ビヨンドとリリス
ミカエルは父ビヨンドと行動を共にすることが増えていた。それに伴い、会話の機会も増した。
仕事のことから日常のことまで、話題は多岐に渡った。
そんなある日、ミカエルは、ずっと気になっていたことを、聞いてみることにした。
自分の存在意義に触れる話題であり、恐れながら胸に秘めてきたことであった。
「父さんは、どうして母さんと結婚したの?」
それは、仕事の合間にランチで立ち寄ったオープンカフェでのこと。
ビヨンドの眉がピクリと動いた。
一拍の間の後、ビヨンドは、飲みかけのコーヒーを静かにソーサーに戻した。
「いきなり何だ」
ミカエルは、サンドイッチを頬張りながら、ビヨンドを見た。
ちなみに、こういう気軽な洒落たカフェを好むのは、ビヨンドの方である。
傾いた家を立て直すために、青春時代を棒にふったビヨンドである。何か、こう、求めるものがあるのだろうと、ミカエルは思っていた。
それにしても、ビヨンドとミカエルは、絵になる親子だった。
二人は、店の外に置かれた5つの席のうちの一つに座っていた。深緑色のパラソルが、白いテーブルとイスに降り注ぐ陽光を遮り、快適な温度を保っていた。
時に心地よい風も吹きぬける席で、ビヨンドとミカエルはリラックスして過ごした。
店内の客からも、通行人からも、チラチラと見られる二人なのであった。
そんな周囲の視線などお構いなく、ミカエルは追い打ちをかけた。
「教えてよ。母さんとの馴れ初め」
「息子が、父親に、そういうことを聞くのか」
「そういう年頃なんだよ」
「理解できんな」
「今どきは、そういうもんだよ」
ビヨンドは腕組みをして、眉間にしわを寄せた。
この険しい顔は、怒りではなく迷いをたたえたものなのだと、ミカエルはもう知っていた。
ミカエルは答えを待って、コーヒーカップに口を寄せた。
軽く聞いてはいるものの、実を言うと、ミカエルにとって、非常に恐ろしい問いなのであった。
母リリスの命を脅かし、両親の関係に影を落とす。そんな自分なのではないかと、ミカエルは幼い頃から恐れを抱いてきた。
直接、ビヨンドに聞こうと思えるくらいには、成長した。
しかし、いざその時になってみると、やはり緊張が走った。
長年、深く刻まれた恐れは、ミカエルの理性による制御を越えていた。
とうとう、渋い顔のビヨンドが口を開いた。
「放っておけなかった」
そこで一度、ビヨンドは口をつぐんだ。
ミカエルはそんなビヨンドを見ながら、ごくりとコーヒーを飲んだ。
ビヨンドは小さく舌打ちをした。
「あまりこっちを見るな」
「ああ、ごめん」
ミカエルはさりげなく視線を逸らした。
ビヨンドの小さなため息が聞こえた。
「そうだな。そういうことだ。放っておけなかったのだ」
ビヨンドは、自分の記憶をたどり、確かめるように、そう言った。
それから、ミカエルの初めて聞く話が始まった。
ビヨンドとリリスの話だった。
実をいうとリリスは、家名を持つ家の娘であった。
沢の下という家名である。
ただ、沢の下は、すっかり力を失いその名を呼ぶ者もいない、もはや消えかけの家名であった。
そんな風に没落した家も少なくはなかった。
リリスの家は、家屋としても普通の2階建てであったし、父親の仕事も私立大学教授、それ以上には何もない、家名持ちとしては終わりかけの家だった。
リリスの祖父がそれに抗う気持ちを持っていた。
沢の下を継続したいと願っていた。
リリスの父親は現実を見ており、沢の下は、時代の流れに飲み込まれ消えゆく運命なのだと諦めていた。
嫁いできた母親は、リリスの祖父の願いを常に言い聞かされ、大変なプレッシャーの中にあった。
リリスの祖父は、沢の下を復興するような力を持つ男児の誕生を期待し続けたのだ。
最初に生まれたのは、双子の女の子だった。
リリスの祖父は、がっかりした。そして、次をせかした。
リリスの母親は、双子の世話に追われながら、次の子を身ごもった。
そうして生まれたのがリリスだった。
リリスは、男の子でもなく、強い力もなかった。
病弱なリリスの世話も加わったせいか、それ以上、子宝には恵まれなかった。
