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グレンツシュタイン検認録  作者: 篇乃綴り堂
第三部 名なしの十三日
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第十五話 大検認

 原本庫は、思いのほか、狭かった。

 石の壁、石の床。棚のひとつもない。部屋の中央に黒い樫の台がひとつ据えられ、その上に、鎖で綴じた厚い綴りが一冊、開かれるのを待っていた。持ち込んだ角灯ふたつのほかに明かりはなく、空気は冬の井戸の底の匂いがした。王国でいちばん深い部屋に七人が立つと、声は、囁きで足りた。

 テオドール・ブレンナーは敷居をまたぐ前に一度足を止め、頁をめくる前の癖のまま、指を拭った。

「原初契約の、原本です」

 院長アーデルハイト・フォン・エルレンバッハが、台の前に立った。

「建国の年に一通。以後、連署の頁を継いで、四百年。……ご覧なさい、検認官殿。あなたが一年、石のかたちで検めて歩いたものの、本体です」

 テオは、台に歩み寄った。

 最初の頁は、四百年前の文語だった。朔日の大広間で読み上げられた勅令の、あの半分も聞き取れない文体の、そのまた祖先である。頁を継いで、歴代院長の連署が並ぶ。責を負った名の列は、手から手へ、四百年、切れ目なく続いていた。列のいちばん新しい一名は、いまテオの隣に立っている。

 そして、代償の章の頁だけが、白かった。

 白い、と言い切るのは正確でない。角灯を斜めにかざすと、白の中に、筆圧の窪みだけが細く残っているのが分かった。文字の、影である。壁から外した額の跡のように、そこに何かがあったことだけを、頁は覚えていた。

「わたくしが連署した日には、まだ、字の形が読み取れました」院長は言った。「いまは、窪みだけです。この決算を越えれば――それも、掃かれます」

 テオは、行嚢から真新しい綴りを出した。表題は昨夜のうちに書いてある。更正検認記録。綴じ紐は、麻の三つ縒りである。バルタザールがそれを目に留めて、鼻から短く息を出した。今日は、全部を規程どおりにやる。規程のない手続きを、規程どおりに、である。

「様式を、確かめます」院長が続けた。「係争の記帳の更正は、歴代の申し送りに遺る、この院の最後の様式です。三つの柱の証を立て、検認官が録し、立会人が検め――結びに、係争の当事者が、連署する。……当事者には、召しを発してあります。参るか否かは、わたくしどもの帳面の外です」

 綴りの終わりに、空けられた欄がひとつ、待っている。テオはその欄を見ないことに決めて、最初の頁を開いた。

「更正検認を――始めます」

 自分の声が震えていないことに、少しだけ驚いた。ポルツの窪地の夜と、同じ驚き方だった。

「作法は、検認と同じです。読み上げ、突き合わせ、一致と不一致を検める。……相手が石ではなく、原本だというだけです」


   *


「物の証から、参ります」

 台の脇に、一年の旅が、ひとつずつ並べられていった。ポルツ川手三号石の立会検認調書。六件の食い違いの控えと封緘の帙。北辺の検認図面と実測の数字。苔の下から抓み出された、朽ちた杭のかけら。ライムントの、二十年ぶんの写しの綴り。

 封緘の帙は、テオが自分の手で開けた。封蝋の印影は、春のポルツで捺したまま微動もしていない。捺した本人でなければ、解けない。解ける者が正しく解いて、初めて中身は証になる。温めた小刀で封を起こすと、三十歩と、五十歩と、三十歩が、季節を四つ越えて出てきた。

 読み上げる。原本に、というより、この部屋そのものへ向かって、読み上げる。石の銘。謄本の文言。縄の数字。歌の里程、杭穴の列、五里。テオは一件ずつ記録に録し、職名、氏名、日付の順に署し、裾に検認官印を半分だけ重ねた。

 印影が、沈んだ。

 浅くではない。宿の領収書や関所の手形の沈み方ではなかった。深い水に石を置くような、底のある沈み方だった。外の王都では、いまごろ、どの判も眠っている。名のない十三日の内に、利く紙はない――既にある記帳の、更正を除いては。この綴りの上でだけ、印は目を覚ましていた。テオはいま、春の土間で子供に講釈した理屈の、そのただ中に立っている。帳簿の訂正は、決算のときにこそ、通すものなのです。

