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覚醒1

 ミドリ地区にある裏通りの古書店で、ハシマは眠れない夜を過ごしていた。

 ベッドには入ったものの、どうにも胸騒ぎがおさまらなかった。真夜中に感じた大きな魔術の気配について、気になって仕方がなかった。


 未明の早朝、胸騒ぎに耐え兼ねたハシマは、ベッドを出て、店舗につながる小部屋へと足を向けた。

 左手を掲げると、ブレスレットに反応し、部屋の明かりがついた。

 せき立てられるように、ハシマは手鏡を取り上げ、術を施した。



 手鏡が映し出すフロウの姿を見たとき、ハシマの全身から血の気が引いた。体中が一挙に冷たくなった。そして、耳の奥に心臓があるかのように、ドクドクと大きな音を立てた。


 ハシマは手鏡を投げ捨て、何も持たずに駆け出した。





 どこをどう走ったのか、記憶にはない。

 気がつくとハシマは、フロウの住むアパートメントのドアの前にいた。

 息は切れていたが、解錠の呪文がスルスルと口からこぼれ出た。

 ハシマは、あっという間に入り口ドアを抜け、探知の魔術をたぐり、フロウの部屋へと入り込んだ。




 ベッドの上に、瀕死のフロウがいた。




 全力疾走の後にもかかわらず、ハシマの心身は恐怖で凍りついた。

 フロウの魂は擦り切れて色をなくしていた。元の場に戻る力もなく、わずかなつながりにすがるように肉体からずれて揺らぎ、漂っていた。

 ハシマは己の正気を取り戻そうと、首を振った。

 汗を含んだ薄茶色の髪の毛が、ハシマの頬に一筋、張り付いた。

 フロウに近づき、その頬に触れた。

 ハシマと同じか、それ以上に冷たかった。

 フロウの呼吸は弱かった。




 ハシマは一度、目を閉じた。

 3回、深く呼吸をした。

 ハシマは、目を開けた。

 その薄緑がにじむ薄茶色の瞳には、これまでにない鋭さが宿っていた。




 ハシマは、右手で空に紋様を描き、呪文を唱えた。

 ハシマのブレスレットが光り、紋様はフロウを取り巻いた。

 ハシマはすばやく、フロウをタオルケットで包み込んだ。

 そのままフロウを抱きかかえ、足早にその場を立ち去った。



 いまだ明けやらぬ道は仄暗く、町は寝静まっていた。

 ハシマの服装は、ゆったりとした白いTシャツに、紺のイージーパンツという室内着であった。近所を歩く分には見られても差し支えのない範囲でもあったろうが、出歩く人はいなかった。

 フロウには、状態保存と目くらましの魔術をかけていた。

 二人は誰の目にもとまらないまま、裏通りの古書店へと到着した。




 細身に見えるハシマだが、意識のないフロウを片腕で抱いたまま、スイスイと作業をした。

 古書店には臨時休業の札がかかった。


 裏手に回り、居住スペースにつながる玄関ドアから中に入った。

 誰にも邪魔されないよう、ハシマは呪文を唱え、古書店全体を封印した。



 寝室へ向かい、ハシマが先ほどまで横になっていたベッドにフロウを下ろした。

 フロウの額にかかる髪を払うようにひと撫でし、ハシマは急ぎ、店舗につながる小部屋へと向かった。


 小部屋の隅に置かれた藤かごに、ハシマは棚から取り出した小瓶をどんどん投げ込んでいった。

 小瓶の中には、植物の種や葉、液体なども入っていた。

 藤かごから落ちそうなほど、小瓶が山盛りとなった。

 ハシマはそれを持って、寝室へと急いだ。




 ハシマは寝室に着くと、藤かごを置いて、フロウをくるんでいたタオルケットを取り去った。

 そしてハシマは、水色のパジャマを着てベッドに横たわるフロウを見た。



 出会った頃より、ずっと背が伸びていた。

 顔の輪郭も、体つきも、随分変化していることに、ハシマは今更のように気がついた。

 いつの間にか、小さな女の子は、可憐な少女に変わっていた。



 その成長を改めて目の当たりにしたハシマは、不可思議な感動にとらわれた。

 同時に、引き絞られるような胸苦しさをおぼえた。





 死なせない。

 失ってたまるか。





 深夜の不吉な予兆を放置し、今に至ってしまった。

 そんな自分を呪いながらも、ハシマの中に鋭く閃く気持ちがあった。





 これは、僕の娘。



 


