第98話 【父の背中】尾張の覇者と掲げた覇道
大垣城の落城、そして安祥城の陥落という二重の衝撃的な悲報を背負い、俺は急ぎ進軍中の父・信秀のもとへ引き返した。
神馬ニルを操り、全速力で先頭を進む父の愛馬の真横へと優雅に降り立つ。
「父上、大垣城はすでに敵の手によって落城いたしました。城から逃れ出た味方の残党が、今こちらに向かって逃げてきております」
「くっ……大垣城まで落ちてしまったか……」
父・信秀は歯かみし、焦燥と苦渋の色を隠せない表情で深々と呟いた。その声には重い疲労が滲み出ている。
「安祥城が落城し、信広兄上が敵の手によって生捕りにされた件も、すでに耳に入っておられますね」
「そうか……安祥が落ち、信広が捕らわれたか。信長、お前もすでにそれを知っていたのだな。実に優秀で恐ろしい忍びを抱えているものだ」
「はい。戦場において情報は命そのものですから、各地に優秀な忍びを放っております。俺にとって何より頼りになる最高の仲間たちです」
「ふっ、頼もしい限りだな……。取り合えず、この少し先に全軍が羽を休められる広大な休憩地がある。そこで落城から逃げ延びてきた者たちと合流しよう。それまでの間、少し二人で話をしないか」
「はい、お供いたします」
父・信秀は側で控えていた小姓を呼び寄せ、全軍に一旦歩調を緩め、先の広場で休憩に入る旨を伝達するよう命じた。
「……信長。幼い頃からお前を那古野の城に一人押し込め、寂しい思いをさせてすまなかったな。だがお前は俺の想像を超え、自らの手でこれ以上なく頼もしく凄絶な家臣たちを集めてきた。実に見事な武将へ成長してくれたな」
「ありがたきお言葉……感謝いたします」
「先ほど、本陣でお前が口にした言葉を聞いていた。お前は……野蛮な下剋上を行って、主家である清洲織田家も、岩倉織田家も、守護の斯波氏さえも力ずくで追い払い、尾張一国を力で完璧に掌握してから外敵へ進出した方が良いと考えているのだな?」
「はい。その考えはいま現在も変わっておりません」
今すぐにでも、その邪魔な連中を全員首にして尾張を一つに統一した方が絶対に効率が良いと俺は確信している。
「ふ……それも一つの選択肢だ。決して間違いではない。だがな、俺はあえて傀儡にしてでも守護代である清洲織田家と、守護である斯波氏の権威を掲げ、大義名分を持って領土を拡大する道を選んだのだ。それこそが、この戦国の世における正統な戦い方だからだ」
「正統な……戦い方、ですか」
「そうだ。下剋上という力任せの野蛮な道ではなく、過去の形式と大義名分を重んじ、正々堂々と難敵に立ち向かう苦難の道だ。俺と父は誇りを持ってその道を選んだ。この選択に、俺は何の悔いもない」
これまでずっと真っ直ぐ前を見据えていた父・信秀が、ふっと俺の方へ顔を向けた。爛々と輝くその強い眼光と、俺の目が正面から激しくぶつかり合う。
「信長よ。お前が家督を継ぐお前の代になった時は、他人の意見に惑わされず、自らが信じた選択の道を行くが良い。だが忘れるな、どれほど圧倒的な個の力があろうと、たった一人で天下の戦を勝ち抜くことは不可能なのだ。真に心強い仲間と、絶対の忠義を誓う家臣が必要なのだよ。この尾張の地に眠る精強な武将たちの力を借りぬ手はない。しかしな……尾張の武士の多くは、古き権威や過去の形式に強く固執している。その者たちを力だけで説得し、心から服従させることは想像以上に難しいぞ」
再び前を向いた父・信秀は、果てしなく続く三河の空の先をじっと見つめるように語りを続けた。
「……古きを捨て、下剋上の道を突き進むこともまた、茨に満ちた凄惨な苦難の道であることを、あらかじめ腹に括っておくが良い」
「はい。深きご助言、誠にありがとうございます」
(なるほど……それで、あの老練な平手政秀までもが清洲織田の兵を血祭りにあげた俺たちのやり方に、あそこまで青ざめて驚愕していたのか)
平手政秀のような知恵者でさえあの反応なのだ。伝統と格式に囚われた旧態依然の織田家の重臣たちを一致団結して率いるために、父・信秀はあえて清洲織田や斯波氏という飾りを掲げる遠回りなやり方に落ち着いたのだろう。
主家である清洲織田家や岩倉織田家、そして守護の斯波氏を力ずくで叩き潰して追い払えば、尾張国内の伝統を重んじる武士たちから猛烈な反発と反感を買うことは目に見えている。
精強だが頑固な尾張の武将たちを、ただの暴力と恐怖だけで束ね上げるのは、予想以上に険しい道のりになりそうだ。
「ふう……折角苦労して手に入れた西三河と南美濃の絶対拠点だが、一度に失ってしまったな。また一から出直しだ。まずは尾張国内の意思統一を完璧に完了させ、美濃の斎藤か、あるいは駿河の今川……どちらか一方と即座に強固な同盟を結ぶ。両方を相手にし続けるのは流石に厳しいからな。だが俺は、必ずや再度この手で領土を広げて見せるぞ」
父・信秀とこうして膝を突き合わせ、男同士・武将同士としてゆっくりと深く語り合ったのは、もしかすると生まれて初めてのことかもしれない。
重苦しい戦略の話が一通り終わると、空気は一転して穏やかな雑談へと変わっていった。
「そういえば信長、お前……ダンジョンで何やら聞いたこともない至高の酒を作り出し、志賀城と那古野城で莫大な利益を上げて売り出しているそうだな? 米焼酎とやら言ったか。あれを至急、我が古渡城へも大量に出荷するように手配しろ」
どこでそんな情報を仕入れてきたのか、父・信秀はイタズラっぽく笑いながら命じてきた。
(なんだ、オヤジも相当に優秀で抜け目のない忍びを裏で抱え込んでいるじゃないか)
俺と父・信秀は微笑みを交わし、雑談をしながら馬と神馬のくつわを優しく並べ、兵たちが待つ憩いの休憩地へとゆっくり歩を進めていくのだった。