「――受理、です」

 声が半音上がった。リーケが何か言いかけて、今日のところはやめたのが、目の端で分かった。

 三通目の番になった。

 バルタザールが、油紙の包みを両腕で抱えて、台まで運んだ。五十年、床下の穴倉で火の来る日を待ちつづけた、規定外の一冊である。老書記は包みを解き、掌で一度だけ表紙を撫でてから、テオへ渡した。

「文書保存規程第九条」テオは、諳んじた。動揺のためではない。今日は、正確のために諳んじた。「公文書の複製は、正本一通及び副本一通まで。……この綴りは、規程の外にあります。ですが、基層は真実を検めません。形式を――帰属を、検めます。この三冊目には、書いた者の名があります。日付は五十年、一日も飛んでいません。誤りは二重線と訂正印で残り、余白には、その日の天候と豚の頭数まで書いてある。誰が、いつ、どの手で書いたか。これほど帰属の立った紙を、私はほかに知りません。規程に反することと、帰属が立たないことは――別の帳です」

 録し、署し、捺した。

 印影は、一拍、浮いたままでいた。

 狭い部屋の息が、ぜんぶ、その一拍に吊られた。

 ――沈んだ。

 どの証よりも遅く。そして、どの証よりも深く。

 バルタザールが、長い息を吐いた。

「……五十年じゃ」老人はそれだけ言い、それから、いつもの調子で付け足した。「控えというのはな、こういう日のために、とってあるんじゃ」


   *


「検めの証に、参ります。……鑑定人、どうぞ」

 ルチア・スクリバーニが、鑑定書の筒を抱えて台の前へ進んだ。

 陳述は、彼女の早口を知る者が驚くほど、ゆっくりと読み上げられた。破棄命令書の紙は、百年前のものではない。墨も若い。ゆえに北辺の相互写しの除籍は偽装であり、写しは破棄されたのではなく、破棄されたことにされた。中央謄本の一巻は、様式を保ったまま丸ごと若く、巻ごと差し替えられている。物差しは二系統。南の、百年ぶんの日付既知の紙と墨。王都の、五十年ぶん日の飛ばない綴り。同じ結論が、別の物差しで、二度出た。それを検算と呼ぶ。

「以上の鑑定を、組合の公認において保証します。……鑑定人――」

 筆を執った手が、欄の上で震えて、止まった。

 百年、この家の者は、公式の紙に名を書くことを許されなかった。名前って、欄に入ると別の字に見えるのね、と言った欄が、いま、目の前で空いている。ルチアは筆先をいったん紙から離し、息を整え、小さく笑った。

「……家名のために書くなら、きっと、手は震えたまま。でも、これは検算のために書くの。検算は、わたしの仕事。仕事なら――書ける」

 鑑定人、ルチア・スクリバーニ。

 一画目から最後の一画まで、手はもう震えなかった。震えたのは、書き終えて筆を置いた、そのあとだった。署名の裾に組合公認の印が捺され、朱が、深く沈んだ。スクリバーニの名が、百年ぶりに、王国の公式の記録の上で利いた。

「――上等」

 誰にも聞こえない声だった。聞こえなかったことに、全員がしてくれた。


   *


「人の言の証に、参ります」

 テオは記録の新しい頁を開き、頁の頭に、建国の綴りの先例のとおり、一行を書いた。

 ――署名に代えて、名乗りを録す。

 それから、筆を持ったまま顔を上げた。

「シグリドさん。あなたの様式で、どうぞ」

 シグリドは、樺の皮の包みを胸に当てたまま、台の前に立った。冬館の炉の縁でそうしたように、誰を見渡すでもなく、手を組むでもなく、ただ、立った。

 原本庫に、歌が満ちた。

 署名はない。印章もない。封蝋もない。あるのは、名乗りだけだ。――わたしはシグリド、ソルケルの娘、フィエルミュリのアスヴェイグが孫、歌い手の系譜の末。祖母から歌を受け取り、ここに、返しに来た者。

 歌が、里程を数えはじめる。白杭より北へ二里、羊の谷。谷より東へ一日、九つ橋。谷より北へ二里――フィエルミュリ。百年前に地図から消された道のりを、歌だけが覚えていた。

