宵闇の青
シェイドとミカゲが去ってから、フロウは自分の変調を自覚せざるを得なかった。
あれほど寂しいと感じたミカゲとの別れ。
それなのに、心に浮かんでくるのは、ほんのわずかに会ったシェイドの面影ばかりなのだ。
あまりの薄情さに愕然ともするのだが、心が勝手にすることなのでフロウにはどうしようもなかった。
ミカゲに向けたシェイドの優しい微笑み。
挨拶をするシェイドの静かな声。
何よりも、最後に垣間見せたシェイドの激しい瞳。
シェイド、シェイド、シェイド。
繰り返し再生される記憶に、フロウの胸は張り裂けそうに痛んだ。
ミカゲの好きな人。
もう二度と会えない人。
訳も分からず泣き濡れて落ちるように眠った夜、夢にまで出てきた。
もう一度会いたいと心の奥から湧いてくる声がある。
フロウの理性がその心を打ち消すために総動員される。
フロウはその作業でくたくたになった。
本当に、何をしているのか分からないうちに時間が過ぎ、また夜になっていた。
自分はおかしくなっていて、しかも重症だとフロウが思う中で、呼び鈴が鳴った。
リンリンリン
フロウはどうしてか、反射的にミカゲが帰ってきたと思いこんだ。
急いで玄関に向かい、扉を開けた。
見知らぬ男が立っていた。
そこからはフロウが何かを思うまでもなかった。
何の特徴もないような男の手がフロウに伸びた。
男の手はハンカチを持っていて、フロウの顔を覆うように押さえこんできた。
息苦しいと感じた。
そこまでだった。
フロウは意識を失った。
フロウは目を覚ました。
ズキズキと頭が痛んだ。
見覚えのないベッドの上で体を起こした。
見たことのない部屋の中にいた。
眠る前のことが思い出せず、一体どうしてこんなところにいるのだろうとフロウは記憶の糸をたぐった。
頭が痛くて上手く思考が働かなかった。
部屋にはベッドとテーブルとイス、洋服ダンスがあった。
どれもとりたてて特徴のない造りで、どこかの家庭のこじんまりとした客間のように感じられた。
もしかして、道端で倒れて救護されたのだろうかとフロウは思った。
そうこうしている内に、部屋にある2つのドアのうちの一つが開いた。
「目が覚めた?」
背の高い男が入ってきた。
緩やかなウェーブのかかった黒髪は長く、簡単に束ねられていた。
紫の瞳は穏やかだった。
ハシマと同じくらいの年齢に見えた。
骨格はしっかりとしているが細身で、動きはしなやかだった。
フロウは、ファッションモデルのようだと思い、最近はきれいな男の人が増えたものだと一人感心した。
「そろそろ目が覚める頃だと思って、そっちにお茶を用意しておいたのよ」
女性的な物言いに、フロウは思わず目をぱちぱちとした。
「あら、あたしみたいなのに会うのは初めてかしら。怖がらないでね。害はないのよ」
フロウはハッとした。
もちろん、会ったことはないが、そういう人がいるということは知っていた。
驚いた顔をしたことが失礼であったかもしれないと感じた。
フロウは慌ててベッドを下りて、頭を下げた。
少し足がふらついた。
「ちょっと!何してんの!」
「ありがとうございました。あの、ご迷惑をおかけして」
「ええ?」
「大変、お世話になりました」
男は眉を潜めた。
「どういうこと?」
「私、行き倒れたのでは?」
男はふき出した。
フロウはオロオロした。
「そういう発想なの。笑っちゃ悪いかしら。違う違う。あなた、さらわれたのよ」
「はい?」
「誘拐されて、監禁されてるの」
「私が、ですか?」
「そうよ。裏通りの古書店のフロウ。さらわれたのに感謝しちゃダメよ」
目の前の男の柔らかな印象と、誘拐、監禁という物騒な言葉は、あまりにもちぐはぐだった。
フロウは正当な危機感を持ちかねて、戸惑った。
男はフロウの手を取って、テーブル席へ導いた。
フロウを座らせると、男は部屋の隅の小テーブルに置かれたティーセットでお茶をいれた。
男はシンプルな白いカップをフロウの前に差し出し、向かい側に座った。
「あたしは、宵闇の青のロキ。誘拐なんて言い方したけれど、どうか怖がらないで。あたしたちは、あなたを危険から保護したの。やり方が荒っぽかったことは、謝るわ」
「ハシマ先生の決闘のことですか?」
「いいえ。もっと、とてつもなく危険なものから」
うながされて、フロウは白いカップを口に運んだ。
爽やかなハーブの香りがした。
やはり、危機感は沸いてこなかった。
フロウは言った。
「私には身におぼえがありません。何かの間違いでは」
ロキは微笑んだ。
「あなたで間違いない。安全が確保されたら解放してあげる。心配しないで。国防に関わることで秘密裏に進めざるを得ないトップシークレットなの。どこかは言えないけど、ここは国の機関だから安全よ。決してあなたに危害は加えない」
フロウは恐怖より、ただひたすら戸惑いを感じた。
自分の身に起こったこととは思えなかった。
