混乱
ミカエルは、封筒を手にもてあそびながら、自室の一人掛けソファーに腰かけ、頭を悩ませていた。
封筒の中身は、ユウカリが出演する演劇の招待券であった。
それ自体には、何の問題もない。
ただ、これを受け取ってから、浮かんで止まない考えに悩まされていた。
フロウを誘いたい。
誘ってしまおうか。
ユウカリが所属する劇団は、若者に絶大な人気があった。
しかも、今回は、リニューアルしたばかりの美しい劇場での公演である。
演目も喜劇で、変な含みが感じられず、ちょうどいい。
ミカエルは、フロウに関するさまざまな調査結果を目にしてきた。その中で、フロウが年頃の女の子らしい楽しみ方を、まるでしていないのが気になってもいた。
写真に映るフロウの服装は、清潔感はあるものの、常に地味で質素だった。
着飾って、演劇を見に行く。
きっと、喜んで、楽しんでくれるような気がする。
そこまで考えて、ミカエルの思考は一度立ち止まる。
フロウに会う、という結論があって、そのための理由をこじつけてはいないか。
これは、父ビヨンドのやり方、そっくりだ。
ミカエルの眉間に皺が寄った。
もてあそんでいた封筒が、滑り落ちた。
小さないら立ちが胸に宿った。
ソファーから腰を上げ、雑な手つきで床の封筒を拾い上げた。
常春の華にフロウを近付けることは、父ビヨンドの意向には沿っている。
しかし、それは、苦労を重ねた母リリスに対して後ろめたいことでもある。
はああああ、とミカエルは深いため息をついた。
そもそもミカエルは、人と仲良くしたいと思った時に躊躇するタイプではない。
近づきたい人に手も足も出せないことが、苦しくて仕方がなかった。
そういう意味では、経験不足なのである。
気持ちを持て余したミカエルは、とうとう苦渋の選択をした。
近づきたい、でも、どうしていいか分からないという相手に対し、追いつめられた結果やりがちな、あの行動をすることにしたのだ。
陰からこっそり見に行こう。
ミカエルにとって、生まれて初めての行為だった。
かっこ悪い。情けない。恥ずかしい。失礼だ。
自意識はミカエルを責め立てたが、選択は変わらなかった。
ビヨンドから、リリスとマルタの話を聞いたことが影響しているようでもあった。
長年の懸念が払われて、自制心が少しおかしくなっているのかもしれないとミカエルは思った。
だって、この演劇は本当に面白いと思うし、僕の友達が出ているし、フロウもこれをきっかけにお芝居が好きになるかもしれないし。
ミカエルは、封筒をしっかりと持った。
誘える感じかどうか、まずは、様子を見に行くのだ。
こう、と思い定めたミカエルの行動は早かった。
ますますビヨンドに似てきた自分に気がついて、ミカエルは頭を抱えてしまうのであった。
ある日の夕方。
ミドリ地区裏通りの古書店の飴色の引き戸には、張り紙がしてあった。
『3日間、白魔術は休業で、薬だけを取り扱います』
今日は、張り紙に書いてある3日間のうちの中日だった。
ミカエルは、こっそり見にくるにあたって、服装にも気を遣っていた。
なるべく目立たないよう。よくある格好で。髪は帽子で隠す。
高い身長と鍛え抜かれたバランスのいい体つきは隠せないが、それ以外はできるだけ隠した。
何か必要があって策を講ずる場合も、大っぴらに動いて周りの目を引きつける役しか回ってこない。それがミカエルだった。
そのため、人目を避けて、自分の存在を消し、息を殺すような行動は、大変新鮮な体験であった。
責め立てる自意識、見やぶられる不安、別の何かに変身したような違和感。
さまざま相まって、妙な高揚感があった。
ミカエルはどきどきしながら、くせになりませんようにと祈った。
ミカエルは、一度、古書店の前を歩いて通り過ぎた。
営業時間は勿論知っており、店じまいに鍵をかけるのはフロウの役割だということも知っていた。
あと数分で店が終わるという時間だった。
ミカエルは、古書店のある通りの向かい側に行き、いくつかの店舗と家を通り過ぎ、小さなバス停で足を止めた。
そこからは、古書店の入り口がよく見えた。
ミカエルは、帽子のつばの下から、古書店の入り口をじっと見た。
数分が長かった。
飴色の引き戸が開き、フロウが出てきた。
ミカエルは目を見張った。
本物だ。
本物のフロウだ。
フロウはほうきを持って、店の前を掃き掃除し始めた。
写真で見るより、細身の印象だ。
夕映えの中、フロウの栗色の長い髪の毛が柔らかく輝いて、きれいだ。
瞳もキラキラして、なんて可愛いんだろう。
