海の見える公園
早朝、古書店を追われるように出たフロウは、行くあてもなくさまよっていた。
まだ人影もまばらな街を歩くうち、フロウの胸に浮かんでくる思いがあった。
海が見たい。
フロウは、住まいであり職場である古書店を離れることがほとんどなかった。
ハシマが必要以上の魔術をフロウに施さなくてすんだのは、そのせいもあったのかもしれない。
フロウはどこかに出かけたいという感覚があまりなかった。
そうであることに、疑問も不満もなかった。
古書店とマルタの家の周辺、それが幼い頃から変わらないフロウの世界のすべてだった。
海は以前、ハシマの用事に付き添ったついでに立ち寄ったことがあった。
映像とは違う海の質感に、フロウは驚いたものだった。
感動したが、それでも一人で再び行こうとは今まで思ったこともなかった。
なぜ今、海を思いだしたのかは分からない。
フロウはぼんやりとバスを乗り継ぎ、海の見える公園へと向かったのだった。
フロウは海の見える公園に到着した。
公園のベンチに座り、寄せては返す波をただ見つめていた。
潮風に吹かれ、潮騒を聞いた。
日が昇った。
気持ちの良い晴天だった。
フロウの前を大勢の人が行き過ぎた。
家族連れ、恋人、友達、犬の散歩。
誰もが行き先を持っていて、それを目指しているように見えた。
フロウは、古書店を失うと他に何もない自分に気がついた。
愛しているとハシマが言った。
今の自分にとって、古書店とハシマは世界のすべてだ。
そこで愛されている。
返事として、愛を返す以外に何があるというのか。
フロウは、以前、寝室でハシマに抱きしめられたことを思い出した。
ドクドクと胸が騒いだ。
ハシマを男性として意識できるのか。
とっくに意識している。
告白を受け、プロポーズされ、フロウの心は十分に舞い上がっている。
そうと意識してしまうと、ハシマは怖いくらいに魅力的だった。
結婚してほしいと言われた。
思い出すと、フロウは胸がドキドキして止まらなくなった。
ハシマが魔術で殺されてしまったかと思った時の恐怖も蘇った。
フロウは決してハシマを失いたくはなかった。
フロウもハシマを愛している。
それはきっと間違いない。
他の人に言い寄られた時には、まったく感じなかった感情ばかりが胸に迫る。
フロウはそれでも戸惑っていた。
かつての関係を失うことを嘆く幼い心があった。
海は広かった。
遠くまで続いていた。
フロウはどこに向かうべきなのか自分で決めることができず、心も体も公園のベンチに縫いとめられていた。
気がつくと夕方だった。
夕暮れの空と海の色を見るうちに、フロウは我に返った。
時間の感覚がおかしくなっているようだった。
ふと、フロウは思い出した。
そういえば、ミカゲがいる。
思い出すと、フロウの心は少し浮上した。
そうだ、ミカゲだ。
ミカゲと話したい。
マルタはいるかいないか分からないが、ミカゲはいるはずだ。
フロウは、マルタの家へと帰路を急いだのだった。
フロウの思いに反して、ミカゲはいなかった。
リビングのテーブルに置き手紙が2つあった。
ミカゲとマルタからだった。
ミカゲの手紙は別れの手紙だった。
マルタの手紙は『ミカゲちゃん、帰っちゃったよー。寂しい。お母さん、しばらく別のところに泊まります。またね、フロウ』という内容だった。
フロウは思ってもみないほどのショックを受けていた。
孤独だった。
一人だと感じた。
そんな夜には慣れているはずなのに。
フロウはそっと窓の外を見た。
美しい半月が見えた。
いつも感じる胸騒ぎがやってきた。
孤独よりもよかった。
息が苦しくて胸のところをギュッと握った。
それでもフロウは月を見上げ続けた。
翌朝、行くあてのないフロウは、再び海の見える公園に向かった。
昨日と同じベンチに腰掛けた。
フロウはただぼんやりと海を見ていた。
そんなフロウの前を、一人の女が通りかかった。
通りすぎ際、女は突然うずくまった。
フロウは驚き、慌てて女に駆け寄った。