祖父の怒りが家に充満した。
双子はそれでも心身共に頑健で、気の強いタイプだった。そして、祖父や父親と同じ黒髪だった。
リリスは体が弱く、母親と同じ白金の髪だった。
男児を授からず家が終わりかけていることへの祖父の怒り。
その圧力を受けつつ父親に苦しみをぶつけきれない母親の怒り。
それらをまとめて面倒に感じている父親の怒り。
すべての怒りは、リリスに向かうことが多かった。
祖父は、なぜ男ではないのか、と繰り返しリリスに言った。
母親は、もっと食べなさい!早くして!また熱がでたの?と常にリリスを叱った。
父親は、ため息をついて、リリスから目を逸らした。
リリスは、自分はこの家のお荷物であると感じながら成長した。
ただ、2つ年上の双子の姉たちだけは、リリスをとても可愛がった。
祖父や親の怒りからもかばい、積極的にリリスの世話をした。
強くて優しい姉たちをリリスも慕ったが、どこか引け目を感じてもいた。
姉たちへの思いには妬ましさも混じり、心から素直に接しきれないところがあった。
6歳になって、リリスは姉たちと同じ小学校に通い始めた。
名門と呼ばれる学校に入るには財力も家柄も足りなかったので、家から近い普通の学校に入った。
体調不良で学校を休んだり、保健室で横になっていることも多かった。
それでも、何もせず家にいるよりは、ずっと気が楽だった。
美しくて控え目なリリスは、誰に嫌われることもなく、姉たちを始めとする周囲の手助けを得ながら成長した。
それから、姉たちと同じ中学に入学した。
小学校と同様、近所の中学校だった。
ビヨンドとリリスはそこで出会った。
「俺は、目と鼻の先にあるゴルド小学校に、入学を認めてもらえなかった」
ビヨンドは、苦い顔をして話した。
ミカエルは、そのことについてもずっと疑問に思っていた。
ミカエルがビヨンドと共に、ゴルド小学校の入試面接を受けた際、提出した書類を見ながら、面接官が言ったのだ。ミカエル君のお父様は、卒業生ではないのですね、と。
ビヨンドは続けた。
「俺が小学校に入る頃には、ずいぶん家の財産は目減りしていた。そうは言っても、入学を許可されないほど、ひどい状況ではなかったはずだ」
ビヨンドは、コーヒーを一口、口に含んだ。
「お前のじいさん、俺の親父だが、じいさんが入試面接に酒を飲んで行ったのだ。酒臭い息をまき散らし、面接官に説教を垂れた」
ビヨンドは、コーヒーを置いて、長い足を組み直した。
「いたたまれなかった」
ゴルド小学校に入学を拒まれたビヨンドは、次に家から近い小学校へ通うこととなった。
必死に学び、体を鍛え、勉強もスポーツも常にトップの座に君臨した。
その実績をもって、ゴルド中学校を受験した。
そして、落ちた。
「中学に入る頃には、うちの財産はずいぶん少なくなっていた。その上、面接試験で、じいさんは呂律の回らない口でゴルド中学校の悪口を言い始めた。俺は我慢できず、その場でじいさんを殴った。2回殴った。合格する訳がない」
ビヨンドは肩をすくめた。
ゴルド小学校受験に失敗した時、ビヨンドのプライドが激しく傷ついた。その痛みを乗り越えたくて努力した。
ゴルド中学校受験は、傷ついた名誉を回復するチャンスだった。
ビヨンドは自分の父親に頭を下げてお願いしたのだ。まともな親らしく面接試験を受けてほしいと。
ビヨンドが今にして思えば、バカな考えだった。
自分の父親も、何とかしたいという気持ちはあって、息子の願いを引き受けたのだろうと今は解釈している。しかし、酒におぼれた心と体が、そんな緊張場面に耐えられる訳がなかったのだ。
当時の自分の置かれた状況は、名門学校に所属できるだけのものではなかった。
そう判断する力が、自分になかったため、余計な汚辱を被ったのだとビヨンドは思い返していた。
さて、こうしてビヨンドは、リリスと同じ中学に入学することとなった。
ビヨンドは、自分の父親の怠惰を憎んだ。それだけではなく、自分の力だけでは認めてもらえない現実をも憎んだ。そして、その冷たさに打ち勝てない無力を憎んだ。
