非常事態のとらえ方
王立魔術学院の敷地は、丈高い壁に囲まれている。
数々の秘匿性の高い魔術が研究されている都合上、やむを得ないことである。学院祭等、特別な機会を除き、学院は関係者以外の立ち入りを拒んでいた。
しかし、ハシマとミカエルは、正門から堂々と入ることができてしまった。
フロウの発する信号は、間違いなく王立魔術学院の中から発信されていた。強行手段も辞さない覚悟で来たのだが。
正門は固く閉ざされてはいたが、いつもいる守衛はおらず、鍵も簡単に開いてしまった。
おかしい。
先日の学院祭の時とは、何かが大きく違っている。
ハシマは警戒心を強め、立ち止まった。
ミカエルは初めて足を踏み入れた魔術学院を見渡して言った。
「ずいぶん物静かな。人の気配がない。まるで廃墟だ」
「まさか、これが学院の通常の姿だとは思っていないでしょうね」
ハシマは淀んだ空気に耳を澄まし、目を凝らしながら、ミカエルを疑うように言った。
ミカエルは呆れ顔で返した。
「ハシマさん。僕のことを何だと思っているんです」
「さて。一部分、壊滅的に鈍感な人間なのだとは理解していますが」
「そうかもしれませんけど、さすがにここがおかしいことは分かります」
真面目に受け答えしたミカエルを、ハシマはチラリと横目で見て言った。
「ほら。ミカエルは少しも傷つかない」
「だから、どうして言い出したあなたの方が傷ついた顔を」
「うるさい」
ハシマはプイッと顔を反らし、再び駆け出した。
ミカエルは黙ってその後を追った。
二人は学院を過ぎて、大学院の研究棟が建ち並ぶ場所へと入っていった。
学院とは異なり、大学院の研究棟には古い建築物が多く残っていた。
贅を尽くした看板たる古く美しい研究棟がごく一部。
後は、どれほど修繕しても隠しきれない劣化を大なり小なり抱えた建物の群れであった。
相変わらず誰一人いなかった。
ミカエルが先ほど発した廃墟と言う言葉が、いよいよ似つかわしくなってきた。
フロウの迷子札たる魔術の細い信号をたどり、二人は進んで行った。
進むほどに、周囲の色が変わってきた。
当然あるはずの色彩が霞み、すべてが黄土色にくすんできた。
ミカエルはハシマの後を走りながら、眉をひそめた。
肌に触れる生ぬるい感触も、何かがねじれたような妙な感覚も、おぼえのあるものだった。
遠い昔に一度経験していた。
ハシマは時空の歪みを感じとっていた。
これは尋常なものではない。
禁呪に近いもの、触れてはならないものが開かれていると思った。
ハシマの後ろで、ミカエルは言った。
「これは薄曇りの暗さだ」
ハシマは驚き、走りながらもわずかにミカエルを振り返った。
ミカエルは確信をこめた目でハシマを見返した。
ハシマは前に向き直り、走り続けた。
つきあたりを右に曲がりながら、考えていた。
ベロニカの仕業ではないということか。
彼女がこんな事態を引き起こす訳がない。
ハシマは足りない判断材料に舌打ちをした。
考えても何も見えてこなかった。
黄土色の世界は、この世ならざる気配を徐々に強めていった。
がしゃがしゃ、ぐわっぐわっ、ごおおおといった、聞きなれない音が満ちてきた。
次の曲がり角を左に折れた時であった。
人と同じ背丈のコオロギとバッタが、十数匹、ワサワサと共食いしあっていた。
コオロギもバッタも、頭全体が口となり、牙をむき出しにしていた。
コオロギもどきとバッタもどきは、ハシマとミカエルの進路をふさいでいるだけではなかった。
それらは急に共食いをやめて、一斉に二人に顔を向けたのだった。
見たこともない異形に出くわしたにもかかわらず、ハシマは少しも慌てなかった。
袈裟がけにしたボディバックから短剣を取り出すと、すばやくミカエルに差し出した。
「魔法剣です。魔力を入れておいたので、自分の身は自分で守ってください」
「僕は戦い方を知っています。核を壊すか首を落とすと、奴らの致命傷になる。決して足手まといにはなりません」
ミカエルはありがたく魔法剣を受け取った。