ミカエルの鼓動は速くなり、胸がいっぱいで、それ以上何も考えられなくなった。
ミカエルは半ば呆然とフロウを見ていた。
「ちょっと、あんた」
呆けていたミカエルは、後ろから突然声をかけられ、ビクッとした。
慌てて振り向くと、最初に目に入ったのは、こげ茶色の髪の毛を止めている小花付きのヘアピンであった。ミカエルは、視界の下の方から見上げられていたのだ。
黒いチュニックにジーンズを合わせた服装の女の子だった。
女の子は、ミカエルをジロジロと上から下まで、まるで何かを見極めるように見た。
ミカエルは戸惑って声を上げた。
「あの」
「あんた、もしかして、フロウのこと好きなの?」
女の子がビシッとミカエルに聞いた。
あまりにも唐突過ぎて、ミカエルは真っ赤になった。
「あの、君は誰?」
ミカエルは、かろうじて声を出した。
「ん?まあ、フロウにはちょっと借りがあって。フロウは恩人なんだ。それはいいけどあんた」
怯むミカエルに、更に女の子は詰め寄った。
ミカエルはたじろいだ。
ひゃあ、という脱力するような声が、急に古書店から上がった。
ミカエルと女の子は、一斉に古書店前にいるフロウを見た。
なんと、フロウが、スーツ姿の男に迫られていた。
ミカエルと女の子は、そろってぎょっとした。
そうこうするうちに、必死にペコペコと頭を下げるフロウの手を、男が握った。
スタートの合図が切られたようだった。
ミカエルと女の子は、同時に飛び出していた。
ミカエルは、男の手首をきつく握り、痛みで開いた男の手をひねり上げた。
そのまま、地面に放り出すと、女の子がすかさず、男の顎を蹴った。
男は悲鳴を上げ、這うように逃げ去っていった。
あっという間の出来事だった。
「ああ、びっくりした。あれ?ミカゲちゃん」
フロウは両手をぎゅっと握って胸元に当てながら、ミカゲに声をかけた。
ミカゲは片手を腰に当て、人差し指でフロウを指しながら言った。
「フロウ、あんなのに絡まれるなんて、隙が多すぎる!」
「あははは。怖かった。ミカゲちゃんも可愛いから気をつけてね。その服、お母さんが出したの?懐かしいな。私より似合ってる。それだと、前のミカゲちゃんを知ってても、すぐには分からないかもね」
「な、な、な、何言ってんだ!俺のことはいいんだよ!」
ふんわりしたフロウと、照れまくるミカゲとのやり取りを横目に、ミカエルは静かに硬直していた。
フロウが近い。
こっそりのはずが、とんでもなく近い。
フロウが、一息ついて、ミカエルを見た。
「すみません。助けていただいて、ありがとうございました」
恥じらうフロウと一瞬、目があった。
ミカエルの中の混乱が、ひと際、渦を巻いた。
「いえ、あの、また」
ミカエルは、早口で焦るように言い、その場から逃げるように走り出した。
フロウは目を丸くして、その背中を見送った。
だらしねえな、というミカゲのつぶやきは、幸いなことに、ミカエルの耳には届かなかった。
ミカエルは近くに止めていた自動車の運転席に乗り込み、ハンドルに顔をうずめた。
かっこ悪い。
ミカエルは、ありえないほど無様な自分に打ちのめされていた。
一度も感じたことのない敗北感から、なかなか立ち直れそうになかった。
早鐘を打つ胸がなかなか収まらなかった。
今運転したら、間違いなく事故にあう。
落ち着け、落ち着け。
会いたくてたまらなかったフロウとの再会は、ミカエルに大きな衝撃を与えた。
言い訳をするなら、心の準備がまったくできていなかったのだ。
間近で見たフロウの、とんでもないリアルな質感。手を伸ばせば届いた。
声も聞けた。なんて柔らかな響き。
今すぐにでも、これが僕の妹ですと世界中に言いふらしたい。
敗北感と喜びだけでも十分に混乱してるのだが、実はもう一つ、ミカエルの混乱を深める感触があった。
ミカエルはハンドルに頭を置いたまま、窓から、夜に向かおうとする空を見た。
夕焼けが解け落ちるように、夜の色が広がり始めていた。
ミカエルを見たフロウの目。
あれは、知らない人を見る目だった。
ミカエルは、一度会った人から忘れられたことがなかった。
成長して、確かに様変わりはしている。しかし、イデアメル国から帰国し、再会した幼馴染は誰もが、ミカエルは変わらない、すぐに分かったよ、と口をそろえて言ったのだ。
ささやかに変装はしていたものの、フロウとはあの距離で目と目が合ったのに。
今日は、ミカエルにとって衝撃の大きい日であった。
この混乱は、簡単には収まりそうになかった。