森の屋敷
カロナギ国は、大陸の山の中にある小さな国である。
水と大地に恵まれ、農作物がよく育つ土地柄であった。
特別な発展はなかったが、大きな戦争もなかった。
国民は飢えることを知らず、穏やかに暮らしていた。
そんなカロナギ国のとある森の奥に、小さな屋敷があった。
一番近い集落まで歩いて1時間かかるような場所に、その屋敷はぽつりと一件だけ建っていた。
獣道のように整備されていない踏み固めただけの細い道が、草原から森の奥へと続いていた。
木々に囲まれた深い森の中、その道をしばらく辿り歩くと、突然に場が開けて、その屋敷が現れるのだ。
まるで、魔法のようだった。
その屋敷の奥にある寝室で、一人の老婦人がベッドに横になっていた。
顔色が悪く、浅い呼吸を繰り返していた。
寝室のドアが音もなく開いた。
すらりとした長身の青年が、皿を乗せたトレイを片手に、するりと室内に入り込んだ。
その黒髪の青年は、しなやかな動きで後ろ手にドアを閉めた。
青年は、老婦人の眠るベッドサイドテーブルにトレイを置くと、傍らのイスに腰掛けた。
そして、少しの時間、老婦人の顔を見つめていた。
青年は、試みに、消し去っていた気配をあらわにして、ひじを自分の組んだ足の膝に置き、頬杖をついてみた。
老婦人のまぶたがピクリと動いた後、ゆっくりと持ち上がってきた。
老婦人の眠りは浅かった。
青年は、その目覚めに、老婦人の体調によるものだけではなく、その人生において、生き残るために神経を張りつめてきた有様を感じとった。
老婦人のまぶたの奥で、目が揺れた。まもなく、その目が青年をとらえた。
「シェイド」
老婦人のかすれた声が、青年を呼んだ。
18歳のシェイドは、涼しげな切れ長の目を細め、老婦人に微笑みかけた。
老婦人は小さく微笑み返した。
シェイドは手を伸ばし、老婦人の額にかかる白い髪を払いながら言った。
「食事の時間だけど、食べられそう?」
「あんまり食欲はないけど、食べないとね」
老婦人は自分で身を起こそうとした。
シェイドは立ち上がり、その動きを支えた。
シェイドは、老婦人の体のどこもかしこも肉が落ちていることに胸を痛めた。
老いた身で病にかかり、短期間ですっかり痩せてしまったのだ。
病自体はそれほど悪質なものではなく、健康な大人であれば数日で完治するはずのものであった。
老婦人の免疫が落ちている証拠であった。
「本当、年には勝てない。迷惑かけてごめんなさいね」
「いいよ。俺がこういうの嫌いじゃないって、知ってるだろ?」
シェイドは慣れた手つきで、老婦人が食事できるようにベッドを整えた。
老婦人は、背もたれのクッションに身を預け、フウッと息をもらした。一つ一つの動作によって、疲れてしまう様子だった。
それでも、品のある美しい表情は変わらない、とシェイドは感じていた。
「俺には気を遣うなよ、ソフィア」
「はいはい。可愛い孫の言うとおりにしますとも」
老婦人ソフィアの言葉に、シェイドは、気恥ずかしさとうれしさと物悲しさをいっぺんに感じた。
さまざまな感情を隠すように、シェイドは食事の支度をした。
シェイドが匙ですくって、滋養のあるスープをソフィアの口元に運んだ。
ソフィアは、静かにゆっくりとそれを飲んだ。
シェイドは次を急ぐことなく、ソフィアの様子を見ていた。
ソフィアが口を開いた。
「ミカゲは見つかったの?」
「いいえ。まだ、知らせはありません」
「そう。心配ね」
「キングさんが動いているんです。心配無用でしょう」
シェイドは穏やかに応じた。
ソフィアの瞳が陰りを帯びた。
「私がこんな病に負けさえしなければ、シェイドもミカゲを探しに行けたのに」
