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メルト

 真夜中の古書店で、ハシマは、魔術書をめくる手を止めた。

 どこか遠くで、大きな力が動いたように感じた。


 しかし、それは、かすかな気配だった。

 あまりにもささやかで、到底とらえきれなかった。


 ふと、棚に置かれた手鏡に目を移した。 

 一瞬、手を伸ばしかけ、考えた。


 確信のない、虫の知らせのような悪い予感。

 これもまた、あまりにも不確かな感触だった。ハシマを突き動かすには、幾分足りなかった。


 真夜中に、女の子の寝室をのぞくようなまねは、さすがによろしくない。


 いつか、客のシュガに、ロリコンっぽいと言われたことが、思ったよりもこたえていたらしい。


 フロウに施した魔術は、あくまでも迷子札なのだ。

 万一の事件事故に備えたものであり、危機的な状況においてのみ、活用されるべきものなのだ。

 軽々しく、無防備な姿をのぞき見したり、監視したりするなどということは、あってはならない。


 ハシマは、コホンと咳払いをし、呼吸を整えた。そして、手元の魔術書に目を向け直した。




 実を言うと、フロウは究極の緊急事態の中にあったわけなのだが。

 ハシマは、己の直感の精度を見積り損ねた。それは、平和なミドリ地区での、枯れた生活が長かった影響といえる。


 この時点のハシマには、知るよしもなかった。














 乳色の空間では、次の変化が起ころうとしていた。


 風に吹かれたように、シェイドの黒髪が揺れた。


 フロウは、シェイドから生じて渦巻いている、黒く透き通った輝きを見つめていた。

 そこで、ふと、フロウはあることに気がついた。

 慌てて、右の人差し指で空中に小さな紋様を描き始めた。


 シェイドは、内側の力が命じるままに、ミカエルに正対した。

 ミカエルは、唇を引き結び、拳に力を入れてシェイドを見た。


 シェイドが、数歩ぶん離れた先にいるミカエルに、右手を伸ばした。

 右手にまとう黒く透き通った輝きが、ミカエルを目指して動き始めた。





 その時、フロウが、左の手のひらに乗せた紋様を、シェイドに向けて、フウッと吹いた。

 緑色の光が飛び、シェイドの傷ついた両手首にとりついた。


 集中が途切れて、シェイドはまばたきをした。

 シェイドの黒い輝きも、シェイドとともに、戸惑うように動きを止めた。

 みるみる、シェイドの手首が修復された。


 シェイドはフロウを振り返った。

 フロウは両手を合わせ、変なタイミングでごめんなさい、という意味を込めて、気まずい顔で謝った。


 シェイドは、なるほど、大人になっても、フロウはフロウなのだ、と妙に納得した。

 フッと唇に浮かぶだけの小さな笑みを返し、シェイドはミカエルに向き直った。


 フロウは、シェイドの小さな微笑みに、驚くほどときめいていた。

 なんて恐ろしい威力。

 相手は子ども、と繰り返し唱えながらも、フロウは動揺を隠しきれず、両手で火照る顔をあおいだ。





 ミカエルは、少し緩んだ顔を引き締め直した。


 シェイドから伸びてきた黒い輝きは、しゅるりとミカエルを取り巻いた。

 それは次第に数を増し、幾筋もの輝きが重なり合い、ミカエルを覆い隠した。


 ミカエルは、輝きに渦巻かれ、徐々に自分が失われていくのを感じた。

 渦巻く輝きに自分が溶けていく。

 あるいは、吸い出された外側から、残りの自分を見ている。

 名状し難い初めての感覚だが、恐怖も不快もなかった。





 補助媒介の小山が、全体的に大きく振動し始めた。

 すべての石が、震えながら輝き出した。

 振動も輝きも、徐々に激しさを増した。

 そして、石たちは光となり、はじけた。





 シェイドは、自分や大切な仲間たちに恐怖を与えた、四ツ辻の肉屋への激しい怒りを感じていた。


 シェイドは、子どもの無力をいいことに、自分の欲で巻き込み、振り回してくる理不尽に怒っていた。

 好きなようにいたぶり、痛めつけ、そして、一人の個として自分たちを見ようともしない不条理に怒っていた。


 そうして、四ツ辻の肉屋を打ち倒さねばならぬという、すさまじい闘志が燃え上がった。


