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開幕準備

 フロウは、石造りの狭い部屋の片隅で、膝を抱えて座っていた。

 体は冷え切っていた。


 大柄な男に打たれた頬は腫れ、床に打ちつけられた体は痛んだ。

 フロウは他にどうすることもできず、ただ座り込んで助けを待っていた。



 涙は止まったが、寄せては返す波のように、恐怖感と混乱が押し寄せては鎮まることを繰り返すので、精神的疲弊も大きかった。

 なにしろフロウを苦しめるものは、命の危機それ自体だけではなかったのである。




 死の恐怖に対し、フロウの中で揺れる記憶があった。

 

 黒髪の男の子が走る。

 白金の髪の男の子が追う。

 アオウミの森。


 フロウの心身が妙に高揚する。


 乳白色に歪む空間。

 血まみれの女の子。

 見下ろした自分の両手が真っ赤に染まる。


 フロウは内側からこみ上げてくる死の恐怖に震え上がる。



 月が見たい。

 月など見てはいけない。

 ハシマさん、助けて。



 フロウの混乱が大きくなる。

 混乱を鎮めてくれるハシマを求めるが、ここにはいない。



 フロウの目に鉄格子のはまった扉が映る。

 純然たる今感じるべき恐怖が重なる。


 フロウの恐怖と混乱はピークを迎える。

 そして、少しずつ鎮まっていく。



 フロウの中ではそんなことが繰り返されていたのだ。







 不安定なフロウは、時間の感覚も失っていた。

 ここに放りこまれてどれほどの時が経ったのかも定かではない。


 カツカツカツと部屋の外から人の足音が聞こえてきた。

 フロウはビクッと跳ね上がった。



 鉄格子の向こうに見知らぬ男の顔が見えた。

 フロウは恐怖のあまり凍りついた。



 男は、整った顔立ちで清潔感のあるこげ茶色の短い髪をしていた。

 男は鉄格子のはまったドアの鍵を開け、部屋に入ってきた。男が身に着けているシャツもジーンズも、ごくありふれた普段着だった。

 フロウをここに連れてきた男やロキよりも、年若く見えた。



 フロウは怯えた。

 殺されてしまうと思った。



 男はフロウの前で足を止めた。

 我が身を抱き、体を小さくするフロウをじっと見下ろした。


「私には私の背負うものがある。許してほしい」


 男は整った顔にわずかに苦悩をにじませた。



 その人間らしい様子のせいか、フロウの体の強張りがほどけた。

 男が足を踏み出してきた時、フロウは瞬間的に立ち上がった。


 座り続けていた体は、思った通りには動いてくれなかった。

 それでもフロウは逃げようとした。

 狭い部屋の反対に向かって、はうように走った。



 男はすぐにフロウを捕まえた。

 逃げるフロウの腕を引き寄せた。


「いや! いや!」

「すまない」


 叫ぶフロウを、男は抱き込んだ。

 フロウは石造りの壁に押しつけられ、男と壁に挟まれた。

 まったく身動きが取れなくなった。


 男は、体全体でフロウの動きを封じながら、片手でフロウの髪の毛を寄せ、フロウの耳を表に出した。


「やめて! いやあ!」


 フロウは何かされると感じ、頭を振った。

 男は自分の頬をフロウの頬に合わせ、反対の頬を手で押さえこみ、フロウの頭を固定した。


「いやあああ!」


 フロウの叫びの下で、男は静かに動いた。


 男はフロウの耳元に唇を寄せた。

 ささやくような声で呪文の詠唱が始まった。


 フロウの叫びにかき消されることなく、男の呪文はフロウの耳元に吹きこまれていった。


「ああ!」


 フロウは今度は恐怖ではなく、体を巡る違和感のために身悶えした。


「はっ!」


 フロウは息苦しさのため、悲鳴を上げることもできなくなった。

 苦痛に似た違和感が、全身を巡った。

 苦しくてたまらないのに、途切れることなく呪文は耳から侵入してくるのだ。


「はっ…はっ…」


 フロウは違和感を外に出そうとするように、荒い呼吸を繰り返した。

 それ以外にできることはなかった。


 体を巡った違和感が、脳を侵すような感触をおぼえた。

 男が耳元で息を吸い込んだ。


 何かが引き抜かれるような感覚があった。

 あまりのことに、フロウは呼吸さえ忘れた。





 やがて男はフロウから静かに体を離した。



「なるほど。まことの黒が執心するだけある魂だ」



 男が感じ入るようにため息をもらし、自分の胸をなでた。


 フロウの思考は働かなかった。

 フロウを動かしたのは、生存本能というべきものだった。


 フロウは目の前の男を両手で突き飛ばした。

 男は目を丸くして数歩、後ろに下がった。


 フロウは駆け出した。

 どこに残っていたのか分からない力が働いた。


 鉄格子のはまったドアは開け放たれていた。

 フロウは部屋から走り出たのだった。




 男は追わなかった。









 フロウは必死に走った。


 クリーム色のワンピースはやや走りにくいものであったが、そこへスニーカーを合わせた自分を、フロウは褒めたかった。

 