バッタもどきが恐るべき跳躍を見せ、ハシマとミカエルに襲いかかった。
ハシマの詠唱よりも早く、ミカエルは足を踏み込んだ。
バッタもどきの長い脚を切り裂くと、バランスを崩したバッタもどきが前のめりに倒れてきた。倒れ込んできたその頭が噛みつこうとしてくるのに構わず、ミカエルは魔法剣を振るった。
ハシマは自分に向かって倒れこんでくる大きなバッタもどきの体に驚きながら、急いでその場から駆け出した。
ミカエルの振るった剣は、正確にバッタもどきの首をとらえた。
緑の光が走り、バッタもどきはミカエルの上に落ちてくる前に、黒い霞となって消えた。
ハシマは、なるほどと小さく口の中でつぶやいた。
バッタもどきに押しつぶされるかと思った、という文句は後回しにすることにした。
ミカエルは驚異的な身体能力を見せた。
ミカエルの動きが派手なせいか、目があるとも思えない巨大な虫たちは、ハシマよりもミカエルに群がっていった。
ミカエルは、それらを的確にさばいていった。
ハシマは感心した。
「これは、楽」
ミカエルは、5匹めのコオロギもどきの首を落とすと、非難めいた大きな声を出した。
「ハシマさん!ちょっと!」
「あ、はいはい。ただ今」
ハシマは少し反省して、呪文を唱えた。
ハシマが伸ばした指先から、細い糸のような緑の光線が飛んだ。
それは、対象の核を正確に貫いた。
その先にいたコオロギもどきが霧散した。
二人は危なげなく巨大な虫たちを倒していった。
最後のコオロギもどきを始末すると、二人は再び駆け出した。
フロウの信号はもっと敷地の奥から発せられていた。
ミカエルは走り、額の汗をぬぐいながら言った。
「ハシマさんは、ミドリ地区の街中の白魔術師ですよね。何でそんなに攻撃力が高いんですか」
ハシマは少しだけ息を乱しながら切り返した。
「ミカエル、あなたはハクキン地区の金持ちのぼんくら息子ですよね。何でそんな戦闘力を持っているんです」
ミカエルは困った。
「たまたまです」
「僕もたまたまです」
ハシマは同じ言葉で返した。
ハシマは十字路で魔力の高まりを感じて足を止めた。
ハシマがふいに立ち止まったことをミカエルは不思議に思った。理由を尋ねようとしたらその前に、十字路の右の通路奥にある研究棟から激しい爆発音がした。
ミカエルが驚いて見ると、再びドカーンという激しい音がした。先程爆発音がしたのと同じ研究棟の正面入り口が、内側から火を噴いた。
ふざけんじゃないわよ!ったく、どうなってんのよ!
金茶色の縦巻きロールの髪を揺らし、白衣を着た女が悪態をつきながら出てきた。女は、吹き飛んだ玄関の残骸を蹴り飛ばした。
ミカエルは目を丸くした。
ここに来て初めて出会う人間だった。
ハシマはすぐに声をかけた。
「ベロニカ!」
女ベロニカは、パッと声の主を見ると、みるみるうちに憤怒の表情になった。
ベロニカは足を踏み鳴らしながら、ハシマとミカエルに向かってきた。
「あんた!非常識にもほどがある!一体、何の禁呪をひも解いたわけ?バカじゃないの!」
ミカエルは目をぱちくりとさせながら、近づいてくるベロニカを見ていた。
ハシマの決闘の相手、フロウをさらったはずの張本人だと分かったのだが。
罵倒されてハシマは確信した。
この事態は、フロウの現状も含めて、ベロニカの仕業ではない。
では、果たして誰が。
ベロニカは、十字路の真ん中に立つハシマの前まで来ると、更に怒鳴り続けた。
「決闘は周りを巻き込まない事が鉄則でしょ!それも分からないほど落ちぶれたの!魔術師の、いえ、人間のグズね!」
ハシマは顎に折り曲げた人差し指を添えて言った。
「この事態は僕がやったことだと」
「他に誰がいるっていうのよ!」
ベロニカの頭には、すっかり血が上っている様子だった。
ハシマは、この事態を見て、ベロニカの仕業ではないと判断した。
しかし、ベロニカは、ハシマがやったことだと疑いもせず信じこんでいる。
ハシマは、己のこれまでの生き様を、もう少し反省した。




