幕が開く1
本年もよろしくお願いいたします!
王立魔術学院の奥には、サイゴのツギの塔がそびえ立つ。
シッコク地区にあるサイゴの塔と対を成す、古き塔である。
サイゴのツギの塔の周辺には、同時代に造られた建造物が点在していた。
塔と周辺の建造物は、王立魔術学院がまとめて維持管理しており、関係者以外は立ち入りできない場となっている。
塔ならびに周辺建造物の真価を知る者は、一部関係者のみなのであった。
塔には、魔術に作用する何らかの力が満ちている。
塔や建造物は、地下通路でつながっている。
また、塔や建造物は、太陽の光が届かない部屋においても明るさが保たれている。
そういった諸々は、ごく一部の人間以外には伏せられた秘密なのである。
宵闇の青グランドは、それらの秘密を知るうちの一人である。
グランドの黒い髪は短く刈り上げられている。
グランドは、大柄で筋肉質な体に、軍服に似たカーキ色の上下を身につけていた。
その上から肩、胸、ひじ、膝を保護する金属製のガードを当てており、戦場に立つ戦士の様相を呈していた。
グランドは、眼帯を当てていない方の水色の瞳を厳しく細め、目の前の男を圧倒した。
「女を逃がしたな」
「あんな旧世代の牢に人目を避けて閉じこめたところで、意味はありません」
答えた男の襟首を、グランドは大きな手でつかみ上げた。
「あれはシェイドを釣る餌であり、シェイドの弱点。貴様、何を考えている」
男は首を締め上げられながら、苦しい息の下で言った。
「魂を、人形とつながれた者は、人形使いの手から、逃れることは、もはや、できはしない」
グランドは男を床に放り投げた。
男はすぐに立ち上がることもできず、首元を押さえながら咳き込んだ。
グランドは男をにらみ、怒気を乗せた声で言った。
「二度と勝手なことはするな」
「分かりました。約束は守ります。ですから、あなたも約束をお忘れなきよう」
「ふん。シェイドを討ち取ったなら、貴様の役目は終わりだ、スイレン」
仁王立ちをするグランドの威圧感にさらされながら、宵闇の青人形使いの男スイレンは立ち上がった。
グランドとスイレンは、サイゴのツギの塔にある一室にいた。
この塔は、シッコク地区にあるサイゴの塔と同様、不可思議な力がいくつも働いている。
便宜上、制御室と呼ばれている部屋に二人はいた。
この部屋には額縁のような白い石板が、埋まっている。
それは、前に立つ人間の意思を受けて、塔周辺の建造物の状況を映し出す機能を備えていた。
また、シッコク地区にあるサイゴの塔やその周辺についてまでも、映し出すことができた。
グランドは地の底から響くような声で言った。
「ゴードンとダンテは、宵闇の青の人形に敗れたのだ。常春の華の助力など関係ない。宵闇の青の魔術の前にひれ伏したのだ」
グランドはスイレンを見据えた。
「シェイドも同じ末路を辿る。まことの黒に踏みつけにされてきた一族の無念を忘れるな」
スイレンの焦げ茶色の髪の根元に黒い色がのぞいていた。
髪色を染めたところで、何からも逃れられはしなかった。
宵闇の青は、さまざまな力を持つ人形をこしらえる魔術に長けていた。
スイレンは、そんな宵闇の青の中で、最も優れた人形使いの一人であった。
幼い頃にその才は見いだされた。
教授される技がスイレンには、ことごとく簡単に理解できたし、再現できた。
宵闇の青の魔術師たちは、色めき立ってスイレンを鍛え上げた。
スイレンは歴代の頭首に匹敵する力を発揮した。
スイレンは期待に応えるべく努力した。
まことの黒を始めとする、一族に仇成す敵を倒すのだと言われ続け、スイレンはただひたすらに人形を作り続けた。
スイレンは、幼い頃から家族と離され、さまざまな場から隔離されて育った。
人形を作る以外のことを許されなかった。
自分のしていることに疑問はなかったが、そうして生きるうちに疲弊した。
誰もその疲れに気づかなかった。
気づかせないほど、スイスイとやりのけてしまった。
期待は大きくなり、峠を越し、高い水準で成果を出して当然という域に達した。
直系から血の遠い地位の低さが災いした。
当然のように厳しく言われることを、当然のように引き受け続けた。
本人の生まれ持っての性格であるが、押し出しの弱いおとなしさも災いした。