ロキは唇に人差し指を添えて言った。
「あなたを預かることは、父親を通じて母親にも知らせてある。安心して」
フロウはドキリとした。
「父親?」
「あら、そういえば父親のことを、あなたは知らないのだったかしら?あなたの父親はあなたを心配して、ずっと見守っているのよ」
「私のお父さんですか?」
「そうよ。せっかくだから、少しずつ教えてあげましょうね。でも、いきなりたくさんだと消化不良を起こすから、ね、少しずつ」
さあ、飲んでとうながされ、再びフロウはハーブティーを口にした。
「しばらく滞在してもらうから、まずはこの部屋の案内をしましょうか」
ロキに言われるがまま、フロウは立ち上がった。
部屋にあるもう一つのドアをロキが開けた。
洗濯乾燥機、洗面台、トイレ、バスルームがあった。
フロウは、使い方の説明を受けた。
説明を終え、ドアを閉める時、ロキが唐突に聞いた。
「シェイドを知ってるでしょう」
フロウの顔は反射的に真っ赤になった。
急に出てきた名前に、フロウは動揺を隠せなかった。
ロキは洋服ダンスへと移動しながらさりげなく聞いた。
「シェイドとあなたはどういう関係なの?」
フロウは混乱し、何をどう考えていいのか分からなくなった。
口が勝手に動いていた。
「私の仲良しが、好きな人です」
「ん?何それ」
ロキは立ち止り、フロウを振り返った。
ロキは不思議そうな顔をしていた。
ロキに上手く伝わらなかったことで、フロウは余計に焦ってしまった。
「あの、私の、と、友達の好きな人が、シェイドさんです」
ミカゲのことは、誰にも言ってはならないと口止めされている。
フロウは何をどう言えばよくて、何を言ってはならないのか、さっぱり分からなかった。
シェイドという存在を知っていることを、あっさり認めていることにフロウは気づいていない。
ミカゲの言う事情に、シェイドも含まれるという考えには到底至らなかった。
ロキは女性的な仕草で首をかしげた。
「友達の好きな人ねえ。あなたはどうなの?」
フロウは大いに慌てた。
激しく両手を振って否定しながら必死に言った。
「たった一度、会っただけです!何もないです!何とも思ってないです!」
「ふうん」
ロキは、まあいいや、と口の中でつぶやいて、洋服ダンスへと向かった。
洋服ダンスには、女性用の洋服がたくさん入っていた。
自由に使って構わないと説明された。
「食事はあたしが持ってくる。一緒に食べましょう。用が済めば、もとの場所に戻してあげるから、少しの間、不自由に我慢してね。何か欲しいものがあったら、何でもあたしに言って。できることはしてあげる」
ロキは洋服ダンスから取り出したトレーナーとイージーパンツをフロウに差し出した。
「とりあえず、今日は寝なさい。明日、朝食を持ってくるから」
フロウはロキから洋服を受け取った。
じゃあね、と優雅な仕草で出て行くロキに、フロウは声をかけた。
「あの」
「何?」
「ご丁寧にありがとうございました」
ロキは呆れた顔をした。
「だから、ありがとうは違うんだってば。しょうがない子ね。さっさと寝なさい」
フロウは頭を下げてロキを見送った。
フロウは部屋に一人残された。
何が何だか、正直さっぱり分からなかった。
恐ろしい事態のはずなのだが。
フロウは不思議なくらい、不安や恐怖を感じなかった。
威圧感をまったく与えないロキの存在のせいかもしれない。
こういう場合、どういう反応が一般的なんだろう。
フロウは、自分の人生経験が足りないために、普通の反応ができないのかもしれないと思った。
何しろナンパ一つ、まともに対応できない自分である。
狭い世界に生きてきた。
ハシマの庇護を離れた途端、何の対応力もない自分に気づかされることばかり起こる。
でも、今回のようなケースの場合、どんな経験を積んでいれば、普通に対応できたのだろうか。
フロウは頭痛がひどくなるのを感じた。
とりあえず、今日は寝てしまおうと思った。
ロキは無機質な長い廊下を歩いていた。
曲がり角に立つ人物に気づいて、ロキは先に声をかけた。
「グランド」
「俺にやらせろ」
グランドと呼ばれた壮年の男は、大柄で筋肉質であった。
片方の目を眼帯で覆い隠していた。
ロキは、フロウに見せた柔らかさを一切消し去っていた。
硬質な冷たい声で言った。
「黙ってこちらに任せておけ」
「何を聞きだした」
「これからだ。フロウには魔術がかけられている」
グランドはいら立ちをあらわにした。
「あれは餌だ」
「切り札だ」
ロキは即座に言い換えた。
グランドは眉間にしわを寄せ、ロキを睨みつけた。
「手っ取り早く口を割らせて、餌にしろ」
「血の気が多い。女の扱い方を知らないお前の口出しは、ただひたすらに余計だ」
ロキは話を一方的に打ち切り、グランドを置き去りにして歩いて行った。
グランドはその背中を憎々しげに睨み続けた。




