整ったことを確認した。
「では・・・完全直腸脱に対して全身麻酔下、開腹直腸固定術を行います」
手術の布陣は、執刀医がリュージーン、第1・第2助手がハッサンとアブアール、麻酔医がカルヴァンだ。そして手術室看護師として再びカナンがついてくれたことは、リューとハッサンにとってとても心強かった。
(この前とは違って、人が少なくてよかった・・・)
手術室の壁際には、手術に入らない他の外科医たちが見物のために集まっている。また、2例目の全身麻酔手術を行うことを聞きつけた他科の医師や薬師たちも、数人集まっている様だ。しかし先日の公開手術とは異なりギャラリーも少ないため、カナンは落ち着いていた。
(何故、この小僧が執刀医なのだ? 術式を考案したハッサン先生ではなく・・・?)
(ハッサン先生の申し出だそうだ・・・)
手術を見物している外科医たちがひそひそ声で話している。この手術は表向き、ハッサンが考案したことになっているが、彼は自身の老眼を理由に、リューが執刀することをアブアールに認めて貰っていた。
ゆえに、建前としては、ハッサンとアブアールが若輩外科医のリューに対する指導助手という立場であり、アブアールを含めて他の外科医たちもそう考えていた。
しかし、彼らは知らない。リューこそが、この国で最も解剖学の知識に深い外科医であることを。
この手術が終わった後、外科学教室に属する外科医たちは、リューに対する認識を一変させることとなる。