不満も言えず、助けも求められず、黙々と命令に従い続けてしまった。
スイレンは人知れず壊れ始めた。
ある時から、スイレンの作る人形はおかしくなった。
動きが悪くなり、命令遂行能力が落ちた。
奇妙な振る舞いが増えて、故障も早くなった。
宵闇の青の中枢にいる者たちは、スイレンが調子にのって悪ふざけをしているのだと考えた。
スイレンの態度が目に余るものとなってきたからだ。
酒に溺れ、女を侍らせ、暴れる。
酔いの勢いで言い付けを無視して、あるいは口答えして、好き勝手を続ける。
実はスイレンには、己の魔力を感知することさえ、難しくなってきていたのだ。
しかし、周囲はスイレンを責め立てた。
制裁として、スイレンに手を上げることもあった。
スイレンは、自分が魔術を失いつつあることを、誰にも言えなかった。
スイレンは思い始めていた。
人形を作るスイレン自身が、宵闇の青の人形である。
いや。
時の流れ、綿々と続く歴史の前には、誰もが操り人形に過ぎないのだ。
そうはいっても、宵闇の青の名は、スイレンには重すぎた。
スイレンは人形を作るどころか、とうとう簡単な魔術を使うことさえできなくなった。
そうなると、スイレンは自分の存在意義のすべてを失った。
すべてである。
他に何をしたいも、したくないも、あったものではない。
それは大変恐ろしいことであった。
スイレンは若くして壊れた。
やっと事態を把握した宵闇の青は、慌てふためいた。
貴重な戦力が動かなくなってしまった。
叱咤すると震え上がり、なだめると怒り狂う。
スイレンはもはや手に負えない存在となり下がった。
酒も薬も女も魔術も、スイレンを癒すことはできなかった。
グランドなど心の弱さは唾棄すべきものとしか考えられず、スイレンのことがまったく理解できなかった。
宵闇の青の穏健な一人が、常春の華に尋ねた。
精神的に破綻した人間を何とかできないものかと。
常春の華は、王立魔術学院にいるベロニカを推挙した。
疲弊した感情の一部を一時的に遮断し、自己回復力によって正常化した後に、回路をつなぎ直す。
ベロニカの研究テーマであった。
宵闇の青は、スイレンに加え、同じような弱さを抱えて破綻寸前であったイセをも、ベロニカに引き合わせた。
ベロニカには、宵闇の青に関する情報は伏せられた。
スイレンとイセは、さる身分の高い家の子息であると紹介された。
ベロニカは、目隠しの上、引き合わせ場所に連れていかれた。
顔色の悪いスイレンとイセがいて、取り囲むように威圧感のある男たちが立っていた。
ベロニカは即座に言った。
「こんなところにいたら回復しない。この二人、しばらく私に預からせてもらえませんか」
グランドは表に出ている片側の目で、鋭くベロニカをにらみつけた。
「二人は我が家の貴重な跡取り。万が一があっては困る」
ベロニカはまったく引かなかった。
「学院の中で預かります。危険はありません」
「我らの目の届くところ以上に安全な場所はない」
「二人は、今いる場所から離れるべきです」
「関係ない」
「あります。ここにいては、治るものも治らない」
ベロニカはグランドとにらみあった。
スイレンはその緊張感に怯えた。
その震えを見たグランドは、顔をしかめた。
ベロニカは言った。
「今まで、さまざま手を尽くしたのでしょう。それでも成功しなかったことに着手するのです。今までとは違うことに踏み切る、そのご決断をお願いいたします」
ベロニカの強靭な精神は、場に満ちる強圧的雰囲気の中にあっても一貫性を失わなかった。その主張のあり方は、グランドの嫌いなものではなかった。
「ふてぶてしい女だ。そこまで言って、失敗したらどうなるか分かっているのか」
そんなグランドの脅しめいた言葉に対しても、ベロニカは、承知しています、という端的な一言をもって、きっぱりと返した。
グランドはとうとう首を縦に振った。
二人を学院で預かることが決まった。
学院の一室で、ベロニカとスイレンとイセだけになった時、ベロニカはあきれた声で言った。
「あの男が一言話すたび、あんたたち、バカみたいに顔色を失くしていくんだもの」
やれやれといったベロニカの表情を受け、スイレンは肩の力が抜けた自分に気がついた。