「ミカゲは逃げるのが上手い。敵には捕まらない。そして、キングさんは、その上をいく追いかけ上手だ。俺の出番はない」
シェイドは、スープをもうひと匙すくった。
「もう一口、どう?」
「ええ。いただくわ」
そこからは、静かな食事が続いた。
残りはあと半分、というところで、ソフィアが手を上げた。
「ありがとう。もう充分」
「ソフィア」
つい、責めるような口調になり、シェイドはハッとして、匙を持つ手の甲を口に当てた。
「そろそろ休みたいわ」
「じゃあ、薬だ」
シェイドはソフィアに無理強いしないよう自分を抑え、ベッドヘッドボードに置かれた薬を用意した。
ソフィアは、粉薬を水で飲み下した。
シェイドが眠りやすいようにベッドを整え、再びソフィアは横になった。
「シェイド」
すぐに眠るかと思っていたソフィアに呼ばれ、シェイドは持ちあげかけたトレイを一度テーブルに戻した。
ソフィアはシェイドを見て言った。
「ニア国に、迎えに行きたい人がいるのよね」
シェイドは苦笑いした。二人の間で何度も話され、ソフィアがとても気にしていることだった。
「ミカゲはニア国に行った。あなたも行きたかったんじゃないの」
シェイドは指の長い手を伸ばして、ソフィアの頭の形をなぞるように何度かなでた。
「その話が出た時は動揺したけど、大丈夫。ソフィアが教えてくれたから分かってる。それに、どうしようもなくなったら、それはそれだ。行く時は行くさ。仕方ないだろ?」
シェイドは、繰り返されて煩わしくもあるソフィアの心配を、それでも失いたくはなかった。
「俺の心配はいいから。休んでよ。しっかり休めば治るから」
ソフィアは、シェイドの手に導かれるように目を閉じた。
しばらくして、食事と薬をとる前よりも幾分穏やかに見える様子で、ソフィアが眠りについた。
シェイドはその寝顔をしばし見つめた後、気配を消して部屋を後にしたのだった。
シェイドが10歳の時、キングに連れられて来た先が、このカロナギ国の森の屋敷だった。
深い森に守られるように建つ小さな屋敷は、余計な装飾のない質実な木造で、シェイドは一目で好感を持った。
最初に出会ったのは、30~40代の男性と女性だった。
短い黒髪をきちんと整えている男性は、真面目な印象を与えた。その黒い目は、ギルと同じく、自分につながっているものだとシェイドは感じた。
屋敷の玄関先に立っていた男性は、キングに連れられて来たシェイドを驚愕の目で見た。
「まさか本当に生きていたとは」
「ギルさんお墨付きの本物だ。挨拶しろ」
キングにうながされ、シェイドは目の前に立つ男性と女性に挨拶した。
「シェイドです。はじめまして」
「本物だ。俺には分かる。ダンテの息子だ。なんということだ。この目で見るまでは半信半疑だった」
ふいに父親の話が出て、シェイドはドキッとした。
男性はわなわなと震えた。隣の女性が頷きながら、目じりを押さえた。
シェイドは、どういう反応なのか分かりかねて、戸惑いながら黙っていた。
「神に守られた子だ。間違いない。神の子だ」
男性の言葉に、狂信的にさえ聞こえる妙な響きを感じ取り、シェイドは少し嫌な感覚をおぼえた。
神を自称する肉屋のせいで、ひどい目にあったばかりでもあるし、自分が生きてこられたのは、多くの人々の尽力のおかげだと思っていたせいでもある。
「そのへんにして、自己紹介してくれませんか」
キングの呆れた声が、男性の盛り上がりに水を差した。
男性は我に返ったように、真面目な印象を取り戻した。
「すまない。君に会えたのがあまりにもうれしくて。俺は、まことの黒のデンジ。こっちは俺の連れ合いのルイ」
