カッコウの幸福
テネブラエ領へ向かう馬車の中は、静かだった。
王都を離れてしまえば、舗装された石畳はやがて土の道へと変わる。車輪が立てる音も、王宮近くの硬質な響きから、どこか柔らかく、揺れを含んだものになっていた。窓の外には、冬の近づく枯れた森と、ところどころに残る黄金色の晩秋の草原が流れていく。
私は、向かいに座るお兄様――いいえ、これから夫という立場になるユーリスをほんの少しだけ盗み見た。
けれどすぐに視線を落とす。
昔からそうだった。お兄様を見る時、私はいつも、少しだけ自分の心を隠さなければならなかった。
私はマリアンヌとして、テネブラエ公爵家へ嫁ぐ。
それは、外から見れば国が定めた婚約がようやく履行されるだけの事だ。ボヌフォワ家とテネブラエ家の魔力の大きさだけを見て整えられた婚姻。王都の社交から距離を置き、領地で静かに暮らすことになった傷物の公爵令嬢と、彼女を受け入れるテネブラエ公爵令息。
そこに、ユリアという名はない。
私は、死んだことになっている。
実際に、私の体は死んだのだ。世間が知るユリアは、王太子殿下の内々の妻となり、男児を産み、儚く亡くなった。
ならば、ユリアとしての私は、もうこの世にいない。
それなのに、私はここにいる。
マリアンヌの体で、マリアンヌの名で、かつて兄だった人の隣に立っている。
「……疲れたかい?」
お兄様が、穏やかな声で尋ねた。病弱な私を気遣う、昔と同じ声だった。
けれど、今はその声に応える私の体だけが違う。
「いいえ。大丈夫です」
「無理はしなくていい。道中で休みたくなったら、すぐに言うんだよ」
「はい」
短く返事をしてから、私は膝の上で手を重ねた。
この手は、かつて私のものではなかった。少し前まで、私はこの体を見下ろす度に苦しさを覚えていた。けれど今は、もうそれほどの違和感はない。
健康な体。
少し長く歩いても、いいえ走っても倒れない体。
寒い風に当たっても、すぐに熱を出さない体。
呼吸をするだけで胸が苦しくなることのない体。
それを嬉しいと思ってしまう私は、なんて浅ましいのだろう。
「あの……アシュベル様の事なのですけれど」
私がアシュベル様に呼び出された事は知っているだろう。誤解を解いておきたい私は自分からその名を出した。お兄様は、一瞬だけ目を瞬かせる。
「……殿下から、何か言われた?」
「求婚されました」
言葉にしてみると、馬車の中の空気がほんの少しだけ変わった気がした。
お兄様は驚いたように私を見つめたが、すぐに表情を整えた。けれど、その指先がほんのわずかに動いたのを、私は見逃さなかった。
「そうか」
「驚かれないのですね」
「驚いてはいるよ。ただ……殿下なら、そう考えるかもしれないとも思っていた」
「お兄様は、私がアシュベル様の求婚を受けると思っていましたか?」
そう尋ねると、お兄様は少しだけ視線を伏せた。
「……アシュベル殿下がユリアを特別扱いしていたのは知っていたから」
私は思わず、薄く笑ってしまった。
その笑いは、喜びでも照れでもなかった。どちらかといえば、困惑に近い。
「特別扱い……と呼んでいいのでしょうか。アシュベル様は少し、苦手に感じていました」
「苦手?」
「ええ」
私は窓の外へ視線を移した。
王家の避暑地での雷雨。
まだ私が六歳だった頃の事だ。レオン様とお兄様が離れていた時、突然の雷に怯えて私は泣き出した。アシュベル様は私を抱き上げ、耳を塞ぎ、落ち着くまで膝の上で抱いていてくださった。
そこまでは、優しい思い出として語れる。
ただ、その時の私は幼すぎて、怖がりすぎて、少しばかり取り返しのつかない失態をしてしまったのだ。忘れていただいて、二度と触れないでほしかった。私だけの恥ずかしい記憶として、どこか遠くに埋められたらいいのにと何度も考えた。
それを、アシュベル様は悪意なく、長い間、微笑ましい思い出として蒸し返すのだ。
ユリアはあの時大変だったね、と。
雷を怖がる君は本当に可愛かった、と。
私がそのたびに耳まで熱くして俯くのを、どこか楽しそうに見ていらした。
たぶん、アシュベル様にとって私は、いつまでも幼い子供なのだ。そう思っていた。それにあの時私の着替えをすぐにメイドに指示して、自分の膝が汚れたのも笑って許してくださった。それは感謝している。
だからこそ、その方から急に一人の女として求められた時、私は何と答えればよいのか分からなくなった。
「二人きりになると、幼い頃の失敗をいつまでも笑って話してくるのです。それで」
そう言うと、お兄様は少しだけ眉を寄せた。けれど深くは聞かなかった。
「それで、断ったの?」
「はい」
「……使命感のせいではなく?」
私は、その問いに少し沈黙した。
使命感。
それは確かにあった。アシュベル様に嫁ぐのは不自然で、私とマリアンヌ様が入れ替わっているという秘密を探られる危険がある。だから断るべきだった。
それは嘘ではない。けれど、それだけでもなかった。
「断ったのは、本心からです」
私がそう答えると、お兄様が静かに私を見た。
「アシュベル様のお気持ちは、とてもありがたいものでした。けれど、私は……アシュベル様のお隣に立ちたいと思ったことは、一度もありません」
馬車がゆっくりと揺れる。車窓の外を、一羽の鳥が低く飛んでいった。
私はその影を見送ると膝の上の指先を見つめた。
言うべきなのだろうか。言ってはいけないのだろうか。
ずっと、ずっと隠してきた想いだった。
