キメラ1
キメラは闘気を立ちのぼらせながら、アニヤに正対した。
真っ黒なライオンがアニヤを見ていた。
見ると言っても眼球はなく、落ちくぼんだ眼窩が暗く不気味に二つあるだけなのだが。
キメラの頭部であるが、ライオンを正面に、向かって右手には黒い魚の頭、左手には黒い蟻の頭が付いていた。
それぞれの頭は、ライオンと同じ大きさなのであった。
張り付いた各々が勝手に動くその様は、大変いびつな印象を与えた。
アニヤが立っている場所は、広めの通路ではあった。
しかし、相手は象のような大きさのキメラなのである。
ここは、キメラと戦うには狭い、逃げ場がない、というのがアニヤの印象だった。
研究棟に挟まれた通路であるが、キメラのいる場所には三方に研究棟が建っていた。
一見、行き止まりに見えるその研究棟の合間に細い通路が続いていた。
ベロニカとヒルダは、その内の一つの通路を抜けて行った。
闘気を溜め込んだライオンが、大きく口を開けた。
喉の奥に赤い火が点った。
アニヤは危険を察知し、右手へ跳んだ。
ライオンの口から、炎の帯が伸びた。
ゴウッと音を立て、アニヤがいた場所を焼いた。
素早く体勢を立て直したアニヤに、魚の頭から液体が噴射された。
「くそっ」
アニヤは液体をかわし、キメラの後方に回り込んだ。
アニヤを追って、魚の頭が横を向いた。
そこに別の方向からの射撃があった。
銃弾は魚のえらと口の先に当たり、牡丹色の光が弾けた。
撃ったのは、アネモネだった。
両手でハンドガンを握って構えていた。
その肩にしがみつくように貼り付く呪符があった。
標的をアニヤと定めたからなのか、キメラはアネモネの方を見向きもしなかった。
後方に回り込んだアニヤは、魚の頭に向けてハンドガンを撃ち込んだ。
全弾命中し牡丹色の光が散ると同時に、魚の頭がビクビクと振動した。
突然、尾である蛇が口を開け、アニヤに向けて衝撃波を放った。
アニヤはもろに食らった。
吹き飛ばされたアニヤは、受け身をとった。
「アニヤ!」
「無事だ」
アネモネの声に応え、アニヤは素早く立ち上がった。
アネモネが再び魚の頭を射撃した。
魚の頭がぐらぐら揺れた。
反対側の蟻の頭はせわしなく動き、顎をガチガチと言わせ、その奥からギーギーという音を出し続けていた。
正面のライオンはいら立つように牙をむいた。
アニヤの口の中で血の味がした。
キメラに対し、神経を張り詰めているせいか、痛みは感じなかった。
アニヤはつぶやいた。
「キメラの動きは決して速くはない。だが、読みにくい。そうはいっても攻撃精度は高くない。キメラの体内で、奴らの動きは統率されていないのか」
ライオン、蟻、魚の頭も、蛇の尾も、竜の体も、バラバラに動いているように見えた。
各々がアニヤを標的としながら、連動していない。キメラの体は自由に身動きできないもどかしさを抱えているような印象を与えた。
「勝機はある」
アニヤは青いシャツの裾をめくり、腰のマガジンポーチから弾倉を取り出すと、すばやく装填した。
キメラは方向転換し始めた。
アニヤは走り、魚の正面に立った。
「くらえ!」
アニヤは魚の頭に連続で撃った。
魚の口が開いた。
その中にも撃ち込んだ。
魚の口から透明な液体が噴射された。
アニヤは横に跳んだが、避けきれずに太ももの外側に裂傷を負った。
魚の液体噴射は、途切れ途切れになっていった。
アネモネが走って行き、さらに魚の口の中に射撃した。
魚が口を開けたまま動きを止めた。
アネモネはいつの間にやら手榴弾を手にしていた。
それを見たアニヤの口から声が出た。
「あ」
アネモネは手榴弾のピンを抜き、思い切り魚に投げつけた。
ど真ん中。
アニヤは目を丸くした。
アネモネの投げた手榴弾は、魚の開いた口の中へスポッと入り込んだ。
アネモネが怒鳴った。
「焼けろ! お前は焼き魚になれ!」
アニヤはぎょっとした後、すぐさま我に返った。
