イドリースィー家
この「イスファダード国立医学学校」は、学生が学ぶ学舎を中心に、外来患者を診るための外来診療棟、入院患者が集まる入院病棟など、いくつかの建物から構成されている。その中には、遠方から来た学生向けに寮も併設されており、リューとハッサンにはその中の一室が提供された。
そして今、リューは外科学教室の実習室にて講義をしていた。時刻は1〜3年生の講義が全て終わった放課後、相手は教室に属する外科医と高学年の医学生だ。ナスールの様に、新たな医学知識を得られることを喜び、目をキラキラさせる者もいれば、特別措置で助教に取り立てられた若者に教えを受けることが気に入らない者もいる。
(・・・学生もいるのか)
教壇に立つリューは、椅子に座る2人の学生が見えた。15年前の事件で、他科の医師はもちろん、多くの学生からも忌避されている「外科学教室」だが、首都の政争に関わりのない、地方都市から来た学生数名が、研究生として在籍している様だ。
「・・・では、皆さんも集まって頂いた様なので、早速」
リューは参加者たちの顔を見渡し、講義を始めようとする。だがその時、実習室の扉を思い切り開ける音がした。
「すみません!」
「!?」
そこには、リューに弟子入りを志願した女学生、アイーシャの姿があった。愕然とするギャラリーを気にすることもなく、彼女は実習室へ堂々と入室した。
「あの! 私もこの講義を受けていい!? ・・・ですか!?」
アイーシャは鼻息を荒くしながら、教壇に立つリューの顔をじっと見つめる。
「また君か・・・この講義は研究室限定だ。大人しく戻りなさい」
ナスールは呆れ顔を浮かべ、退室を命じた。だがアイーシャはリューの答えを待ち、微動だにしなかった。
「・・・ナスール先生、俺は構いませんよ」
「リュージーン!?」
リューの返答は、その場にいた皆を驚かせた。ナスールは彼のもとへ近づき、耳打ちする。
(昨日教えただろう!? 彼女はイドリースィーの娘、何を企んでいるか分からないぞ!)
外科学教室が凋落する原因となった因縁の一族、政府中枢はもちろん、第一妃の親族として宮廷・後宮にも深く入り込んでいる名門の血を引く娘。この教室の外科医たちにとっては、最も警戒しなければならない人物だ。
(我々に敵意を持っているならば、そもそも俺に弟子入りを志願したりしないでしょう。それに・・・私も彼女に少し聞きたいことがあります)
(・・・何?)
リューは皇妃の“カエルの様に出っ張った醜い腹”になる病について、ある可能性を考えていた。彼女と同じ出自であるアイーシャなら、皇妃の病状について詳しく聞き出せないかと思っていた。
それよりも、まだ1年生という立場でありながら、外科へ興味を抱いてくれていることが、純粋に嬉しかったのだ。
「よ、よろしくお願いします!」
初対面の時とは打って変わって、アイーシャはリューに対して教えを乞う者として、礼を尽くした態度をとる。
彼女の着席を確認したリューは、1本のガラス瓶に詰められた液体を見せる。
「では・・・気を取り直して、麻酔学の講義を始めます」
リューが掲げたガラス瓶の中には、液体のエーテルが満たされていた。これが完全なる全身麻酔を可能にした“魔法の秘薬”だった。
「早速ですが、これが全身麻酔薬『ジエチルエーテル』です。ですが、何も新発見の物質ではありません。その正体は、過去の錬金術師たちがその著作の中で度々言及している“甘い硫酸”です」
アイーシャはリューが見せる透明の液体に釘付けになる。他の受講生たちも、身が乗り出している様であった。
「この物質には、陶酔作用・鎮痛作用があることが知られていました。我々は、この物質を肺から取り込むことで、安定した鎮痛・鎮静効果を得られる術を発見しました。それが『開放点滴法』です」
リューは続けて針金の骨組みで作られた布マスクを見せる。その後、彼はエーテルの特性と危険性、麻酔のかけ方について説明を続けた。
講義を受ける外科医や高学年の学生たちは真剣にリューの話を聞いており、時折飛んでくる質問も鋭いものであったが、どこか彼に対して警戒心を持っている様に思えた。
国内最高峰の医療機関で医師として働いてきた者が、鳴物入りでやってきた田舎の町医者(しかも少年)から教えを乞う立場に立つ。いくら教授から釘を刺されても、プライドに障らないわけがない。ナスールの様な者の方が例外だ。
「・・・!」
しかし1人、曇りなき目で教壇を見つめる視線があった。アイーシャはまっさらなノートに羽ペンで一生懸命板書を写している。
ここで得られるものは、どんな医学書にも書かれていない最新鋭の医学だ。一言一句たりとも逃すまいという気迫が見えた。