 歌は、村を数えた。泥炭の煙、九つの竈。井戸はふたつ、舟は五艘。干し魚の棚、橋板の数、家々の名。生まれた子の名がひとつずつ節に乗り、石の壁に触れては消えた。禁じられて百年、炉端の囁きでしか生きられなかった段が、王国のいちばん深い部屋で、初めて、惜しまぬ声で歌われていた。

 テオは筆を動かした。歌は、書かない。録すのは名乗りと、証言の言葉だけである。それでも筆は震えなかった。四百年前の締めの日、立会の書記も、こうして立って、名乗りを書き留めたのだ。

 歌が、終わった。

 基層は、沈黙していた。

 四百年のあいだ帰属なき言葉を退けつづけてきた世界の帳場が、いま、最も古い様式の署名を検めている。

 テオは待った。指一本動かさず、息だけで立っていた。人の作ったあらゆる規程の、そのいちばん底にあるものの返事を、待った。

 どれほど待ったのか。

 返事は、音を立てなかった。光りもしなかった。ただ、部屋の沈黙が変わった。検めている沈黙から、検め終えた沈黙へ。どこがどう違うのかは、言えない。違うということだけが、そこにいる全員に分かった。

 視線を落とすと、録した名乗りの墨が、署名と同じ深さに沈んでいた。

「……受理、です」

 今度は、声は上がらなかった。上げられる高さでは、なかった。

 シグリドは、長いこと動かなかった。それから、胸の包みを、ほんの少しだけ緩めた。

「――祖母さま」歌のあとの、掠れた声だった。「返して、きた」


   *


 残るは、綴りの終わりの、空いた欄ひとつになった。

 誰も、その欄の話をしなかった。話さないことで、全員がその欄のことだけを考えているのが、狭い部屋の空気で分かった。三本の柱は立った。検認官は録した。立会人は検めた。それでも、係争の記帳の更正は、係争の当事者の連署をもって完成する。当事者が来なければ、この綴りは、あと十二日で、立ったまま掃かれる。

 螺旋の上から、足音が降りてきた。

 二人ぶん。ひとつは重く、規則正しい。もうひとつは、それより硬い。

 敷居の外の暗がりに、クルト・アシェンバッハが立ち、音もなく脇へ退いた。

 エーレンフリート・フォン・フェルンブルクは、敷居の上で一度立ち止まり、部屋の中の顔をひとつずつ検めた。院長。文書監。老書記。鑑定士。歌い手。護衛。最後に、テオ。それから、当たり前のことのように、敷居をまたいだ。この部屋に入ることは、当事者になることである。この人は、家印を継いだ日から百年ぶんの当事者として、初めから、この部屋の中の人だった。

「――遅参を、お詫びします。返す物を、屋敷へ取りに戻っておりましてな」

 辺境伯は、油紙の包みを台に置いた。ルチアの両手が、口元へ上がった。雪の岬で奪われた、鑑定書の原本だった。

「新しい鑑定が立った由は、聞き及んでおります。もう、要らぬ紙やもしれません。……ですが、要る要らぬと、返す返さぬは、別の帳です。預かり物は、お返しする」

 それから彼は、綴りの終わりの、空いた欄を見た。

「様式を伺いましょう、検認官殿。私は、何に、名を連ねるのです」

「更正の一行に、です」テオは、記録を彼のほうへ向けた。「古い行は、消えません。曾祖父君のなさったことは、なさったこととして、永久に残ります。その裾に、正しい一行を継ぎます。……その一行に、係争を立てた側の帰属――フェルンブルク家の家印の連署を、いただきます」

「家の罪を、家の印で、記帳せよと」

「はい」

「家宰は、最後まで反対しましてな」辺境伯は、懐から印匣を出した。盾に樅の木。四百年、家督とともに継がれてきた印である。「印は家の命だ、罪に捺せば家が終わる、と申します。……逆でしょう。罪に捺せなくなった日に、印は、もう終わっていたのです」

 彼は朱を含ませ、両手で印を構え、欄の上で、一度だけ止めた。

「検認官殿。審問の日の、言いかけの続きを、申し上げておきます。守るべきは、家印の無疵ではありませんでした。家印が、嘘を捺さぬこと。……二十年かかって、帳尻が、そこへ来ました」