ビヨンドは、小学校時代を越える猛烈な努力をすることで、すべてに打ち勝とうとした。
「そうして入った中学校で、リリスに出会ったのだ。あれは、まあ、あの頃は、それなりに可憐な少女だった」
ビヨンドは言いがたい様子で、口を濁した。
ミカエルは、さすがにこそばゆくなり、イスに座り直してみた。
実際のところ、ビヨンドは儚い美しさを持つリリスに、一目惚れしたのだ。
今は、そんなことにうつつを抜かしてなどいられないのだと、何度も自分に言い聞かせた。
しかし、無駄だった。
その姿を、勝手に目が追う。
その仕草に、面白いくらい心が一喜一憂する。
その眼差しが浮かび、小一時間、ぼんやりと自失してしまう。
それは、恋でございます。
うらぶれた家に忠心を捧げる執事ドメスが、ビヨンドにずばりと言って聞かせた。
ビヨンドは、ドメスの言葉に頷いた。なるほど、これか。
納得した後のビヨンドの行動は、早かった。
何もかも1番であれば、問題は生じない。
ビヨンドは、さすがの行動力でリリスを口説き落とした。
正直、リリスに対しては、誰もが遠慮していた。
負担をかけてはいけないという暗黙の了解があり、双子の姉たちが壁になって、リリスに近づく者たちを退けてきた。
リリス自身も、誰に対しても同じように接し、他者に一線を引いていた。
ビヨンドは、すべてを遠慮なく打ち壊した。
時間がもったいない、という発想だった。
リリスは最初の戸惑いを超えると、みるみるビヨンドに惹きつけられた。
ビヨンドときたら、美形、成績が抜群にいい、スポーツ万能、好意を持ってくれている、そんな存在なのだ。
リリスは、ビヨンドをあっという間に好きになり、二人は両想いとなった。
ビヨンドには、鼻持ちならない傲慢な部分もあったのだが、控え目なリリスには、その強気も魅力的だと思えた。
ビヨンドと付き合うようになると、リリスの体調は不思議なくらい安定し始めた。
頬に赤みが差し、表情も明るくなった。授業への出席率も上がり、遠出する行事にも参加できるようになった。
双子の姉たちは、図々しいビヨンドを嫌っていたが、リリスの良い変化を見るにつけ、何も言えなくなってしまった。
中学を卒業する頃。
あんたはむかつくけど、リリスを幸せにしてくれたから感謝してる。
双子の姉たちは、ビヨンドにそう告げたのだった。
「俺とリリスは中学から付き合い始めた。たまにミカエルも会うだろう、沢の下の双子のおばさんたち。あの人たちも同じ中学だった」
「へえ。全然、知らなかった」
ビヨンドとリリスは、学力に大きな開きがあった。
そのため、進路は別々になった。
高校時代、ビヨンドの家の財産は全盛期の3分の1にまで落ち込んでいた。
ビヨンドは、父親の腹違いの弟である叔父を頼った。
「高校はリリスとは別のところへ進んだ。当時、家が傾いて、待ったなしの状況だった。唯一、事業で成功している叔父を頼り、親父を引退させて、俺が財も事業も取り仕切ることができるよう動き始めた」
ビヨンドの叔父は、ビヨンドの祖父に似て、優れた事業家だった。ビヨンドは、実の父親よりも、この叔父に顔も気質もよく似ていた。叔父もビヨンドを買っていた。
アルコールの問題を取り扱う病院に父親を入院させ、一筆書かせて、あらゆる実権をビヨンドが握った。叔父が後見人となり、ビヨンドにあらゆる知恵を授けた。
「高校生でありつつ、事業家であった俺は、寝る間も惜しんで学び、働いた。正直、高校は辞めてもよかったが、叔父が卒業しておけと言うから両立せざるを得なかった。そんな毎日で、リリスと会う時間などなかった」
リリスとは、別れるとも言っていなければ、特に将来の約束もしてはいなかった。
進路が分かれるままに離れ、それっきりになっていた。
高校を卒業する時、叔父が言った。
結婚はどうする。結婚は、一つのチャンスだ。相手を選べば、大きな利益となる。
結婚という言葉が出てきた時、ビヨンドの頭に浮かんだのは、リリスのことだった。
叔父の教育を受けたビヨンドは、迷いなく興信所を使った。