「・・・それでは、今日の講義はここまでです」
そして彼女にとって楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去る。彼女は頬を紅潮させ、ぼうっとした瞳でリューを見つめていた。そして、他の受講生が道具をまとめて実習室を後にする中、アイーシャはリューのところへ近づいていく。
「リュージーン!」
「!」
あの娘に関わるな、そう警告していたナスールは思わずギョッとした顔をする。リューは穏やかな表情で、年上の1年生女学生を見下ろす。
「また、来ても良い・・・?」
「ええ、もちろん。ですが、本来の学業に支障のない範囲なら・・・」
リューは麻酔学講義への参加を許可した。アイーシャはパッと明るい笑顔を浮かべる。
「絶対だよ! また来るから!」
アイーシャは実習室からかけだしていく。喜びを隠せない彼女の後ろ姿を、リューは手を振りながら見送った。
「・・・おい! どういうつもりだ、あんなことを言って!?」
その和気藹々とした雰囲気の2人とは裏腹に、ナスールは憤りをあらわにする。彼はリューが忠告を無視したことに苛立つ。
外戚の一族イドリースィー家にとって外科学教室は、大事な政争の駒である皇妃を、子の産めない体にした“罪人”の集まりだ。その一族の血筋の娘がわざわざ外科学教室に近づいてくるなど、何か企んでいるとしか思えない。
「すみません、ナスール先生・・・でも、あの子自身は我々を敵視しているのでしょうか? 俺にはそう思えないのです」
「・・・何?」
リューはアイーシャのバックにある有力貴族の存在を見ていない。彼は彼女自身が外科に対してどういう思いを抱いているのか、測ろうとしていた。
「そもそも、彼女自身が我々を敵視しているのなら、我々に近づくことすらしないでしょうし、何か企むにしても・・・イドリースィー家が命じて我々に接近させる動機はないでしょう」
「それは・・・そうかも知れないが・・・」
リューの目には、アイーシャは純粋に麻酔に興味を持っている様に見えていた。ならばこちらから拒む理由もない。
「まぁ・・・成り行きを見ましょう。アブアール先生には、俺から一言報告しておきます」
「わ、分かった」
ナスールは頷く。リューの落ち着いた声と言い回し、事態の落とし所の付け方は、とても17歳の少年とは思えないほどに大人びて、慣れている様に見える。ナスールはリューがずっと年下であることを、一瞬忘れてしまった。
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その後もリューが講義を行う日は、アイーシャは必ず外科学教室へ顔を出す様になっていた。それを知ったアブアール教授は勿論、ハッサンでさえ良い顔をしなかったが、リューが強い拒否をしない以上、アイーシャに対して明確な出禁を命ずることはなかった。
「リュージーン! さっき言ってたことで質問なんだけど・・・」
「リュージーン! 麻酔前投薬で使う生薬って・・・」
「リュージーン! 実は・・・この前の1年生座学で分からないところがあって・・・聞いても良い?」
アイーシャの麻酔学講義への理解は鋭い。また客員助教ではありながら、実際には年下であるリューには色々聞きやすいのか、通常の講義の質問までしてきた。
この世界の医学教育は、組織学や微生物学、生化学、遺伝学、免疫学など、現代医学でいうところの「基礎医学」は存在しない。顕微鏡もこの国ではまだ一般的ではないため、細胞や微生物も発見されていなければ、細胞内の化学物質と生命現象を研究する学問「生化学」も、萌芽すらしていない段階だ。
ゆえに、この世界の医学教育は、解剖学や臨床医学、薬学など、実際の診療に即したものがメインである。それは元々臨床医であるリュージーンこと、黒川大吾にとっては得意分野であった。
「リュージーン!」
「はい? なんでしょうか、アイーシャさん」
この日も、アイーシャはリューに質問をぶつけてくる。医学科1年生は今、人体の構造について学ぶ「解剖学」の講義が行われていた。
「あの、この膵臓という臓器の機能って何なの? どの教科書にもあまり詳しく書いていなくて・・・」
この国の解剖学のレベルは現代世界と比較して決して低くはない。だが、人体解剖へのハードルがまだまだ高く、現代の医学知識からすると間違っていること、分かっていないことも多いことが現状だ。
膵臓はインスリンをはじめとする各種ホルモンと消化液を分泌する臓器であり、食物の消化吸収と血糖値の維持に大きく関わることは、現代であれば常識的な知識だが、この世界における膵臓は体の奥底にある、良く分からない暗黒臓器であった。