 印が、下りた。

「――家を守るとは、こういうことだ」

 誰に向けた声でもなかった。完璧な礼節が、その一言だけ、素に返っていた。

 印影は、長いこと、朱のまま浮いていた。百年ぶんの重さを、世界の帳場が量っている。テオは待った。辺境伯も、印から手を離さぬまま、待った。

 沈んだ。

 深い水の、いちばん底まで。

 敷居の外で、クルト・アシェンバッハが、初めて、安堵としか読みようのない顔をした。


   *


 最初に気づいたのは、シグリドだった。

 歌い手は、耳のいい者の癖で、音のないものにも早い。彼女の視線を追って、テオは台の上の原本を見た。

 白い頁の窪みの底に、墨が、戻ってきていた。

 光らなかった。音もしなかった。ただ、乾いた地面が雨を吸うのと逆のことが、静かに起きていた。頁が、退いていた読みを取り戻していく。影だった窪みが線になり、線が文字になり、文字が――条項になった。

「――通った」

 敬語が、落ちていた。生まれて二度目のことだった。テオは息をひとつ吸い、直した。

「……失礼を、いたしました。更正――成立、です」

 しばらく、誰も動かなかった。動けるようになるまで、めいめいに、時間が要った。

 院長が最初に台へ歩み寄り、四百年の当事者として、百年ぶりに読めるようになった頁を、声に出して読んだ。検めの年ごとに、北へ返るもの。塩。鉄。杭の内の草地の、氏族の使い。帯に住まう者らの、竈と井戸と舟の権。読み上げられていく文言は、ハルヴァルドが祖母から聞かされて育った言い伝えと、一字ずつ、突き合っていった。

「――一致、です」

 テオの声は、半音どころではなく上がった。今度は、リーケも黙っていなかった。

「上がってる。……いままでで、いちばんだ」

 紙と口伝が、百年ぶりに一致した。どちらも、正しかったのだ。ずっと。別々の場所で。

 更正の記録には、証言の写しが綴じられている。木札三十七枚の名。峠の吹雪の、十六人の名。村を出た五十三人が、五十三人とも、王国の紙に初めて数えられた。死んだ者は、百年目に、ようやく死者の欄に入った。無い村の者は死ぬこともできんと、氏族長は言った。フィエルミュリは、在った村になった。在った村の者は、生きたとも、死んだとも、書いてもらえる。

「執行の沙汰を、申し渡します」院長の声が、様式に戻った。「北辺の境の記帳は、原初契約の定めた線へ還ります。ただし、杭は無銘です。基層は、杭を運びません。人が動かした杭は、人が担いで戻すのです。――フェルンブルク家は、雪解けののち、家の費えをもって、五里の杭を旧の穴へ戻すこと」

「承ります」辺境伯は、深く礼をした。「私の署名は、四百の家の竈の火を保証しております。今日からは、そこに杭の運び賃が載る。……それだけの、ことです」

「原初契約は、係争を出ました」院長は、最後に、それだけを言った。「柱は、四本とも立ったままです。……封は、保たれました」

 露頭の帯に降る雪を、テオは思った。白い杭の線は、これからも、そこにある。ただし――あるべき場所に。

 螺旋を昇ると、紙の川の音が戻ってきた。決算は、まだ十二日残っている。玄関広間の黒板の前で、王国でいちばん深い検めを終えたばかりの男は、謄本室の主任に袖を掴まれた。検認官どの、手が空いておられるなら、この木箱の山を――テオは、断らなかった。断らないどころか、少し、嬉しかった。十二日ぶん、手伝える検めが、まだある。


   *


 名のない十三日の、最後の一日は、よく晴れた。

「南の旧い暦なら、今日は――名を返す日、よ」荷ほどきの手を止めて、ルチアが言った。

 名を、返す日。借りた名で過ごした一年が、名を返して、締まる日。二百年前の南の暦は、年の瀬の最後の一日を、そう呼んでいた。今年ほど、その名のとおりに暮れていく年は、なかっただろう。