「大丈夫ですか?どうしました?」
フロウがかがんで声をかけると、女は膝をついたまま顔を上げた。
「ごめんなさい。ちょっと気分が悪くて。妊娠しているんです。少し休めば大丈夫」
褐色の肌、銀色のショートカットの美しい女だった。
その妊婦は、チラリとフロウが座っていたベンチを見た。
フロウはハッとして、妊婦をベンチへといざなった。
妊婦はベンチに座ると、立ったままのフロウを見上げて言った。
「ありがとう。つわりの時期は過ぎたはずなんだけど、調子がいまいちで。少し休めば治るの。いつもそう」
妊婦は腹に手を当てた。
フロウはその動きにつられて妊婦の腹を見た。あまり目立たないが、確かにひっそりと膨らんでいるようであった。
妊婦は申し訳なさそうな表情で言った。
「ご迷惑とは思いますが、こうなると一人は心細いのです。少しだけ一緒にいてもらえませんか?」
「勿論です!何かあったら、すぐに人を呼びにも行きますから、安心してくださいね」
フロウに断る理由はなかった。
フロウは妊婦の隣に座った。
妊婦はホッとした様子で話しだした。
「ありがとう。助かります。妊娠して体調を崩しやすくなってから、人の優しさが本当にうれしくって。それに比べて、うちの兄ときたら」
「お兄さん?」
「ええ。今日は兄に呼び付けられて、届け物なんです。これ、兄が好きなクッキーなんですけど、私が焼いたんです」
妊婦は手提げかごの中をフロウに見せた。
透明な袋の中に手作りクッキーが見えた。リボンで可愛らしくラッピングされていた。
妊婦はため息をついた。
「食べ物のにおいがダメな時もあるのに、兄はどうしても食べたいから作って持ってこいって。無理して作ったんです。本当、困っちゃう」
「あの、体が本当につらい時には、旦那様にお願いしてみるとか」
「ああ。あの人は仕事人間だから。頼めばやってくれると思うけど、疲れているのに悪くって。それに、結局、兄は私の顔が見たいんだっていうことも、分かってるんです」
そういうものなのか、とフロウはふむふむ頷いた。
妊婦は気さくに聞いてきた。
「あなたは結婚しているんですか?ご家族は」
「いえ!あの、まだまだ、恋人もいないです。うちはその、母一人子一人だったのですが、もうそれぞれの生活をしているんです」
急に結婚という単語が出てきて、フロウは少し慌ててしまった。顔が赤くなるのを感じながら、一生懸命説明した。
妊婦は、そうなんですねと相づちを打ちながら続けて聞いた。
「きょうだいはいないのかしら?」
「いません。ひとりっ子なんです」
妊婦は首をかしげた。そんな仕草もフロウには美しく見えた。
妊婦は少し不満そうに言った。
「まあね。兄がいたって、うちみたいに面倒で、妊婦を呼び付けるような奴だと、いなくてもいいようなもんですけどね」
「そんなことないです!」
フロウから、反射的に大きな声が出た。
妊婦は目を丸くした。
フロウは続けた。
「すみません、大きな声を。でも、うらやましいです。きょうだい。かけがえのない絆で結ばれています。あなたが、自分の体調の悪さにも関わらず、ついついおいしそうなクッキーを焼いて、自分で届けてしまう、そういう愛情が、本当にうらやましいです。私もほしかったです、きょうだい」
フロウは力説した。
妊婦は再び首をかしげた。
「親戚のお兄さんとか、ご近所のお兄さんとか、昔遊んだお兄さんとか、そういう人もいないんですか?」
「仕事上の師匠がいるだけです。誰もいません」
兄のことばかり聞く不自然さに気づかないフロウは、真剣に答えた。
妊婦は頷いた。
「さてと」
妊婦はゆっくりと立ち上がった。
「ありがとう。おかげさまで具合がよくなりました。兄の愚痴も聞いてもらえてうれしかった」
「いえ、あの、なんだかすみません」
フロウは恥ずかしくなって頭を下げた。
妊婦は柔らかく微笑みかけた。
「あなたの幸運を祈っています」
フロウは驚いて顔を上げた。
きれい、と少し見とれた。