 体の深奥に火が点った。

 それはすみやかに燃え上がった。

 何もかも焼き尽くすような紅蓮の炎だった。


 恐ろしいほど冴えわたる頭の中で、さまざまな記憶が整然と立ち上がってきた。

 ハシマはベッドサイドのテーブルにあるペンを取り、猛烈な速さでメモ帳に何かを書き始めた。

 それは、緻密な術式であり、これからの施術の工程であった。

 常夜灯の橙色の光は、ものを書くには不十分なはずなのだが、ハシマにはまるで気にならなかった。

 すべての知覚が異様に開かれていた。

 そうして、紙に書きつける音だけが、しばらく続いた。


 やがて、ペンが止まった。

 びっしりと書き込まれた5枚のメモ用紙を、ハシマの目が最初から追い直した。

 最後まで読み通すと、それをテーブルに置いた。

 それから、小瓶が山盛りに入っている藤かごを持ってきて、自分の足元に置いた。

 小瓶の中身は、植物や植物に手を加えた加工品であり、すべて魔術の補助媒介だった。

 準備は整った。






 こうして、ハシマの24年の人生における蓄積、そのすべてをかけた魔術が始まった。






 ハシマがフッと息を吹きかけると、フロウにかかっていた状態保存と目くらましの魔術が解けた。

 流れるような動きで、ハシマは次々と小瓶を開けた。

 小瓶に入った葉や緑色の液体は、ハシマの手の中で緑色の光に変わった。

 ハシマの口からこぼれる呪文に応えるように、緑色の光がフロウを包んでいった。


 途切れることなく詠唱は続いた。

 空になった小瓶が続々と寝室の床に転がり、数を増やしていった。


 実に緻密で、計算通りの詠唱だった。

 ハシマの額からあごにかけて、汗が伝い落ちた。


 遮光カーテンの隙間から、光がこぼれ、朝日が昇ったことを知らせた。

 ハシマには見えていなかった。

 ハシマの視界にあるのは、フロウの姿だけであった。


 周囲の音も何も聞こえなかった。

 時計が回り、店舗の飴色のガラスの引き戸前に常連客シュガが訪れた。

 あれ?おーい、ハシマさん、いないの、と呼びかける声がかかった。腹から発声するいい声であったが、ハシマの耳には届かなかった。







 ハシマの驚異的な集中力は、飲まず食わずで一昼夜続いた。

 小瓶はすべて空になった。

 ハシマの背中は汗で濡れ、シャツが肌に張り付いた。

 ハシマは己を省みることなく、フロウを助けることにすべてを注ぎ込んだ。




 深夜、安定した呼吸を繰り返すフロウがいた。

 命の危機は去った。

 ハシマは息を荒くしながら、さすがに膝をついた。

 フロウの眠るベッドに、横から顔を伏せた。


 しばらくして息が整うと、ハシマは額の汗をぬぐいながら顔を上げた。

 ベッドサイドのテーブルから、5枚の紙を取り上げ、破り捨てた。

 ハシマはフロウを見た。

 フロウは、無表情に一定の呼吸を繰り返していた。


 ハシマは、フロウの額に左手を乗せた。

 呪文を唱えると、左手のブレスレットが光った。

 ハシマは目を閉じて再び集中し、フロウの状態を探索し始めた。




 フロウの魂は回復し、肉体に定着していた。

 しかし、瀕死に至る経緯がよほどの恐怖体験であったのだろう。フロウの魂は委縮し、内側に引きこもっていた。

 このままでは意識は戻らない。しかし、無理強いをすれば大混乱に陥り、フロウ自身を壊してしまうかもしれない。


 また、ハシマは探索の中、今まで気づかなかったフロウの秘密を知った。

 その気になれば、もっと早くから分かっていたようなことだが、何しろハシマは、フロウも含めた他者に入り込みすぎないよう、いつも気を遣っていた。

 知っておけばよかったとハシマは後悔した。


 フロウには白魔術の素質がある。

 しかも、白魔術を使ってもいる。