 年が明けた朝、王都は、音で分かった。

 パン屋の店先で判が沈み、桟橋の渡しの銘が目を覚まし、方々で、小さな封の音が街に戻ってきた。年が、明けたのだった。

 文書院の主計室の窓口から、札が外された。

 リーケは、開いたと同時に窓口へ立った。一年ぶんの領収書と受取証の束が、日付順に、費目順に、按分の但書つきで、台の上に積み上がった。見覚えのある主計官が半泣きで三日かけてそれを検め、四日目の朝、過不足、零、と読み上げた。仮払の残りは、一枚残らず返された。渡しの倍額の但書も、冬営装備の枠も、危険手当も、南の心付けの按分も、算定不能の注記のひとつに至るまで、どこからどう突いても、狂いがなかった。主計官は受理印を捺し、捺した印影を、なぜかしばらく拝んでいた。

「完全精算だ」リーケは、受理の写しを一枚だけ、行嚢ではなく、胸元へしまった。

「お疲れさまでした。……その写しは、綴りに入れないのですか」

「これは、あたしの取り分だ」リーケは、窓の外を見た。冬の空は、高かった。「……グレーテ。見たか。一年やって、紙は、一枚も負けなかったよ」

 誰に聞かせる声でもなかった。テオは聞かなかったことにして、聞いた全部を、覚えておくことにした。

「なあ、坊や」戻ってきた声は、いつもの声だった。「あんたの書類のことだがな」

「はい」

「……嫌いになってない、って言い方は、今日で仕舞いだ。あれは、嫌いなものの側の言い方だ。あんたの書類は、もう、そっちの帳面には載ってない」

 どの帳面に載ったのかは、言わなかった。テオも、訊かなかった。訊かないまま、その一行を、胸の内の日誌の、私見の欄に書いた。今度は、二重線を引かなかった。

 恩賞の沙汰は、年明けの七日目に下りた。院長と文書監の前で望みを問われたテオは、姿勢を正して答えた。

「文書保存規程第九条の、改定を願います」

 沈黙が、たっぷり三拍あった。

「遠隔の村役場に限り、正副二通のほか、離所に保管する三通目の控えを認めていただきたいのです。様式は、ポルツ村の運用を基とします。三冊を年に一度、相互に突き合わせて検算すること。一冊は、火と水の事情を別にする場所へ置くこと」

「……昇進とか、金とか、あるだろうが」リーケが天井を仰いだ。

「規程が、いちばん長持ちします」

 沙汰は、通った。改定条項の写しを両手で受け取ったバルタザールは、三度読み、三度とも同じ行で洟をすすった。わしの床下が、規程になるじゃと、と老書記は言い、それから付け足した。規程になっても、床下はやめん。規程は変わるが、床下は変わらんでの。誰も、反論しなかった。

 便りは、次々に着いた。

 東隣の路線のケラーからは、勢いのいい癖字が二枚。年明けに謄本を検め直したら、二十五と十五の食い違いが、裾に更正の一行を継いだ形で直っていた。テオ、何があった。おまえが王都で何かしたのなら、次に会うときの酒代はおまえ持ちだ。――テオは返事に事実だけを正しい欄で書き、酒代は経費で立たない旨を、但書で添えた。

 北へ発つ荷橇には、更正を継いだ北辺の巻の、新しい謄本が積まれた。川手の三号石の頁は、五十歩の行の裾に一行を継いで、三十歩に還っていた。石は、四百年、動いていない。ようやく、写しのほうが、石に追いついた。

 峠の関からは、北の若い衆が雪を漕いで運んだ一通。ハルヴァルドの口上を、里の書き手が書き取った紙だった。検めの年の返しが、百年ぶりに入江へ着いた。塩と、鉄と、草地の使いの沙汰。氏族長はそれを検めて、一言だけ言ったという。――返された、と言うておく。客人に、そう伝えよ。それから、続き歌の禁は、長たちの合議で解かれた。歌え、と。

 その晩、院の前庭の雪の上で、シグリドは新しい段を歌った。フィエルミュリの数え歌の、そのまた続き。名の還った年の段である。判子の国の検認官が縄で百年を測るくだりがあり、腕相撲三人抜きの護衛のくだりがあり、テオは耳まで赤くなり、リーケは終始、満足げだった。歌は、生きている。生きているものは、新しい節を継ぐ。

 南からも、一通。組合の沙汰の写しだった。百年前の断罪の記録の裾に更正の一行が継がれ、スクリバーニ家の雪冤と、公証人資格の回復が申し渡されていた。ルチアはそれを一度だけ読み、筒に納めた。帰ったら、看板の字を書き直させるわ。うちの名のぶんだけ字が新しくなるのは、癪だけど。目の縁が赤いことは、誰も、鑑定しなかった。