「高校時代、連絡をまったくとっていなかったリリスが、今どうしているのか。それ以上に、リリスの家柄、財産の状況などについても知る必要があったから、調べた。そこで初めて、リリスの家のことが分かった」
名を失いかけている沢の下。
その家のお荷物として、家族に厳しく接せられているリリス。
高校時代、再び体調を崩し、かろうじて卒業はできるが、特に進路は決まっていないという現在のリリスの状況。
「利害で考えるなら、リリスとの結婚は、大した利にはならないことが明白だった」
調査結果を何度も読み直した。
ビヨンドの心を占めるのは、冷静な損得勘定ではなかった。
それでも、手に入れずにはいられない。
「俺も若かった。放っておけなかったのだ」
ビヨンドは、叔父の反対を押し切り、リリスに結婚を申し入れた。
沢の下は、お荷物を引き受けようというビヨンドを歓迎した。
双子の姉たちは、3年もリリスを放置したビヨンドを責めた。
リリスは、感極まって泣き崩れた。
そうして、二人は結婚した。
「そういうことだ。分かったか」
ビヨンドは、話し終えてホッとしたように、わざとらしく高飛車に言い放った。
ミカエルは、静かに目を閉じた。
「聞いてよかった」
「そうか」
ミカエルは目を開き、しみじみと言った。
「愛し合っていたんだね」
ビヨンドは絶句した。
衝撃のあまり、やや体がのけ反った。
ビヨンドの反応に気づき、ミカエルは小さく笑って言い添えた。
「今どきは、こういうもんなんだよ」
ミカエルは手を上げて、店員に合図をした。
コーヒーのお代わりを、二人分注文した。
「俺は頼んでないが」
「まだ、話があるから」
「まだあるのか」
「こういうのもタイミングでしょ。今を逃すと、きっとまた聞きにくくなる」
「何だ」
店員が注文を手に、店の中に入るのを見送ると、ミカエルは真剣な顔で尋ねた。
「マルタさんとの馴れ初めは?」
ビヨンドは、嫌そうに顔を歪めた。
「それを聞くのはルール違反だろう」
「僕の知らない昔のルールだ」
ビヨンドは唸った。
愛人の話を、父親が息子に話す。これは今どき普通なのか。
「フロウ、僕の可愛い妹の、お母さんの話だ。僕には知る権利がある」
ミカエルはビヨンドに迫った。
迷っている今を逃しては、二度とビヨンドは口を割らないと感じたのだ。
おかわりのコーヒーが届いた。
店員が立ち去ると、ビヨンドはコーヒーを口に運んだ。
一口飲んでカップを置くと、ビヨンドはパラソルの奥の青空を見上げながら、ため息をついた。
ビヨンドは話す気になっている、とミカエルは踏んだ。
ビヨンドをジロジロ見過ぎないように目を逸らし、待った。
ビヨンドとリリスは結婚した。
ビヨンドは、家を立て直すために、東奔西走する日々だった。
二人の生活はすれ違った。
家を取り仕切った経験のないリリスは、一人屋敷に置かれ、戸惑うことが多かった。
執事のドメスと侍女頭のハンナを除き、家の使用人は次々と入れ替わった。
主人であるビヨンドが忙殺されているのだから、家内のことは何とかしたいと思うリリスであったが、手も足も出なかった。
ビヨンドは、ただひたすら仕事に打ち込んでいた。
リリスを振り返らないその様子が、実家の父親と重なった。リリスは、自分の不出来を責められているように感じた。
それが余計なストレスとなった。
リリスはふさぎ込むことが増え、体も弱っていった。
以前は、ビヨンドを見ると明るく笑い、元気百倍といった様子のリリスであった。
それが、結婚してからは、ビヨンドの顔を見ても、泣いて謝るようなことが多くなってきた。
忙しいビヨンドは、ほとほと困り果てた。
「結婚後、俺は仕事に明け暮れ、リリスに家を任せきりにした。ドメスとハンナは頑張ってくれていたが、安い給料でやる気のない他の使用人たちは、とにかく扱いづらい存在だった。屋敷の広さの分、最低限の使用人は必要だったのだが、リリスには重荷だったのだろう。日に日に疲れ果てていった」
「分かってたんだ」
「忙しかったが薄々は。いや。分かってはいたが、大人なのだから、自分でどうにかしろという思いもあった」
そんなときに、ビヨンドはマルタに出会ったのだ。