「・・・」
この世界にない医学知識を伝えて良いものか、リューは言葉を詰まらせる。アイーシャはキラキラした目で、彼の顔を見上げていた。
リューは困った笑みを浮かべ、小さなため息をついた。
「膵臓の機能は、食物の消化や栄養素の吸収・代謝に関わる酵素・物質の分泌、いわば・・・胃や腸と同じカテゴリーの臓器の1つです」
「・・・え!? そんなこと、どの本にも書いてなかった!」
アイーシャが驚くのも無理はない。彼が口にしたのは、まだこの世界では未発見の医学だったからだ。
「それは・・・どの医学書にも載っていない、俺しか知らないことだからです。貴方は今、この世界で最も進んだ医学を知識を得た。だから・・・このことは誰にも言ってはいけません」
「・・・え。あ・・・分かった」
リューは自分の医学知識を口止めする様に忠告する。アイーシャはわずかに動揺するが、彼の有無を言わせぬ鋭い眼光に気押され、ぎこちなく頷いた。
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首都イスファダードは「3重の城壁」によって構成される。医学学校が位置するのは、最も内側の城壁と中間の城壁の間に相当する、貴族や富裕平民が暮らすエリアだ。
一般市民が出入りできるのはこのエリアまでであり、最も内側の城壁の中は、皇族と妃たちが暮らす宮廷・後宮がある。ここに出仕できるのは、貴族官僚や武官の中でもさらに一握りの男だちだ。以前、公開手術の場にて脂肪腫の摘出手術を受けたサルミーン・ファラック=アヴドゥルファーミーも、そんな上級貴族の1人だった。
「ほう! ・・・本当に瘤がなくなっている!」
「傷跡も綺麗だ・・・。手術を受けられたという話は本当だったのですね」
首都中枢の軍務部に勤めるサルミーンは、部下たちと雑談をしている。彼は右肩を豪快に露出し、手術の跡を自慢していた。
「そうだろう! 見事なものだと思わないか! そして手術は全く痛くなかった! 外科学教室の新たな麻酔薬の効力は素晴らしかった!」
外科学教室が全身麻酔を実証したことは、すでに政府中枢にまで届いている。サルミーンがこうして興奮のままに宣伝して回っているからだ。
また、国の医療政策に関わる官僚・役人たちにとっても、すでに周知の事実となっている。だが、その功績を成したのがあの「外科学教室」であることを、快く思わない者たちがいた。
「・・・あの男、また瘤の手術ごときで大騒ぎしおって」
その男は白い髭を蓄えた老人だった。細身ながらも、絢爛な衣装に身を包んだ彼の背後には、多くの取り巻きや従者がついている。
(見ろ・・・イドリースィーの当主だ)
多数の部下を引き連れるその男を見て、周囲の武官や官僚たちがひそひそ声で話し始める。
(子を産めない妃を無理やり後宮に繋いでいる恥知らずだ・・・)
(外戚としての影響力を失うのが怖いのだろう)
(新興貴族故の厚顔無恥さだ。皇帝陛下もさぞかし煩わしくお思いだろうに・・・)
イドリースィー家とは、南方諸国との海洋貿易で財を成し、ここ数十年で政府内へ影響力を強めている新興の貴族だ。後宮の第一妃であるシェエラザード・アメンホテプ=イドリースィーもその家門の出身であり、“外戚の一族”と呼ばれている。
しかし、その第一妃は醜い傷と子を産めない体を背負ったことで、皇帝や他の皇族からの興味を失ってしまう。子を産めない妃など、本来ならば後宮から追い出されてもおかしくないが、イドリースィー家からのバックアップで今の地位にしがみ付いている状態だった。
「・・・チッ」
白い髭の老人は、自らに浴びせられる侮蔑の言葉を目敏く察知する。元々が新参勢力であるという背景、そして財力を盾に、世継ぎを産むという役目を果たせない妃を後宮に繋ぎ止めている状況は、周囲から数多の非難にさらされている。
(・・・此方とて、好きでシェエラザードを繋ぎ止めているわけではないわ! それもこれも・・・あの愚かな娘が医学学校などに入りよったことが始まり!)
老人も、今の状況が旗色を悪くしていることは重々理解している。だが、外戚の一族としての影響力を失いたくはない。ゆえに彼は現第一妃と引き換えに、一族の“ある娘”を入内させようと目論んでいた。
だが、その娘は大叔父かつ一族の当主である彼の命令を拒否し、気弱な実父を説き伏せて国立医学学校に入学してしまったのだ。
(好きにさせるのも今のうち・・・イドリースィー家に生まれた女として、その骨肉・・・一族の発展に捧げてもらうぞ、アイーシャ!)
