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8年後の物語

 ニア国、大都市トウトのミドリ地区にある裏通りの古書店には、途切れることなく客が訪れていた。

 店構えは古びているし、扱う品も魔術書と回復薬と白魔術、決して毎日の必需品ではない。本来、賑わう要素はないはずなのだが、ここ数年は特に、客足が伸びていた。


 それは、店頭に立つ二人に起因していた。

 店主ハシマとその弟子フロウに、人々は惹き付けられたのだった。





 店主ハシマはある時から、人々に与える印象をガラリと変えた。

 それまでは、どちらかというと、凡庸で目立たない空気を醸し出していた。

 ところがある日を境に、つかみどころのない雰囲気をまとい始めた。すると不思議なことに、ハシマの整った全身の造作が際立つようになってきた。

 むしろ、よくぞ今まで隠しおおせたものだとも言える。

 ハシマは、陽光のもとにその本性をさらした。

 にじみ出る憂いと毒気が、妖しい色気となった。

 それにまつわるエピソードは、枚挙にいとまがない。


 例えば、こんな逸話がある。

 美しく育ったフロウに、ある男が惚れた。

 老人福祉に携わる真面目な男だった。

 思いつめたあまり、フロウを飛び越え、師匠であり養父であるハシマへと直談判しに行った。

 フロウと結婚したい。そう申し出た男と、ハシマは小一時間、茶飲み話をした。

 古書店を立ち去る時、男はすでにフロウへの思いを忘れていた。忘れたというより、それ以上の思いにとり憑かれていた。

 男は、すっかりハシマの虜になっていた。

 あの人は悪魔だ。目が合うと魂を奪われる。

 その男が言ったという言葉が、まことしやかに巷に流布した。




 嘘か真か計り知れない噂ばかりだが、あり得ると信じさせるほど多くの人々がハシマに魅入られた。

 実にたちが悪いことに、ハシマは物腰柔らかく、誰も彼もを中途半端に受け入れた。




「信者を無駄に増やして、悪趣味だよ、ハシマさん」


 開店当時からの常連客、軍服を着たシュガは、ある時、ハシマに直接警句を発した。


「シュガさんの言うことは、いつも耳が痛い。でも、ありがとうございます」


 ハシマはシュガに苦笑いを返した。

 シュガは、彫りの深い顔を歪めた。


「それ。その目線。わざとなの?やめてよ、心臓に悪い」

「半分わざとです。そろそろ、シュガさんも落としておこうと思って」


 ハシマは冗談めかしているが、シュガは本当にぞっとした。

 瞬殺される自信があった。

 数少ないまっとうな客であるシュガは、そうあり続けるために、警告を続けた。


「お譲ちゃんと暮らすようになって、ちょっと頭がおかしくなってるよハシマさん。いい加減にしないと、お譲ちゃんに嫌われちゃうよ」

「違うんです。本当に嫌われるようなことを間違ってもしないために、ガス抜きをしてるんですよ」


 ハシマはシュガに対し、フロウを特別視していることを隠しはしなかった。

 シュガの腕の怪我に、慣れた手つきで治療を施しながら、ハシマは続けた。


「シュガさんは僕のことをよく分かってくれています。そして、強靭な肉体と精神力を兼ね備えている女性です」

「ああ、まあ」


 いきなり何の話かと、シュガは首をかしげた。

 ハシマは小さく呪文を唱えてから、シュガを見た。


「抱くなら、シュガさんだと思ってまして」

「は?」


 不可解すぎて歪んだ顔が戻らないシュガに、ハシマはけろりとした顔で言った。


「僕が多少のことをしても、シュガさんなら耐えきるでしょう。最近、ガス抜きにも限界が来ていまして。何とかするなら、シュガさんかなと思っていたところなんです」

「うわー」

「そんな嫌な顔しなくても」

「ちょっと興味あるけど、やめとくよ」

「なんだ。興味あるんじゃないですか」


 薄緑がにじむ薄茶色の瞳が、緩やかにシュガに迫った。

 シュガの軍人としての防衛本能が働いた。

 シュガは、すくっとイスから立ち上がった。


「包帯は自分でするから。また来る。ハシマさん、もう少しどうにかしなよ」

「さすが。逃げられましたか。でも、もし気が向いたら、いつでも声をかけてください」

「ハシマさーん、やめてよ」

「ごめんなさい。シュガさんには甘えていますね」


 ハシマは楽しげに笑った。

 シュガの女心に直接響く、鮮やかな笑みだった。


