第73話 【八足の威圧】伝説の魔獣と最強家臣団の開戦前夜
「ひええええええッ!」
「た、助けてくれええええええッ!」
牧場の最奥から、血相を変えた信清の供の者たちが脱兎のごとく走って逃げ戻ってきた。衣服をなりふり構わず振り乱し、蜘蛛の子を散らすような這々の体だ。
「おいッ! 信清はどうした! まさか主君を置いて逃げてきたのかッ!?」
俺は叫ぶやいなや、腰を抜かしてパニックに陥るお供たちを鮮やかによけると、一直線に牧場の奥へと全速力で駆け出した。
「信長様ッ! お一人では危険ですッ!」
帰蝶や恒興、そして最強の家臣たちが俺の背中を追って怒濤の勢いで突進してくる。
(まったく……なんて奴らだ! 主君を置き去りにして自分たちだけ逃げ出すなんて、武士の片隅にも置けないぞ!)
牧場の奥へと辿り着くと、そこでは数十頭もの巨大な馬の群れが興奮状態に陥り、前脚を高く掲げて嘶きながら暴れ回っていた。そしてその中央には、あまりの恐怖に腰を抜かし、地面に無様に尻餅をついてガタガタと震える信清の惨めな姿があった。
俺は走りながら、己の体内に溜め込んだ莫大な魔力と圧迫感を解き放ち、殺気を込めて大音量で一閃した。
「静まれええええええッ!!!!!」
ダンジョン攻略やレベリングによって激増した俺のレベルとステータスだ。ただの怒号であっても、空間を震わせるほどの強烈な【威圧】の波動となって伝播する。
怒号が轟いた瞬間、荒れ狂っていた馬の群れが一斉に足を止め、信清を取り囲む円陣を解いて俺の方へとぐるりと向き直った。恐ろしいほどの眼光が俺を捉える。
(……待てよ? よく見たらコイツら、普通の馬より一回り以上デカいし……脚が全部で『八本』生えてないか!?)
八本の脚で力強く大地を踏みしめる異形の神馬。
(ちょっと待て、コイツら全員スレイプニルじゃねえのか!? こんなに大量に群れてやがったのかよ!)
驚きつつも俺はそのまま疾走し、腰を抜かしている信清のもとへ駆け寄った。ふと見ると、信清が座り込んでいる足元には不自然で大きな水溜まりが出来上がっていた。
(……おいおい信清、恐怖のあまり完全に漏らしたな?)
「おい信清! 大丈夫か!?」
「あ……あああああッ! た、助かったぁぁぁッ!」
信清は涙と鼻水で顔をグチャグチャに濡らしながら四つん潰いになり、俺の足にしがみついてきた。情けない声を上げて俺の脚を命綱のように離そうとしない。
そこへ、俺を追って猛スピードで追いついた家臣たちが怒濤の勢いで雪崩れ込んできた。
「どけッ! どけえええッ! 俺たちの信長様に軽々しく触ってんじゃねえッ! ぶっ殺すぞッ!」
ボサボサ頭の鐘捲自斎が狂気じみた眼光で刀の柄を握りしめて叫ぶ。
「自斎、刀を収めなさい。……信清様、それ以上しがみついていると、本当にこの者に斬り捨てられますよ」
盲目の剣豪・富田勢源が凄みのある静かな声で諭す。
「どうどうどう……馬ども、動くなよ。主君に害をなせば、この場を血の海に変えるぞ」
愛洲小七郎、真田幸隆、内藤昌豊の三人が殺気を放ちながら馬たちの牽制にあたる。
「…………」
佐々木小次郎、林崎甚助、そして人化状態のアラクネクイーン直子は、無言のまま冷徹な眼差しで武器に手をかけ、周囲を完全警戒する。
「ガハハハッ! なんだこの馬どもは! 骨がありそうな良いツラしてやがるじゃねえかッ!」
バトル中毒の新免無二が凶悪な笑みを浮かべて太刀を構える。
「おうおう、俺たちの信長様を鋭い目つきで睨むたぁ、いい度胸した生意気な馬だぜ!」
サイクロプスの杉谷善住坊が、極厚の超重量鉄砲を肩から下ろし、鈍器としても使える砲身を威嚇するように叩いて見せる。
「ほら、おとなしくするっすよ~……暴れるとアニキが本気出すっすからね」
池田恒興も呆れ顔で馬たちを宥め、あっという間に家臣団全員で興奮するスレイプニルの群れを包囲し、静まり返らせてしまった。
そこへ、優雅な歩調で吉乃、養徳院、生駒家宗、そして果心居士が追いついてきた。
「おお……流石は信長様の精鋭家臣の方々ですな。暴れていた馬たちが一瞬で静穏を取り戻すとは……恐れ入りました」
生駒家宗が心底から感心した様子で息を呑む。