病弱な体で生まれ、王太子の婚約者に定められ、王太子の世継ぎを残すために将来側妃を認めるよう決められて。貴族令嬢としての務めを果たすために、私はそれを自分の中に封じ込めていた。
叶わない。許されない。
口にしてはいけない。そう思っていた。いや、今でもそう思っている。
だから、マリアンヌ様が私を羨んでいたと知った時、私はただ恐ろしかった。どうして、とも思った。私の何を羨むのだろう、と。
だって、私の方こそがマリアンヌ様が羨ましかったのだから。
マリアンヌ様には、健康な体があった。少し走っただけで息が切れることもなく、寒い日に外へ出ただけで寝込むこともない体。
そして……何より、お兄様と血の繋がらない身で、お兄様の婚約者だった。
口にしたことはない。口にして良いはずがなかった。
けれど、王太子妃になる未来を受け入れようとするたび、私はどこかで、マリアンヌ様の立場を羨んでいたのだと思う。
それなのに今、私は別人の体を得た。
お兄様と血の繋がらない身になった。
そして、表向きにはマリアンヌとして、お兄様の妻になる。
こんな事を、幸福だと思ってはいけない。
母を失った。ユリアという名を失った。私の体は死んだ。
多くの人が傷つき、亡くなった人も多い。全てが取り返しのつかない形に歪んだ。
それなのに、私は。
「……ユリア」
お兄様が、昔と同じように私を呼んだ。
そのあまりにも優しい声に胸が痛んだ。
その呼び方を聞く度、私は自分が妹であることを思い出す。妹でなければならない事を。妹だからこそ、許されていた距離があることを。
けれど今、私はもうユリアではない。少なくとも、世間の上では。
「君は」
お兄様は言いかけて、そこで一度言葉を切った。何を言おうとしたのか、私は聞かなかった。
聞いてしまえば、何かが変わるのが分かった。変わってはいけないものまで、変わってしまう気がした。
「……君は、昔から自分の望みを隠すのが上手だった」
代わりに、お兄様はそう言った。私は小さく笑った。
「上手だったでしょうか」
「少なくとも、隠そうとしていることだけは分かった」
「それでは、上手ではありませんね」
「そうだね」
お兄様も、少しだけ笑った。その笑みは、兄が妹に向けるものだった。
けれど、その奥に別の何かが沈んでいるように見えて、私はすぐに目を逸らした。
お兄様もまた、何も言わない。
決定的な言葉は、どちらからも出なかった。出してはいけない。
たとえ体が変わっても、たとえ世間が私をマリアンヌと呼んでも、私達の過去が消えるわけではない。私達が兄妹である事を知っている人は多い。
それでも。
私達は同じ馬車に乗っている。同じ領地へ向かっている。
これから夫婦として同じ家で暮らす。
その事実だけで、胸の奥に、罪深いほどの温もりが灯ってしまう。
「母上は」
ふいに、お兄様が呟いた。
「気付いていたのかもしれない」
私は顔を上げた。
「お母様が……?」
「妹離れしなさい、と。ユリアがいない時に何度も言われた。腕を掴まれて、真剣な目で言われた事もある」
私は何も言えなかった。
……お母様は、どこまで気付いていたのだろう。
私がお兄様を見る目も。お兄様が、私に向ける沈黙も。
だからこそ、ユリアの姿をしたあの人が、私でない事に気付いたのだろうか。
母の死を思い出すと、胸が潰れそうになる。
私は母を失った。母に真実を告げることも、謝ることも、もう出来ない。
「これを」
私は、声を落とした。
「幸福と呼んではいけないのでしょうね」
お兄様は、答えなかった。その沈黙が答えだった。
私達は、何も祝福されていない。
この道は、誰かの死と秘密と嘘の上に作られたものだ。ここへ辿り着くまでに、あまりにも多くのものが壊れた。
それなのに、私はほの暗い喜びを感じている。
健康な体。
血の繋がらない別人の体。
同じ未来へ向かう馬車。
私こそ、マリアンヌ様を羨んでいた。その事実を、私はきっと一生誰にも言えない。
お兄様が、そっと手を伸ばした。
私の手に触れるか触れないか、その寸前で止まる。その躊躇いが、何よりお兄様の内心をものがたっていた。
私は、少しだけ指を動かした。すると、お兄様の手に静かに重なる。
その指は冷たい。けれど、応えるようにしっかりと私の手を握りしめる。
この程度の触れ合い、兄妹としてなら何度もあった。けれど今は、その意味を誰も決められない。
馬車は進んでいく。王都から離れ、テネブラエの領地へ。世間から隠された秘密と、誰にも言えない罪を乗せて。
私は、母を失った。
ユリアという名も失った。
レオン様の婚約者という立場も、王太子妃になる未来も、私の体すら失った。
なのに。
向かいに座るお兄様の手の温もりを感じていると、胸の奥に、どうしようもない喜びが滲んでしまう。
私こそ、マリアンヌ様を羨んでいた。
健康で、血の繋がらない体。そして、私では決して望んではいけない人の隣にいる未来を持っていた。
これを幸福だなんて、誰にも言えない。言ってはいけない。私は、揺れる馬車の中でそっと目を伏せた。
神に赦しを乞うように。お母様に謝るように。そして、赦されない幸福を、胸の奥深くに隠すように。
馬車は、ただ静かに進んでいく。
私が失った全てのものから遠ざかりながら。
私が望んではいけなかったものへ、近付いていきながら。
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