 シュガは、たぐい稀なる危機管理能力を証明した。

 興味本位で試したら最後、身も心も切り裂かれるに違いない。

 そんな確信のもと、シュガはやまないときめきとともに、古書店を逃げるように去ったのだった。



 とにかく、ハシマはある時からそんなふうに、悪魔的な自分をあまり隠さなくなった。

 よく分かっていないのは、ハシマとともに暮らすフロウくらいのものであった。






 その、古書店に人を呼び込むもう一人、ハシマの弟子フロウは、まことに美しく成長していた。

 フロウは、16歳か17歳か18歳か、そのくらいの年になっていた。母マルタの記憶がどうもいい加減なため、フロウにまつわるいくつかの重要なことが、そんな調子で曖昧だった。ハシマが一応、フロウの年齢を仮決めしたのだが、それによると、フロウは17歳であった。


 抜けるような白肌、栗色の柔らかな髪、つぶらな瞳、伸びやかな手足。フロウは数年前から、外見だけでも多くの男を惹きつけるようになっていった。

 ハシマの下で、きっちりと勉強し、規則正しく生活してきたフロウは、健康的な育ちのよさも感じさせた。店頭に立つと、すぐに照れてしまう様子は初々しくもあり、年配の客にも好印象を与えていた。

 また、時に、不安そうな陰りを表情に宿すことがあった。

 そんな時のフロウは、どこか遠くに思いを馳せて、今いるここから消えてしまうような頼りない存在感を示した。

 その定まらないフワフワと漂う風情が、何とも言えない魅力となっていた。


 愛の告白、プロポーズ、縁談。それらが、ひっきりなしにフロウに寄せられるようになった。

 動揺したフロウがひたすら謝って終わるか、ハシマが排除して終わるか、結果は概ね、そのどちらかであった。




 そんな師弟を、妄想たくましい、あるいはゴシップ大好きな人々は、放っておかなかった。

 ハシマとフロウが並んで店先にいようものなら、危うい雰囲気を勝手に感じ取って、噂は尽きなかった。

 どこまでいってるんだろう、あの二人。

 もはや見世物的要素も加わっているが、ハシマは分かっていて放置していた。

 フロウは勿論、状況を分かっておらず、噂の種になるような言動を時折してしまうのだった。


 そんなこんなで、ミドリ地区では二人は大いに浮いていたが、店は繁盛していた。










 フロウは、古書店でハシマとともに暮らすようになってから、それまで以上に一生懸命勉強した。

 薬師として、しっかりと生きていけるようになるのだ、という強い気持ちがあった。

 それまで独学で行っていた家事についても、ハシマは教えてくれた。

 何でも自分の力でできるようになりたいフロウに、ハシマは惜しみなく知恵と技能を与えてくれたのだった。


 平穏な日々であったが、ふと胸に去来する思いがあった。

 思いにも満たないかもしれない。

 何かが足りないような感覚だった。

 その感覚が訪れると、足元から浮き上がるような、心もとない気持ちにさせられた。

 そんな時は、太陽を意識すると、大地につなぎとめられるような心地がした。


 また、ごく稀に、何がきっかけになるのか、フロウは強い不安に襲われることがあった。

 そうなると、いてもたってもいられなくなった。

 年に1度、あるかないかといったことだが、そんな時はハシマを求めた。

 ハシマに抱きしめられ、髪をなでられると、不思議なくらい安心した。

 不安がスーッと抜けていき、何をどう感じていたのかさえ忘れた。


 不安というのとは別に、フロウは月を見ると、いつでも胸騒ぎがした。

 胸がぎゅっと苦しくなり、とても喉が渇いた。

 落ち着かないので、フロウはあまり月を見上げないようにしていた。

 しかし、見るのをやめることまではできなかった。

 盗み見るように月を見ていることを、なぜか、ハシマには言ってはならない気がしていた。

 フロウの小さな秘密だった。

 

 何にせよ、フロウの生きる世界は小さい頃から変わらず、ミドリ地区のこの狭い一角だけだった。

 遠くに知らない世界は見えるが、フロウの道はどこにもつながってはいなかった。

 薬の世界は奥深く、学ぶことはつきなかった。

 店の客も多いので、忙しい。

 フロウは、それでいいと思っていた。








 そんなフロウに激震が走るのは、この後もうすぐのこと。

 

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