黒髪の女性ルイがシェイドに微笑みかけた。茶色の目はややつり上がっているが、笑うと柔らかい印象を与えた。
「まことの黒の先々代、亡くなったシェイドのおじいさんのことだけど、そのおじいさんの弟が、俺の親父なんだ。分かるか?」
「はい、分かります」
「俺の親父は、まことの黒を守り通して命を落とした。俺は、親父の使命を受け継いでいる。シェイドのおばあさんも、この屋敷で私が守り続けてきた。細かい話は後にして、まずはおばあさんに会いなさい」
シェイドは、デンジの後について、屋敷の中へと入っていった。
屋敷の中は、外観と同様、華美な装飾は一切なく、堅実な造りをしていた。
掃除が行き届いた気持ちのいい廊下を、シェイドたちは歩いて行った。
デンジは、1階の廊下を少し行った先にある、両開きの扉の前で足を止めた。
「応接室だ。おばあさんが待ってる。シェイドを連れてきました、入りますよ」
デンジは、部屋のことをシェイドに説明するとすぐに、中に呼びかけて扉を開いた。
シェイドは心の準備をする間もなく、応接室の中へといざなわれた。
応接室の中に、一人の老婦人が立っていた。
老婦人は、濃紺の足先まで隠れるような裾の長いドレスを着ていた。
白くなり始めた黒髪を、ひとまとめにして編み上げていた。
整った顔の造作は、年を重ねても美しいとシェイドに感じさせた。
背筋の伸びた老婦人が、部屋に入ったシェイドをまっすぐに見た。
シェイドは緑の瞳を向けられて、緊張をおぼえた。老婦人の他に何も見えなくなった。
老婦人が口を開いた。
「シェイド。私のたった一人の孫」
その声を聞き、シェイドの胸が震えた。
記憶にはない。ないはずなのだが、どうしようもなく揺さぶられた。
シェイドの思い込みなのかもしれない。しかし、呼びかけられた途端に、懐かしくて慕わしくてたまらなくなった。
「私はソフィア。あなたの父ダンテの母。あなたのおばあさん」
立ちすくむシェイドに、一足ずつソフィアが近づいてきた。
シェイドの目の前に立ったソフィアは、緩やかにシェイドを抱きしめた。
シェイドは、ソフィアの感触の温かさで胸がいっぱいになり、身動き一つできなくなった。
「シェイド。こんなに大きくなって。今まで何もしてやれなくて、本当にごめんなさい。不甲斐ないおばあさんでごめんなさい」
ソフィアの声は沁みいるようにシェイドに届いた。愛情しか感じなかった。
「生きていてくれてありがとう。とてもつらい目にあってきたことでしょう」
シェイドは激しい衝撃を受けていた。
体の奥からこみ上げるものがあった。
そうだ。運命を憎んだこともあった。しかし、その恨みごとの多くは、運命を司る神よりも、見ず知らずの肉親に向かっていたのだ。
あんたたちが無力な俺を守らなかったせいだ。生み落としただけで、俺の苦労を知りもしないで。
乗り越えたつもりの憎悪に、声がかけられた。
ソフィアの声はまっすぐ中心に向かって来て、逃げはしなかった。
シェイドの中で小さな爆発が起きた。
言葉にならず、シェイドの目からボロボロと涙がこぼれた。
そのうち、嗚咽となり、考える間もなくワアワアとシェイドは泣いていた。
幼子の癇癪のようだった。
おばあさん、おばあさん、俺のおばあさんだ。
形になる言葉はそれだけだった。
「シェイド」
小さな涙声が呼んで、後はそのまま、シェイドが泣き止むまでソフィアは抱きしめ続けたのだった。
後から部屋に入ったデンジ、ルイ、キングは、声をかけずにそんな二人を見守っていた。
シェイドが、まことの黒の一族に帰還したこの時から、それぞれ違う思いが動き出していたのだった。