それから、むしろ逆の立場ではないかと、慌ててフロウも言った。
「あの!よい出産を!お祈りしています」
「ふふ。ありがとう」
フロウはベンチに座ったまま、立ち去る妊婦を見送った。
もし、兄がいたら。
フロウは思わず考えてしまった。
もし、兄がいたら、行き先に迷うこんなとき、会いに行けたのかもしれない。
その思いは、フロウを寂しくさせた。
やがて、昼になった。
食欲はなかったが、体を壊すわけにはいかないと思い、フロウはベンチから立ち上がった。
公園から出るのも億劫で、園内にある小さな食堂に行った。
フロウはサンドイッチを買い、食堂の外に置かれたイスに腰かけた。
もそもそとサンドイッチを口につめこんでいると、見知らぬ男が声をかけてきた。
「1人ですか?」
フロウは驚き慌てた。
アロハシャツを羽織った若者は、丁寧な口調だが親しげにフロウに話しかけてきた。
「俺も1人なんです。良かったら、一緒に食べませんか」
「いえ、あの」
「あっちの売店でバイトしてて、今から昼飯なんですけど、1人ってつまんないじゃないですか」
「あの、私は、あの1人で」
「名前とか聞いていいですか」
「え」
フロウは真っ赤になって、おたおたするばかりだった。
必死に断っているつもりだが、うまく伝わらないようだった。
相手のペースに巻き込まれ名前を言いそうになったその時だった。
「悪いけど、この子、一人じゃないから」
フロウと若者の横から、一人の女が声をかけてきた。
細面でみつあみを両耳の下から垂らした女性は、キャップのつばを少し持ち上げながら言った。
「ごめんね。せっかくのお誘いだけど、この次にして。うちら忙しいんだ」
若者は、現れた女をさりげなく観察したようだった。
タンクトップとカーゴパンツ、腰にチェックのシャツを巻いているが、よく似合っていて、フロウの目から見てもクールで魅力的だった。
若者が言った。
「君も一緒にどうかな」
「本当、ごめん。今日は無理。また今度にして」
女がきっぱり言うと、若者は、そっか、と手を上げて去った。女も手を振って見送った。
慣れた様子の二人のやり取りを、フロウはアワアワしながら見ている以外になかった。
若者の姿が見えなくなると、やっとフロウは一息つくことができた。
ゆるくみつあみを垂らした女が振り返ってフロウを見た。
フロウはすぐに言った。
「ありがとうございました!とても、あの、困っていたので」
女はにっこりと笑った。
笑うと案外幼く見えて、もしかして年が近いのかもしれないとフロウは感じた。
「どういたしまして。ナンパ、慣れてないと怖いよね」
「はい。教えたくないのに、間違って名前を言いそうになりました」
「気をつけてね」
「はい。本当にありがとうございます」
「うん。じゃあバイバイ」
女は笑顔を残して、フロウに背を向けた。
去り際のことだった。
女は3歩進んで立ち止まった。
フロウは一体なんだろうと目をパチパチした。
女が振り向いて真顔で言った。
「あなた、昔、私と会ったことない?」
フロウはぽかんとした。
思いもよらない話だった。
フロウは言った。
「ないと思います」
女はじっとフロウを見た。
フロウは恥ずかしくてもじもじしてしまった。
「昔、大けがした私を助けてくれた恩人によく似ているんだけど、違う?おぼえはない?」
フロウは手を振って断言した。
「私じゃないです」
少しの間、女はフロウを不思議そうな顔で見ていた。
それから女はにっこりと笑った。
「そっかそっか、変なこと聞いてごめん、じゃあね」
女は軽やかに背を向けて、今度こそ去って行った。
フロウはドキドキしていた。慌てることばかりだった。
いつもと違う生活をすると、いろいろなことがあるものだとフロウは思った。
古書店では、何があっても最終的にはハシマが助けてくれるという安心感があった。
ハシマを失うということは、自分で何もかも切り抜ける力をつけなければいけないということなのだと実感した。
フロウはあらゆる覚悟を決めかねていた。