 幸いなことに、この建物の造りは大変シンプルなものであった。

 長い廊下の両端と真ん中に階段があるだけで、行き先に迷うことはなかった。


 階段を上らされた記憶があるから、下ればいい。


 フロウは廊下にある窓から外を見ることもできた。

 ここは3階。出口はきっと1階。



 階段を下りていると、何かがぐにゃりと歪む感触があった。

 足元が沈むような不快な感触であったが、フロウにはそれを気にしている余裕はなかった。



 不思議なくらい人の気配はなかった。


 フロウは石造りの建物から速やかに脱出した。






「ここは」


 フロウは遠くへ逃げなくてはと思いながらも、足を止めてしまった。


 建物の外は、黄土色にくすんでいた。


 ちらほらと木陰に見えるのは、見たこともない異形の生物だった。

 記憶が揺さぶられた。

 フロウの視界は乱れた。

 


 シェイドによく似た男の幻影がよぎった。



 フロウは困惑した。

 幻影はすぐに消えた。




 そんなフロウの足元に、葉陰から何かが飛び出してきた。

 フロウはギョッとした。


 紫色のカエルだった。

 しかも、人間の赤子と同じ大きさである。


「きゃあああ!」


 まっとうな悲鳴が出せた。

 フロウは走り出した。

 



 まったく見ず知らずの場所である。

 さまざまな建物があるのだが、フロウを襲った人物の仲間がいるのかもしれないと思うと、助けを求めて入っていくわけにもいかなかった。


 整備された通路があちらこちらに伸びている。

 恐ろしい生き物の姿が見えない通路を選んで、フロウは走って行った。



 T字路の右に、大きな蛇が見えた。

 フロウは左に曲がり、懸命に走った。


 バサバサッという羽ばたきが聞こえた。

 見上げたフロウは唖然として足を止めてしまった。



 骨に膜を張ったような大きなカラスの異形がいた。



 カラスの異形は、落ち窪んだ目をフロウに向けた。

 フロウは弾かれたように走り出した。



 クエエエという奇怪な雄叫びが、フロウの背後から聞こえてきた。

 フロウは振り向かずに走った。



 迫り来る気配を感じて、フロウは通路脇の木の後ろに飛び込んだ。

 カラスの異形が急旋回して、フロウが身を寄せた木にくちばしを突き立てた。


 カラスの異形のくちばしが、木に深々と突き刺さった。

 くちばしを引き抜こうと暴れるカラスの異形から、フロウは急いで離れた。



 フロウは再び走り始めたが、息は乱れ、足はもつれ、ひどい有り様だった。

 クエエエという奇声が、羽ばたきとともに、フロウの後ろから追い迫ってきた。


 体が限界を迎えた。フロウはとうとう転んでしまった。地面に倒れこんで、起き上がれなくなった。

 フロウは訪れる痛みを覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。





 フロウは突然、体が浮かび上がるのを感じた。





 何が起こったのか、フロウには理解できなかった。


 浮かんだと思った体は、背中と膝裏を支えられているようだった。

 自分では考えられないようなスピードで移動していた。



 ドカンという爆発音とガンガンという射撃音と、キエエエという悲鳴のような奇声が響き渡った。



 フロウは、おそるおそる薄目を開けてみた。

 自分の体と、それを抱える男の上半身が見えた。

 いわゆるお姫様抱っこをされているのだと理解した。


 フロウは、自分を抱いて走る男の顔を確認しようとした。



「悪いけどちょっと我慢して」



 ふいに男がそう言って、あれよあれよという間に、フロウを肩にかつぎ上げてしまった。フロウには、男の筋肉質な背中しか分からなくなった。


 男は空いた手で腰のホルダーから銃を抜き取り、異形を撃ちながら、フロウを抱えて走った。


 



 しばらく走った先の建物の裏で、男はフロウを丁寧に下ろした。


「まさかってことが起きるもんだな。本来の尋ね人とは違うが、出会えてよかった」


 男は、ややまなじりの下がった瞳で優しく微笑んだ。 

 フロウが何度もまばたきをする中、一歩遅れて、褐色の肌に銀色の髪の女が銃を持って現れた。


「本当ね。あら、ケガしてる。大丈夫?」

「あなたは!」


 フロウは驚いた。

 銀髪の美しい女には見覚えがあった。


「あの、公園の妊婦さん」


 フロウは女を指差して、口をパクパクさせた。

 女はのんびりとした笑顔を見せた。


「また会えてうれしいわ、フロウ。私の名前はアネモネ」

「俺の名はアニヤ」


 フロウは、この出来事をどう受け止めていいのか困惑した。

 とはいえ、アニヤとアネモネは、どことなくのどかな雰囲気さえ漂わせ、危険な人物ではないと感じさせた。



 フロウの目から涙がこぼれ落ちた。



 アネモネが自然な動きでそばに来て、フロウの背中をさすった。


「怖かった!」

「うん」

「怖かった…うう」

「うん」


 泣きじゃくるフロウをアネモネがなだめた。




 アニヤは銃を構えたまま、周囲を警戒していた。そして、そうしながらも、フロウがここにいる意味を考えていたのだった。





これにて、今年の更新は最後になります。ありがとうございました。

また来年、よろしくお願いいたします。二週めまでには更新したいと思っております。

よいお年をお迎えください!

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