 黒き力が伝えてくる。

 お前は、それをする力を持っているだろう、と。





 ミカエルのすべてをすくい取った黒い輝きは、補助媒介の光のすべてを引き寄せ、シェイドへ戻ってきた。


 シェイドは激しい光の渦に巻かれた。

 フロウはまぶしくて両手で目を覆った。




 そこから先は、シェイドにとって、あまり穏やかな体験とは言えなかった。

 メキメキと全身の骨が軋み、砕けるような。

 メリメリと肉が歪み、すりつぶされるような。

 そんな、とんでもない体感、痛み、熱さ、冷たさ、もう何であるのか定かではない苦痛が、次々に襲いかかってきた。


 シェイドは翻弄され、飲み込まれ、訳が分からなくなり、いつの間にか意識を手放したのだった。










 まばゆい光が途絶えた。

 フロウは、恐る恐る、両手を下ろし目を開けた。






 一人の男がいた。






 男は、目を閉じて彫像のように立っていた。

 白いシャツ、黒いズボン、黒いブーツというシンプルな出で立ちをしていた。

 一見、細身でありながら、首も肩のラインも胸元も手足も硬質な線を描き、鋼のような筋肉を感じさせた。


 フロウは立ち尽くして、男を見ていた。




 男の意識が、緩やかに浮上してきた。

 ここはどこで、自分は誰で、一体何をしているのか。

 男の意識は、まだ混沌としていた。




 額と耳と首元にかかる黒髪が揺れた。

 ゆっくりと男の目が開いた。


 男の黒い瞳は、視点が定まらずにさまよった。

 そして、自分を見つめる女の視線に吸い寄せられた。

 目が焦点を結び、男は美しい女を見た。




 フロウは黒曜石の瞳を向けられ、たじろいだ。

 何についてか、勝てない、と思った。

 切れ長の目も、通った鼻筋も、形のいい唇も、恥ずかしくて見ていられず、目をそらした。





「フロウ」


 低く落ち着いた声に呼ばれ、フロウの胸が震えた。

 それは、既知の感覚によく似てはいるが、初めての情感でもあった。

 男が一歩一歩近づくのを感じるほど、その得も言われぬ情感が胸に迫ってきた。





 男の意識はまだ茫漠としていたが、目の前のフロウのことはすぐに認識した。


 歩み寄った男は立ち止まり、フロウを見下ろした。

 フロウはうつむいていたので、つむじしか見えなかった。

 フロウの顔が見たかった。


「フロウ」


 名を呼ぶと、栗色の艶やかな髪が揺れ、少しずつ顔が上向いてきた。





 フロウがおずおずと見上げた先には、柔らかな笑みを含む男がいた。

 フロウはそこに、ミカエルの波長を感じとった。


「シェイド?」

「ああ」


 尋ねるように呼ぶと、男はすぐに返事をした。


「ミカエル?」

「ああ」


 もう一度、別の名を呼んでも、男は迷わず返事をした。


「シェイドとミカエルなの?」

「そうだ。どちらも俺だ」


 男は自分自身、確かめるように胸に手を当てた。


「そうだ。シェイドとミカエルが溶け合い、混ざり合った」


 フロウは驚きで目を見張り、その後、納得した。

 目の前の男は、月のようであり、太陽のようであった。

 角度により輝きを変えて見せるが、それはひとつの宝石であり、今の男の有り様だった。


「シェイド。ミカエル。何て呼んだら」

「何とでも。ミックスでもメルトでも」


 それなら、とフロウは少し目を伏せて、呼んだ。




「メルト」





 男、メルトの耳に、そう呼ぶフロウの声が届いた。

 ただのひとつの名を、なぜこうまで、思いを込めて呼べるのか。


 メルトの中にあるシェイドの記憶が疼いた。

 フロウとの出会いを思い出していた。

 今と、過去の記憶とが重なり、体の奥に火が灯った。





 メルトの意識が、少しずつはっきりしてきた。

 見下ろすフロウは、襟元がスクエアカットのシンプルなワンピースを着ていた。

 デコルテの美しさに目を奪われた。

 メルトの火が勢いを増し、胸を焼いた。


「フロウ、きれいだ」


 メルトは、言った。

 フロウは驚いて、思わず顔を上げた。

 メルトの眼差しは、嵐の前の静けさに似た、不穏な熱気を帯びていた。


 思いをまっすぐに言う開放感。

 ただひとりに対する特別な感情。