男の名はオマール・アヌビス=イドリースィー。彼は目尻を震わせながら、自らの手中から逃げ出した憎き娘の顔を思い浮かべていた。
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リューとハッサンが首都に滞在しておよそ3週間が経ったある日、ラマーファに帰っていたカナンが、追加で注文した新たな外科道具を持ってきてくれた。
「ありがとう、カナン!」
「えへへ・・・!」
リューははるばるやって来た彼女を、外科学教室内の実験室に招いていた。周囲では、教室に所属する学生や医師たちが、蒸留装置を用いて高濃度アルコールやエーテルの精製を行っている。
この3週間で、彼らは手術に用いる高濃度アルコールやエーテルの生産体制を整えていた。今までシャナ1人に頼っていたエーテルの入手手段を、増やすことに成功したのだ。
「さてと・・・」
リューはカナンが持ってきた布の包みをテーブルに置き、その中身を広げる。金属音と共に鉄製の外科道具が姿を現した。するとナスールとアブアールを筆頭に、周囲の外科医や学生たちが興味深々な様子で集まってきた。
「これは・・・奇妙な形の鉗子だな」
ハッサンはその中の1つを手に取った。ペアン鉗子やコッヘル鉗子とは異なり、先端が横に幅広くなっており、その形状はトラバサミを彷彿とさせる。
「アリス鉗子と言ってね、腸管粘膜などの柔らかい組織を把持するのに便利なものだよ」
包みの中にはそのアリス鉗子が3本ほど入っていた。その他には、主に開腹手術に使う腹壁を掴むための「ミクリッツ鉗子」、さらには普段使っている鉗子や鑷子などよりも長い「ケリー鉗子」や「長鑷子」「長剪刀」、先端がほぼ90度湾曲している「直角鉗子」など、現代医学で使用される様々な外科道具が並んでいた。
「この鑷子と剪刀、だいぶ長い様だが・・・どういう状況で使うんだ?」
アブアールは「長鑷子」と「長クーパー剪刀」を手に取る。リューはニヤリと笑った。
「これは開腹手術の時、手では届かない奥深い場所にある組織を把持するために使います」
「・・・開腹手術!」
腹を切り開き、その中にある臓器に直接手を付ける「開腹手術」・・・この世界に生きる外科医にとって、永遠の課題であり、いずれ乗り越えなければならない試練である。
アブアールとハッサンは先代教授と共に、皇妃の帝王切開+子宮摘出術を成功させた過去がある。しかし、それは陣痛のため痛みの閾値が狂っていたという特殊な事情があったからだ。
「全身麻酔が確立した今、いずれたくさん出番があると思いますよ」
しかし、リューがもたらしたエーテル麻酔を用いれば、安全で患者への負担が少ない開腹手術が可能となる。
「これらの道具は・・・君の思いつきか、リュージーン君?」
「・・・はい、俺が新たに考案した外科道具です。いずれお披露目する機会が来るのを楽しみにしています」
リューはハッサン以外に、自分が転生者であることを明かしていないし、明かすわけにはいかない。リューの答えを聞いて、アブアールは生唾を吞み込んだ。
その場にいた者たちが、外科学の新たな局面を肌で感じる中、ある外科医が話題を変える。
「あの・・・話を変えて申し訳ありませんが、実は外来患者で1人、相談したい者がいるのです」
外科学教室准教授のカルヴァン・ヴェンセマ=イテハドは、ある高級官僚がお忍びで自らの外来を訪れていたことを明かした。
その官僚は政府中枢に仕える文官なのだが、長らく“ある病”に悩まされてきたという。
「どうやら、無痛手術のことを聞きつけて来た様なのです。外科手術でどうにか出来ないかと、私に相談してきました」
「・・・で、その病とは?」
「・・・実は」
その官僚は、長らく肛門の違和感に悩まされてきた。肛門の疾患は羞恥心からなかなか医師にかからない者が多いが、その違和感が日常生活に支障を招くようになっていたこと、そして無痛手術の評判を聞いたことで、ようやく医師に相談する決心がついた様だ。
「その方は、自らの病を『痔』だと考えていた様ですが、肛門を拝見したところ、腸管そのものの脱出を認めました。・・・おそらくは」
「・・・『直腸脱』か」
アブアールはある病の名を口にする。外科学教室に次なる試練が訪れていた。