「信清様、お怪我はございませんか?」
吉乃が心優しく声をかけるが、信清は恥ずかしさと恐怖で顔を真っ赤にしている。
「ツネ、信清を頼む。……信清、もう安全だ。落ち着け」
俺は足にしがみついて離れない信清の手を、優しく、しかし力強く足から外してやった。
「ええ~ッ!? 俺が面倒見るんすか!? ……って、うはッ! 完全に漏らしてるじゃないすか!」
恒興は引きつった顔をしながらも、渋々信清を抱き起こした。
「ぐ、ぬぬぬッ……違わあぁぁッ! これは水溜まりに滑って転んだだけだッ!」
顔を真っ赤にして必死に強がる信清に、恒興は呆れ果てながら応じた。
「はいはい、分かったっす分かったっす。土埃を払ってあげるっすから」
「あらぁ、信長様ぁ。本当に大きな馬たちですねぇ」
養徳院はおっとりと微笑み、まったく心配していなさそうな呑気な声を出す。
「吉乃、この群れの中でどの馬が『主様』なんだ?」
俺が尋ねると、吉乃は首を横に振り、牧場のさらに奥深く……深く鬱蒼と茂る森の境目を、白く美しい手のひらで指し示した。
「信長様、この子たちは『主様』の子供たち……スレイプニルと普通の馬とのハーフにございます。『主様』は……あちらにおわします」
吉乃が指し示した森の闇の奥。そこに伏せてこちらの様子を窺っていた、山のように巨大な黒い塊が、のそりと音もなく起き上がった。
「ぬ、『主様』が……お起きになられたッ!?」
生駒家宗が激しい衝撃を受けて声を張り上げる。
起立したその巨躯。漆黒の毛並み、堂々たる体躯、そして八本の脚。
俺と『主様』の視線が、真っ向から激突した。まるで世界の深淵からこちらを覗き込んでくるかのような、怪しくも神聖な琥珀色の瞳が俺の魂を直接射貫いてくる。
『主様』が、ゆっくりとこちらへ歩みを進めてきた。
一歩踏み出すごとに、大気が目視できるほど激しく歪む。静かながらもあまりにも圧倒的な威圧感と、渦を巻いて吹き荒れる凄まじい魔力の奔流。
それに即座に反応したのは、俺の背後に控える最強の家臣たちだった。
「ぬ、『主様』! 待ってくださいッ!」
吉乃や家宗の制止の声など、『主様』の力強い歩みを止める術にはならない。
「ガハハハッ! 待ちな! 一番乗りは俺様だッ!」
俺の前に弾丸のような速度で踊り出た新免無二が、刀を抜き放ち十手を構えて凶悪に笑う。
「ガハハ! 面白ぇ命の遣り取りが出来そうだぜッ!」
「ふむ……これも何かの縁、一興だな!」
十四歳の荒武者・滝川慶次が、三メートルを超える長大な朱槍を肩から滑らせ、力強く中段に構えた。
「おう、一発目の威力測定は俺に任せてもらおうか!」
サイクロプスの杉谷善住坊が、極厚の鉄砲を水平に構え、単眼をギラりと光らせる。
「一発目は僕だぞ! 火薬の矢を受けてみろ!」
ゆずも小柄な体躯で素早く弓を引き絞り、矢先を固定する。
「信長様には指一束足一本、近づけさせんッ!」
青山信昌と内藤勝介の二人のベテラン家臣が、長年鍛え上げた太刀を抜き放ち、俺を庇うように立ち塞がる。
「信長様はアタイが守るよ! 一歩でも近づいたら毒で動けなくしてあげる!」
帰蝶が両手に鋭利な毒ナイフを構え、重心を低く落として眼光を研ぎ澄ます。
背後では、林崎甚助が無言のまま神速の居合いの構えをとり、佐々木小次郎は一メートルを超える巨大な物干し竿を抜き放ち、静かに下段へ構える。諸岡一羽は刀を肩に担ぎ、刀身が見えない独特の八双の構え。高坂昌信、山本勘助、根津政直、真田信綱たちも瞬時に刀を抜いて陣を敷く。
そして――その家臣たちのさらに前へ、静かに二人の男が進み出た。
「待て。一番槍は……私と小七郎だ」
抜き身の刀を静かに構えた富田勢源と、愛洲小七郎。
全家臣の中でも一二を争う極限の剣技を持つ二人が、全身から一切の隙を消し去り、天を突くような苛烈な殺気を解き放った。
我が家臣たちは、己の命を捨ててでも俺を守り抜く気だ。その絆と圧倒的な威圧感が牧場全体を支配する。
しかし――伝説の魔獣『主様』は、その凄絶な家臣たちの殺気すら涼しい顔で受け流し、何事もないかのように、静かにその歩みを止めることはなかった。




