人形劇5
違和感がある。
見ないふりをしていたい。
気がつきたくない。
おかしなことなど何もありはしない。
こういうこともありえる話だ。
知らないふりをしているうちに、何もかも勝手に上手くいくかもしれない。
悪いことにはならず、誰も不幸にはならず。
そう。自ら見たくもない結果を引き寄せることはない。
生きるのは楽じゃなかった。
そろそろいいことが起きるタイミングだったのではないか。
穏やかで温かなゴールが見える。
これが正しい答えかもしれないのだ。
そうであってほしい望み。
それは魅力的な輝きを放ちながら、すぐそこにあって、心奪われる。
ふたを開けるから、災いが飛び出すのだ。
そっとしておくのだ。
このまま目を閉じて。
次の幕が開く。
シェイドはダンテとともに、塔の中を歩いていた。
今度は下層の階であった。
そのフロアは、最初に歩いた1階同様、黒い水晶に覆われていた。
廊下と言うよりも通路と言う方がふさわしい印象であった。
洞窟のような道を、ダンテの背を追いシェイドは歩いた。
通路の先に、深緑の綿があった。
シェイドにはそう見えた。
犬のような大きさのフワフワした綿が、小さく跳ねていた。
ダンテが足を止めて話した。
「塔の起こす異常現象の一つだ。これらは黒い力でしか駆逐できない」
ダンテが口の中で小さく呪文を詠唱し手を振ると、投げつけられた黒い力を受けて深緑の綿が散った。
ダンテは振り向いてシェイドに言った。
「放っておくと大量発生し、塔の機能を狂わせる。そうすると世界の魔力バランスが崩れてしまう。だから、発生のシグナルを感じたらすぐに対処している」
シェイドは頷いた。
二人はチューブへ戻った。
チューブの中でシェイドは尋ねた。
「この塔は何階まである? ラナがいるのは何階?」
「分からない。望んだフロアまでチューブは人を運ぶ。最上階を望んだ時には、チューブは反応しなかった。すなわち、全容は誰にも分からないのだ。実に不思議な塔だ」
ダンテとシェイドはラナの元へ帰った。
ラナは温かな微笑みで、おかえりなさいと二人を迎えた。
シェイドはふいに二人に尋ねた。
「ダンテとラナは、宵闇の青の手のひらの上にいる現実をどう思っている?」
ダンテとラナは表情を硬くした。
ダンテは苦しげな表情で答えた。
「双方の一族にとって、最も傷の浅い道を選んだのだと思っている。それゆえ、あらゆる現状はやむを得ないことと引き受けている」
「私もです」
ラナが沈痛な面持ちで続けた。
そうか、とごく簡単にシェイドは応じた。
ここにいることには意味がある。
争いを終わらせ、不必要な血を流さずにすむ。
ここにはやるべきことがある。
それは世界の魔力バランスの維持という、使命感すら帯びた仕事である。
ここには両親がいる。
温かく穏やかな二人である。
そして、ここにはフロウがいる。
愛するフロウと二人きり、ゆっくりと過ごせる時間がある。
塔の中層階に美しい花が咲き誇る室内庭園のフロアがある。
シェイドとフロウは、二人で庭園を歩いていた。
並んで歩いてはいるが、二人の間には拳二つ分ほどの距離があった。
最初は花のことをあれこれと話していたフロウであるが、しばらく歩く内、意を決したようにシェイドに問いかけた。
「あの、私はシェイドと、以前、どういうことで関わりがあったんでしょう」
シェイドはチラリとフロウを見た。
真剣に見上げてくる瞳を見つけた。
シェイドは前に向き直り、サラリと言った。
「キスした」
フロウは一瞬にして真っ赤になった。
「え! そそそそれはどういう」
「どうもこうも、そのままの意味。言っておくけど、無理やりした訳じゃない。二人とも、そうしたかったからしたんだ」
フロウは絶句した。
しばらく二人は黙って歩いた。
やがて、フロウは真っ赤な顔のまま、再び切り出した。
「わわわ私、シェイドとどんな関係だったのでしょう」
「今のフロウは、どんな関係の相手とならキスするの?」
「え!」
「どんな関係だったから、キスしたんだと思う?」
「ええ!」
「教えてよ。フロウの考え方、価値観?」
フロウはもう一度絶句した。
真っ赤な顔で視線をさ迷わせながら、フロウは歩いた。
シェイドはふいに立ち止まった。
フロウは三歩先に進んで、慌てて立ち止まった。
フロウはシェイドが立ち止まった意味を問うように、シェイドを見て小首をかしげた。
シェイドは、フロウをひたと見つめて言った。
「してみる? キス」
フロウが真っ赤になったまま凍りついた。
シェイドの視線がフロウの唇をなぞった。
たじろぐフロウを追いつめていくように、シェイドは問いかけた。
「答えは?」
フロウは自分の唇に握った拳の人差し指を当て、うつむいた。
シェイドは真っ赤になって下を向くフロウをじっと見つめた。
やがて、フロウは顔を上げた。
フロウは唇に当てていた拳を胸元に滑らせ、口を開いた。
「少し」
「ん?」
「少しだけ、してください」
シェイドは目を見開いた。
フロウは真剣な顔をしていた。
二人の視線が絡み合った。
シェイドは思わず噴き出した。
フロウは慌てて言った。
「私、変なこと、言いました?」
シェイドは笑みを残しつつ、目を細めた。
「少し、なんてない。するかしないかだけだ」
「そ、そういうものなんですか」
「うん。俺は途中で止めるとか無理だから」
「そそそそうですよね! あはは…」
シェイドは再び歩き始めた。
フロウも並んで歩いた。
拳一つ分、先ほどよりも距離が近かった。
シェイドは前を向いたまま言った。
「俺はフロウについては、全然、余裕ないんだ」
「え」
「少しも余裕ない」
「あの」
「苦しくてたまらない」
フロウはハッとしてシェイドを見上げた。
その時、シェイドがフロウの手を握った。
フロウは一瞬息をのんだ。
二人は手をつないでいた。
シェイドは静かな表情で前を向いたまま、小さく息を吐いた。
フロウは真っ赤な顔をして手を握り返した。
二人は手をつないで、庭園を歩いた。
花々の美しさはもう目に入らなかった。
二人はそうして、ただただ歩き続けたのだった。