 どうやら、そのことが魂の摩耗にも影響を及ぼしたようだ。






 ハシマは探索を打ち切り、目を開けた。

 それから、人差し指を曲げて、あごに添えた。


 フロウをこちらに呼び戻す方法を、思い浮かべていた。

 確かに、そのやり方なら、フロウを助け出せるかもしれない。

 人の内側に入り込む危険な手法である。

 それは公には、いわゆる禁呪とされる魔術であった。


 ハシマは、王立魔術学院で心身の神秘を探り続けた日々に、初めて感謝した。

 禁呪であるその術式を知ることになったのは、無軌道な学院生活のおかげだった。






 卒業を控えた当時、ハシマは、泥沼の恋愛劇の最中にあった。


 別れようとするハシマに対し、納得しない相手が、一服盛った上で件の禁呪を仕掛けてきた。

 相手は、隠された禁呪を探し出し、実際に使えてしまうほど優れた実力者だった。

 ハシマに入り込み、ハシマを絡めとろうとする相手の情感に圧倒され、不覚にも一度は飲み込まれそうになった。

 相手も必死だった。

 ハシマは、それでも一瞬の隙を見逃しはしなかった。術を読み取り、仕返してやった。

 相手の中に入り込み、ねじ伏せ、ハシマにまつわる記憶を閉じ込めた。


 相手は、ハシマへの恋情を忘れた。



 ハシマは味をしめた。

 別の数人に対して、今度は自分が禁呪を仕掛け、同じことを繰り返した。



 魂がぶつかり合う内側の世界は、ドロドロと息苦しかったり、また鮮明で激烈であったり、凄まじく疲弊する場であった。

 しかし、ハシマはやりきった。

 通常、あり得ないほどの成果だった。

 ハシマは、そもそもある種の天才だった。

 ただ、何かを目指す覇気はないタイプだった。

 ちなみに、記憶を封じたうちの一人は、学院を首席で卒業している。


 何にせよ、誰も死にもせず廃人にもならずに済んだのは、やはり幸運だったと言えるのだろう。


 とにかく、ハシマはそうして、人の感情というものに疲れきったのだった。





 驚くことに、そんな経験が役に立つ時がやってきた。

 ハシマは笑った。


 封じたのは、他者の記憶だけではない。

 魔術で閉じたわけではないが、自分自身の面倒な感情にも、別れを告げてきたのだ。

 自分に向けられる他者の感情ではない。真に煩わしかったのは、己の感情だった。




 戻って来てしまう。

 理性で制御不可能な、あの激しさが。




 ハシマは笑わずにいられなかった。

 精神的引きこもりをやめたのは、ごく最近のことだ。

 そうしたら、逃がれてきたはずの自分自身が、あっという間に追いついてきた。


 陰険で、根暗で、強欲で、気分屋で、支配的で、背徳的で。

 実に魔術師らしい。


 ハシマは、ベッドに横たわるフロウを見た。

 ハシマの内側には、もはや無視できない炎が燃えていた。





 どこにもやらない。





 強烈で痛いくらいの思いだった。

 思いの炎がハシマを突き動かした。

 疲労は微塵も感じなかった。







 ハシマは左手のブレスレットを外した。

 そして、両手でそれを砕いた。

 破片がハシマの手のひらを切り、血があふれ出した。


 ハシマは禁呪を唱え始めた。

 ブレスレットの破片は、ハシマの血を吸い赤く染まった。

 そしてそのまま赤い光となった。


 ハシマはその光を飲み込んだ。


 ハシマはフロウと片手をつなぎ、額と額を合わせた。

 ハシマの中にあった赤い光は、ハシマの中を一巡りし、一度動きを止めた。

 やがて、矢のような速さで額から額へと流れて行った。


 ハシマの体から力が抜け落ちた。

 こうしてハシマの魂は、フロウの中へと入って行ったのだった。

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