アニヤは太ももから血をダラダラとさせながら、慌ててアネモネに駆け寄ると、アネモネを担ぎ上げた。
アニヤは急いでその場を離れた。
二人が研究棟の隙間に滑り込んだ時だった。
ドゴンッ、という音が、キメラの中から響き、魚の口から牡丹色の光と爆風が噴き上がった。
魚の頭は黒い霞みとなって消えた。
キメラ自体は平然としていた。
魚の頭があった箇所から煙が出ていた。
アニヤは研究棟の隙間から出て行こうとした。
アネモネはそれを引き止め、急いでアニヤの太ももに布を巻いた。
「止血」
「アネモネ、怒るな」
「だって血が。私、取り乱しちゃって」
「アネモネが焼く魚は確かに旨い。でも、あんまり前に出るな。怪我するぞ」
アネモネの肩の上の呪符が、アネモネの表情に感化され、不満そうにパタパタと動いた。
アニヤはアネモネの銀髪のショートカットをくしゃくしゃとなでて立ち上がった。
「ここにいろ」
アニヤは走り出した。
通路に出たアニヤに向けて、ライオンの頭が口から火炎放射をした。
先ほどよりも、威力が増していた。
ゴウッと迫る炎を、アニヤは走ってかわした。
アニヤは緩く波打つセピア色の髪の一筋を、熱であぶられた。
焦げた臭いにアニヤは顔をしかめた。
アニヤは蟻の頭に向かい、銃を連射した。
蟻の頭はせわしなく動き続けていた。
その動きに合わせ、カンカンカンッと銃弾は弾かれてしまった。
「なんつー石頭」
アニヤは呆れた。
アニヤが足を止めると、ゴオオと炎が迫ってきた。
アニヤは急いで走り始めた。
ライオンの頭を避け、キメラの後ろに回ると、蛇の尾が素早く衝撃波を放ってきた。衝撃波も威力を増していた。
アニヤはからくも逃れた。
しかし、衝撃波が砕いた研究棟の壁の破片が、アニヤの体を襲った。
「チッ、いてえな」
腕と頬とわき腹に傷がついた。
キメラの動きがこなれてきているとアニヤは感じた。
長引くほどに不利になると直感した。
アニヤは蟻の頭に銃弾を撃ち込んだ。
口の中を撃ちたかったが、せわしなく動く蟻の頭は、走りながらでは狙いにくかった。
多くの銃弾が弾かれてしまった。
アニヤはアネモネに向かって言った。
「アネモネ、ナイフを」
アネモネはすぐに、サバイバルナイフを放った。
見事なコントロールで、ナイフはアニヤに届いた。
アニヤは腰のホルダーにハンドガンを収めると、ナイフを持って走りだした。
キメラの攻撃でどんどん足場が悪くなる中を、アニヤは走り続けた。
蛇の尾が衝撃波を繰り出してきた。
アニヤはすんでのところでかわすことを繰り返した。
恐るべき集中力が発揮されていた。
アニヤは魚の頭があった側から、キメラに駆け寄った。
竜の鋭い爪をくぐり、ライオンの顎下を抜け、アニヤは反対側にある蟻の頭の下に到着した。
「落ちろ!」
アニヤは、蟻の頭と竜の体とをつなぐ関節部分に、サバイバルナイフを突き立てた。
牡丹色の光が走り、ナイフはメリメリと関節に食い込んだ。
ギイイイイと蟻が叫び上げた。
「ぐおおおお!」
アニヤは歯を食いしばり、つま先立ちでナイフを押し込んだ。
蟻の頭がガチャガチャと動いた。
それが止まった。
アニヤの手元に、ブチッという断ち切る感触が訪れた。
蟻の頭はボトンと落ちた。
地面に落ちた蟻の頭は、黒い霞みとなって消えた。
アニヤは急いでキメラから離れた。
ガアアアアアアアとライオンが吠えた。
いまやキメラは、ライオンの頭、竜の体、蛇の尾という存在になった。
竜の体が、爪をガチャガチャと動かしながら羽ばたきを始めた。
これまで竜の体はろくに動いてはいなかった。
それが非常に滑らかな動きをし始めた。
蛇の尾もこれまでになくしゅるしゅると動いていた。
「むしろ完全体」
アニヤは息を切らし、汗をぬぐいながら、全体として生き物らしくなったキメラを見て眉を潜めた。
薄曇りの暗さが生んだキメラを倒すには、頭をすべて落とす必要がある。