仕事の接待で利用した高級パブのステージで、マルタは歌っていた。
マルタは、あでやかでタフだった。
美しく生命力溢れるマルタに、ビヨンドは魅せられた。
マルタもビヨンドを愛するようになった。
奔放なマルタは、不実な関係であることを、意に介さなかった。
面倒を言わないマルタは、ビヨンドの都合にも合っていた。
「リリスとすれ違っている時期に、仕事関係で寄った店にマルタがいた。何でも一人でできて、生きることに男を頼らない。強い女だ。あれだ。要は、逆だ。リリスとは」
ビヨンドは、歯切れ悪く言った。
ミカエルも聞いておきながら、やはり気分が悪かった。
父親を責める言葉を飲み込んで、続きを待った。
マルタの愛は、ビヨンドにとって、救いだった。
ビヨンドに何も背負わせず、求めてこない。
時に情熱的で、時に温かく穏やかな時間を過ごした。
大きな海に包まれるような安心感があった。
早くに母親を亡くしていたビヨンドは、そこに母性を感じとった。
ビヨンドはマルタに、好き勝手に甘えていたのである。
「まあ、そういう逆なところがよくて、付き合った訳だ」
リリスへの罪悪感もあった。
そのせいで、リリスに優しくできる部分もあった。
「男の身勝手だが、別にリリスを嫌いになったわけではない」
ビヨンドが優しくすると、リリスは本来の可憐な可愛らしさで応えた。
それはそれで、ビヨンドには愛おしく思えたのだ。
「そして、ミカエルが生まれた」
ミカエルは、話の中に自分が登場してドキッとした。
「難産だった。リリスの体調もよくないし、お前もいる。それで一度、マルタとは別れた」
マルタとの別れはあっさりとしたものだった。
事情を話すと、マルタはすぐに理解を示した。
最後に一度、とねだられて夜を共にした。
こんなにおいしい話があるのか、というくらいの、ビヨンドにとっては理想的な別れだった。
まさか、子を宿したとは、想像もしていなかった。
マルタが働いていた店には、顔を出しにくくなり、足が遠のいた。
数年後、ほとぼりも冷めた頃、久しぶりに店を訪れたビヨンドは、変わらず魅力的なマルタと再会した。
「数年後、久しぶりに寄った店にマルタがいた。何も変わらなかった。それで、まあ、またそういうことになった」
マルタはビヨンドに、フロウの存在を微塵も感じとらせなかった。
ビヨンドは何も知らずに、マルタと付き合い続けた。
やがて、マルタの存在は、リリスの知るところとなり、夫婦の火種となった。
そして、リリスによって、フロウの存在が暴かれたのだった。
「リリスが調べたことでフロウの存在が明らかになった。マルタになぜ隠していたのかと聞いたが、ついに答えてはくれなかった。フロウは渡さないと言われ、マルタと今度こそ本当に別れることになった。俺よりはフロウの方が大事らしい」
もういいだろう、とビヨンドは背伸びをした。
この話は終わりという合図だと、ミカエルは察した。
ミカエルは、深いため息をついた。
ビヨンドが舌打ちをした。
「ため息をつきたいのはこっちだ。変な話をさせやがって」
「言葉遣いが悪い」
「うるさい。やっぱり、今どきだとしても、おかしいだろう。こんな話。お前は変わっている」
「変わっているなんて言われたことない。あ、間違えた。1回だけあった」
「1回?皆、遠慮しているだけだ。お前は我が息子ながら、変わり者だ」
ビヨンドは、ヤケを起こしたように、残りのコーヒーを飲み干した。
「昼は終わりだ。さっさと次の取引先に行くぞ」
立ち上がるビヨンドに、ミカエルは従った。
よく晴れた日だった。
ミカエルは積年の疑問が解かれ、何とも言えないフワフワとした感覚の中にいた。
ビヨンドとリリスの若い頃の話を聞き、その二人の時間の中にある自分の存在を再確認した。
悪い感触ではなかった。
ミカエルは気分がよかった。
誰かと話したかった。
フロウ。
誰よりも、この話題で話したいのはフロウだった。
ミカエルは、自分は我慢強い方だと思っていたが、最近、自信がなくなってきていた。
会いにいってしまおうか。
父ビヨンドの背を見ながら、ミカエルはぼんやりとそう思っていた。