 北からの異変の届けは、年明けから、目に見えて減っていった。渡しの老人の拇印が、また沈むようになったという報せが、緩衝の帯の村々の綴りに交じっていた。方位銘は、北を思い出した。眠っていた古い銘が、順に、目を覚ましていく。利くはずのものが、利くはずのとおりに、利きはじめていた。


   *


 雪解けの気配が北の便りに載りはじめた頃、南から、もう一通が着いた。

 アウレリオの、観測帳のように几帳面な手跡だった。学院がひっくり返った顛末が三枚、検算の礼が一枚、結びに、一行。――大帳簿が何であるかは、これで検まった。どこから来たかは、わしは知らん。知らんものは知らんまま死ぬるが、分からんものが、一つ減った。上出来の生涯じゃ。

 テオは、その一行を日誌の余白に写した。世界の根の根まで検めることは、誰にもできない。できないことを、できないと正しく書ける者だけが、検められることを、正しく検める。四十年笑われた老人は、最後まで、その作法の人だった。

 その日の午後、テオは文書監の執務室に呼ばれた。

 コンラート・ヴィンターは机に着いて、綴りを読んでいた。テオが入室の礼を執っても、顔は上がらなかった。すべてが終わっても、そこだけは、何も変わらなかった。

「辞令だ」

 机の端の書面が、指二本で滑ってきた。巡回検認官テオドール・ブレンナーに、北部路線の検認の完遂を命ず。雪解けをもって北上し、中断せるスケルヴィクの検めを果たすこと。署名。職印。日付。様式は完璧だった。ただし今度は、完璧の向こうが、少しだけ読めた。

「検めかけの帳面が、あります」テオは言った。「戻る、と約しました」

「結構」

「……その先も、あるのですか」

「あると思うかね」

 質問に、質問が返ってきた。コンラートは綴りを一枚繰り、二枚目の書面を、一枚目に重ねた。北部路線の完遂ののち、東方の検認地の検めに充てる。理由の欄は、なかった。理由を書かなくてよい様式である。

「東の検認地の一覧は、謄本室のいちばん奥の棚だ。百年、誰も検めに行っていない石が、まだある」文書監は言った。「大検認は、百年に一度だ。……百年は、十三日より、いくらか長い。だが君は、急ぐだろう」

「拝命します。様式に、瑕疵がありませんので」

 退出の礼を執り、踵を返しかけたとき、

「――よい旅を」

 と、文書監は言った。書類から、顔を上げないまま。

 五文字は、今度も少しゆっくり聞こえた。気のせいではなかったのだと、いまのテオは知っている。一年と一冬まえ、この部屋でこの五文字を受け取った男は、それが何の始まりかを知らなかった。知らないまま、正しい場所に置かれた。置いた老人は、いまも書類を読んでいる。読みながら、たぶん、笑っている。顔のどこにも、書いていないだけだ。

 出立の朝、王都アクテンブルクの北門は、また、春の靄の中にあった。

 官給ラバの七号は、検認具と謄本の行李を積まれても平然としていた。テオが手綱を引くと、動かなかった。テオが黙って歩き出すと、ついてきた。一年と一冬かけて二者の間に結ばれた、どの帳面にも載らない約定である。

「仮払願は」リーケが、横に並んだ。

「三度、書き直しました。自分で、です」

「見せろ。……ふん」検分は一行目から始まり、めずらしく、途中で終わった。「初めから、枠が正しい。つまらん男になったな」

「褒めていますか」

「褒めてる。たまにはな」

 ルチアは南へ、看板の字を直しに帰った。次の検めが立ったら文で呼べ、鑑定人の欄はもう空けるな、が別れの口上だった。シグリドは峠まで同道して、新しい歌を北へ持って帰る。バルタザールは、ひと足先の荷橇で、規程になった床下へ戻っていった。世話になった者たちの帳尻が、それぞれの土地で、それぞれに合っていく。

 北門を出ると、官道は、雪解けの水音の中をまっすぐ北へ延びていた。その先に、検めかけの入江がある。そのまた先の、東の果てに、まだ誰も銘を読み上げに来ない石が、立ったまま待っている。

 テオは、日誌の新しい頁に、日付を書いた。

 旅は、まだ検め終わっていない。


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