しかし、三つある頭のうち二つまで落としたわけだが、頭一つになったキメラこそが最強のキメラなのであった。
「ただの人間には荷が重い」
ぼやくアニヤに、蛇の尾から衝撃波が放たれた。
アニヤは集中を維持し、かわした。
しかし、砕かれたコンクリートの破片はかわしきれず、体に傷を増やした。
立て続けに、ライオンが炎を吐きながら突進してきた。
突進のスピードは速くなかったため、炎も突撃も避けることができた。
しかし、そこから竜の爪がアニヤを襲った。それはかすっただけであるにも関わらず、アニヤの背中を切り裂いた。
「ぐあ!」
「アニヤ!」
これまでとは桁違いの連続攻撃だった。
アニヤは背中のダメージを背負ったまま、足を止めず距離をとった。
蛇の尾の放つ衝撃波が、アニヤの背中を襲った。
回避は間に合わず、アニヤにヒットした。
アニヤは団子虫のように、地面を転がった。
「こっちを見なさい! キメラ!」
アネモネが研究棟の隙間から飛び出した。
アネモネは、がむしゃらに射撃した。
銃弾は竜の背中のうろこに跳ね返された。
先ほどキメラは攻撃してきたアネモネを無視した。
しかし今回、キメラはアネモネに反応し、体を方向転換した。
キメラとアネモネが正対した。
砕かれたコンクリートの上を転がり傷だらけになったアニヤは、歯を食いしばって立ち上がった。
キメラはアネモネの方を向いたまま、蛇の尾からの衝撃波をアニヤに放った。
「チッ!」
アニヤは必死に避けた。
衝撃波は連続でやってきた。
それ自体はかわしても、それに砕かれたコンクリ片にダメージを負わされた。
アニヤは全身に傷を負い激しく呼吸しながら、致命傷を避け、打つ手を考え続けていた。
キメラはゆっくりとアネモネに歩み寄って行った。
攻撃的な様子はなかった。
アネモネは銃を構えてじっとしていた。
キメラはアネモネの前に立つと、静かに伏せた。
蛇の尾だけが、アニヤを攻撃し続けていた。
ライオンの頭が、くいっと動き、アネモネに合図した。
アネモネは言った。
「背に乗れ、ということでいいのかしら」
グルルルとキメラは返事のように唸った。
アネモネは銃を下ろして言った。
「アニヤへの攻撃をやめなさい。そうしたら言うことを聞いてあげる」
「よせ! アネモネ!」
蛇の尾が黙った。
アニヤがキメラに近づこうとすると、それには衝撃波で牽制してきた。
「アネモネ! ダメだ! アネモネ!」
アニヤは必死に呼びかけた。
イセは、アニヤの目から見ても正気ではなかった。
キメラが連れ帰ったのがヒルダではなくアネモネであった時、イセが何をするかと考えると、アネモネの命があるとは思えなかった。
アネモネがキメラに向かって足を踏み出した。
アニヤは体の重さと呼吸の苦しさを押しのけて、キメラに走り迫った。
蛇の尾はアニヤの動きを読み切れず、衝撃波を打てなかった。
蛇の尾は、それ自体でアニヤを強烈に鞭打った。
「ぐああ!」
アニヤは吹き飛ばされ、研究棟の壁に激しく背を打ち付けた。
アニヤは呼吸ができなくなり、そのままズルズルと地面に身を沈めた。
アニヤは空気を求め、身悶えた。
アネモネは唇をかんで、キメラに近づいた。
ライオンの頭と竜の羽は、アネモネを乗せるために、一層、低く伏せた。
その時だった。
アネモネは脇腹に衝撃を感じたかと思うと浮き上がっていた。
黒い光が走った。
蛇の尾が竜の体から離れ、地に落ちた。
蛇の尾は、黒い霞みとなって消えた。
ガアアアアアとライオンが吠えた。
身をよじり、ジタバタと動き、まるで痛みを感じているかのようだった。
何が何だか分からないままに、アネモネは研究棟の隙間に下ろされた。
抱えていたアネモネを下ろした男が言った。
「本当にすまない。全部俺のせいだ」
アネモネは目を丸くした。
アネモネの肩の上の呪符が、びっくりしたようにピーンと立ち上がった。
男は懐かしく感じさせる琥珀色の目で、申し訳なさそうにアネモネを見下ろしていたのだった。