そんな当たり前のことを言ってくれる人さえいなかったのだ。
女性としてはやや上背があるとはいえ、ベロニカはスイレンやイセよりも背が低い。
そのベロニカが、右腕と左腕でスイレンとイセの肩を組んで引き寄せた。
スイレンとイセは、されるがままによろめいて、腰をかがめた。
「あんたたちみたいなダメな男、嫌いじゃないわ。私の側にいなさい」
ベロニカにそう言われたスイレンの安心感は計り知れない。
考える力など、あの宵闇の青の中で、はなからありはしなかった。
生きるよすがたる魔術を失い、途方に暮れるばかりだった。
ベロニカは、そんなダメな男でよいという。
イセも似たような顔をしていた。
ベロニカは剛毅だが、温かな包容力を感じさせる。
委ねてよいのだと、傷つけられはしないのだと思わされた。
そして、ベロニカの魔術によって、スイレンとイセはかりそめの安息を得た。
二人は好んでベロニカについて歩いた。
ベロニカは二人を均等に愛した。
スイレンもベロニカを愛し、深く感謝した。
スイレンとイセは、生まれて初めて芯から安らいだのだ。
やがてハシマが現れた。
ベロニカの怒りの激しさに触れ、スイレンは恩返しをすることを思い立った。
誰にも言わず決めた。
一人で判断し、行動するなど、初めてのことだった。
結果、無残にも返り討ちにあった。
しかし、ここでまた、二度とないような出会いを果たした。
ハシマは、驚くほど不完全で魅力的な人間だった。
安息をくれた強靭なベロニカよりも、痛々しいハシマの方に、スイレンは心を奪われた。
ハシマに魔術を解かれてしまったが、どうやらずいぶん回復していたらしい。スイレンは負の感情を取り戻しても、正気でいられた。
スイレンは、ここでも生まれて初めての感情を知った。
ハシマの側にいたいと思った。
望むもの。
スイレンは、自分から何かを欲しいと思ったことはなかった。
心から欲した。
どうしてもそうしたかった。
スイレンは、ベロニカに謝罪するだけではなく、もっと根本的なところでけりをつけざるを得ないことがあった。
スイレンは、ミカエルに覚悟を問われ、望むことのためならば、心弱い自分にもそれを果たせるかもしれないという希望を得た。
宵闇の青の名を捨てるため、スイレンはグランドに取引を持ちかけた。
まことの黒を討ち取る人形を作成できた時、宵闇の青の家名から外れたい。
強い決意の宿るスイレンの主張に、グランドは頷いた。
まことの黒シェイドを見事討ち取った暁には、お前の望みを叶え、むろんお前の家族にも手は出さないことを誓おう。
グランドは請け合った。
スイレンは、フロウの魂を吸った。
せざるを得ないこと。
その力を自分が持って生まれたこと。
これは、ハシマの元へ行くための宵闇の青における最後の仕事。
スイレンはフロウが逃げるのを見送った。
そして、地下通路を通り、サイゴのツギの塔へと向かった。
人形への魂込。
自分の成し得る最高傑作を作るのだと決意した。
スイレンはベロニカを想った。
感謝してもしきれない。
ベロニカなくして、自分は今、生きてはいなかった。
必ず、感謝と謝罪とを伝えに行き、どんな結果も引き受ける。
スイレンはハシマを想った。
この道がハシマにつながっていると信じて。
ハシマこそが希望。
二度と宵闇の青の魔術を使わなくてすむように。
スイレンは、魔法陣の上で至高の魔術を展開した。
スイレンは知らなかった。
シェイドの女フロウが、ハシマの愛する弟子フロウと同一人物であることを。
グランドは女の名を呼ばなかった。
人形を作る魔術において、名は意味を成さなかった。
しかしながら、名をもし知っていたとしても同一人物と気づけたのかどうかは、あやしいところである。
スイレンは、世界から隔絶して生きてきたのだ。
誰かと誰かが同じ名であったとしても、それを何事かと関連付けて考えることはできなかったであろう。
スイレンは、今できる最善を尽くしたに過ぎない。
結果が誰にとって最善となるのか。この時点では誰にも分かりはしないのだ。
あたかも、スイレンが側にいたいと望むハシマにとって、それが不幸の道であるかのようにと見えたとしても。
スイレンは、最善を尽くしたのだ。