 メルトは、さまざまなことを知った。





 フロウはもう、子どもではなかった。

 だから、メルトから向けられる眼差しの意味も、はっきりと理解できた。

 そして、高鳴って止まらない、自分の鼓動の意味も、よく分かっていた。


 そして、メルトも、子どもではなかった。

 触れたいと思った。

 この熱の高まりに対し、自分がどうすればいいのかも分かっていた。




 友達ではない。

 これは、友情じゃない。




 メルトは流れるような所作で、フロウを抱きしめた。


 メルトは、自分の体に馴染み切ってはいなかったので、力加減に気をつけていた。

 しかし、そんな配慮は、フロウに触れた途端に吹き飛んでしまった。

 引き寄せた腰の細さも、手に絡みつく髪の柔らかさも、豊かな胸のふくらみの感触も、すべてが狂おしいまでに、メルトを刺激した。


 フロウは、メルトの腕の中にいた。

 きつく抱きしめられ、お互いの心臓の激しい音を聞いた。

 メルトの手は、フロウのすべてを感じるように、頭の形をなぞり、背筋をなでた。

 フロウは、信じられないほどの羞恥を感じた。

 同時に、フロウの体の芯が、ひどく潤んで震えた。





 メルトはフロウの頬に手を添え、顔を上向けた。

 見上げてくるフロウの飢えたまなざしには、これまでとは違う艶が含まれていた。


「そんなに俺がほしいのか」


 メルトが頬に置く右手の親指が、フロウの唇をなぞった。





 メルトから向けられる野生の獣のような目に、フロウはおぼえがあった。

 過去に見たそれよりも、色を増したその激しい視線に、今のフロウはひるまなかった。

 二度と会えないかもしれない、という恐怖を味わったことが、余計にフロウを正直にしたのか。




 ほしい。




 小さく答えたフロウに、メルトは口づけた。





 お互いの熱が高まり、体中から発汗した。

 思いにせかされるように、何度も角度を変えて口づけた。

 きつく抱き合う体の感触は生々しく、触れても触れても足りなかった。


 好きで好きでたまらない。

 1分1秒、溶けるほど近づきたい。





 意識が焼き切れそうになっていたフロウの足から、急に力が抜けた。

 崩れ落ちそうになるところを、メルトに支えられた。


「大丈夫か」

「ごめんなさい。腰が抜けたみたいです」


 顔を真っ赤にして、フロウは心底困った顔で言った。

 メルトは、自分の口元を手で覆った。


「いいです。笑っていいです」

「いいのか?」


 メルトはふき出して笑った。

 鮮やかな笑顔に、不覚にもフロウはきゅんとした。


「私はまだまだ、レベルが低いから仕方ないよ」

「何のレベルだよ」


 メルトがフロウの鼻を軽くつまんだ。

 フロウは、じゃれあうようなやり取りが、うれしくて仕方がなかった。

 鼻をつままれたまま、うれしそうにしているフロウを見て、メルトはまた笑った。


 メルトはパッとフロウの鼻から手を離した。

 そして、両肩に手を置き、フロウの鎖骨にキスをした。


「きゃあ!」


 くすぐったくも、痺れるような感覚に、フロウは文字通り飛び上がって退いた。


「冗談です」


 メルトが、いたずらな表情で笑った。

 勝てない。同じ年なら、絶対に勝てない。フロウは大騒ぎする心臓をなだめながら、そう思った。










 メルトは笑いを収め、フロウに向き直った。


「おかげで、体に馴染んだ」


 フロウもハッとして、表情を改めた。


「記憶の方も、追いついたみたいだ。決着をつけてくる」


 フロウは頷いた。


「私は、カラカラちゃんのそばにいるから」

「頼む」





 メルトが右手を掲げると、濃厚な黒い炎が現れた。

 炎は円を描き、固まって、黒く丸い窓となった。


「行ってくる」

「行ってらっしゃい」


 メルトは黒い窓に身を躍らせた。

 メルトの姿も、窓も、かき消えた。

 あっという間の出来事だった。




 フロウは、しばらくの間、メルトの消えた空間を見つめていた。

 それから、眠るカラカラのそばに座り、メルトの無事を祈った。

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