もうひとつの決意
ミカエルの母リリスは、ある日、長かった白金の髪をバッサリと切った。パーマをあて、波打つニュアンスを加えた顎ラインのその髪型は、リリスに驚くほど似合っていた。
まるで、つながれていた鎖から解き放たれたかのように、リリスは活動的になった。
沢の下の双子に会うことが多いのだが、外出も増えた。
時々、疲れのためか熱を出すこともあった。
ビヨンドは、リリスが勝手なことばかりしているからだと苦々しく言った。
ミカエルは、リリスの変化を喜んでいた。
楽しそうなリリスを見るのがうれしかった。
たまに熱は出すものの、長く床に臥せっていた頃とは比べようもないほど健康的に見えた。
これからする話は、そんなリリスの変化に水を指してしまうのだろうか。
他でもない。味方のはずのミカエルから、リリスの傷をえぐる話を出されるのだ。
リリスを深く傷つけてしまうかもしれない。
せっかく生まれた輝きを、曇らせてしまう愚行なのか。
ミカエルは恐れていた。
しかし、引き返せないほどの気持ちがあった。
執事ドメスが、リリスは屋敷の庭を散策中であると教えた。
ミカエルは、あずまやで気持ち良さそうに休憩していたリリスを捕まえた。
人払いをし、親子は二人で向かい合うこととなった。
ミカエルの真剣な様子に、リリスも襟を正した。
ミカエルは言い訳をするかのように、傷つけたくはないのだけれど、やむを得ない気持ちで、決してリリスの苦しみを軽んじてはいないのだけれど、と言葉を連ねた。
それからミカエルは、苦悩を浮かべながら告げた。
「妹フロウに会いに行こうと思っている」
リリスの顔から、みるみる血の気が引いていった。
同時に表情も消え去った。
膝の上で固く組まれた両手の関節が、白く浮き上がった。
やはり、時期尚早であったのか。
せっかくのリリスの変化の時期に、重すぎる負荷をかけてしまったのか。
リリスの反応に際して、思った以上に動揺するミカエルがいた。
それは、あれだけの決心が揺らぐほどの恐怖。
このままリリスが倒れてしまったら。
死んでしまったら。
この屋敷の庭は、花は少なく緑の樹木が立ち並んでいる。
青い空の下、緑の葉影が白いあずまやの中にも入り込み、濃淡の陰影を成していた。
その影がリリスにかかることさえ、ミカエルには恐ろしく感じられたのだ。
ミカエルは二の句が継げなくなり、黙り込んだ。
ミカエルも顔色を失った。
「話してくれて、ありがとう」
浅い呼吸をしながら、リリスが口を開いた。
ミカエルは途惑った。
リリスの固く組まれた両手は真っ白だった。
「分かったわ。妹に会いにいってらっしゃい」
それを聞いてミカエルの頭に浮かんだのは、無理を重ねたリリスに、また我慢という無理を強いている、という思いだった。
望んでいた答えのはずなのに、ミカエルは不安になった。
今すぐ謝罪して、リリスの痛みをなだめたい思いに駆られた。
リリスは深呼吸した。
細い肩の線が上下した。
「ごめんなさい。今まで、私が弱かったばかりにミカエルを苦しめてきた。苦しめていることにも気づいていなかった」
ミカエルはハッとした。
思ってもみないリリスの話だった。
リリスは華奢な体をピンと伸ばし、小さな声をまっすぐにミカエルに向けた。
「苦しみも怒りも不安も、私の悪いものをミカエルに背負わせるのは筋違いなのに。重たいものをあなたに背負わせた。取り返しがつくのかどうか、本当に恐ろしい」
そんなことをリリスが考えているなど、ミカエルは想像もしていなかった。
ミカエルの心はすぐに否定した。
違うよ、お母様は悪くない。僕の努力が足りない。重いものを支えられる強さを僕は手に入れるんだ。
その幼い声は、ミカエルの中で自動的に再生された。
ミカエルの表情を読み取って、リリスは首を振った。
リリスは震える声で言った。
「ミカエルが、恋をした話を聞いたことがない。人を大好きなあなたが」
それは、リリスの中で喉に刺さった小骨のように、気になっていたことだった。
欠けたところのないような立派な息子。
しかし、とても不自然な心を抱えている。
「私は、私とビヨンドのせいだと思っている」
リリスの声が詰まった。
ミカエルは思ってもみなかった話の展開に、別の動揺をおぼえていた。
違う、父さんと母さんのせいじゃない、そう言いたいのにミカエルの声は出てこなかった。
どこかで何かを思っていたのか。
親を責める気持ちがあったのか。
親のことはつぶされそうなほど重かったのだろうか。
リリスは絞り出すように言った。
「子どもに罪はない。フロウもそう」
ミカエルの深いところが締め付けられるように痛んだ。
両親の不和も、リリスが死にかけたことも、力のない僕の罪ではない。
それはそうなのだろう。理屈ではとっくに分かっていた。
すでに通り過ぎたはずの痛みだった。
それなのに、ミカエルの深いところにある何かはリリスの声に反応した。
リリスはゆっくりと深呼吸した。
「私の弱さは変わっていない。今もまだ、弱くてダメな私」
リリスは固く組んでいた手をほどいた。
両手は小刻みに震えていた。
「気持ち的にフロウを受け入れられるかといったら、正直、私には難しい。でもこれは、ミカエルとフロウに対する気持ちのせいじゃない。私のこの思いは、ビヨンドとマルタに向けるべきもの」
リリスは震えながら、強い瞳で言った。
「私はもう間違えない」
ミカエルは目を見張った。
胸の奥深くがグルグルと渦巻き、自分が何を思っているのかも分からなくなった。
何も思考にならなかった。
何も声にならなかった。
リリスは震えながら強い意志の力で言葉を続けた。
「弱い自分だけれど、だからといって目を曇らせたりしない。私がフロウを受け入れられないのは、あなたやフロウの問題じゃない。ビヨンドと私との間では葛藤が続く。どこかで巻き込んでしまうかもしれない。それでも兄妹同士は助けあいなさい。私はそれを邪魔したりはしない」
リリスの潤んだ強い眼差しが、ミカエルの心ごと貫いた。
「会いなさい。フロウはあなたのたった一人の妹」
ミカエルの中で爆発があった。
ミカエルは、自分が何をしているのかも分からなくなった。
泣いていた。
ミカエルは、生まれて初めてというほど、激しく泣いていた。
いつの間にか、リリスがミカエルの隣に座り背中をなで続けていた。
母さん、母さん、母さん、ありがとう。
ミカエルは、声にならない言葉で言い続けていた。
実際に口にしたのだろうか。
ミカエルにはもはや判然としなかったが、隣のリリスが何度も頷いていたようだった。
ミカエルの背中を行き来する小さな手が、冷たくて温かかった。
リリスは泣き崩れたミカエルの背をなでながら、祈っていた。
ミカエルに与えてきた傷に対し、私の謝罪は間に合ったのだと信じたい。
どうか、ミカエルが幸せになりますように。
リリスは、深く深く祈っていた。