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ヒルダの悲しみ

 金庫バアの部屋に呼ばれたヒルダは、くすんだ紫色のドレスをしどけなく着崩していた。


「お忙しい金庫バアが、なんの御用かしら」


 表情にも声にも、面倒という気持ちが隠さず現れていた。

 執務机に座った金庫バアは、険しい顔でヒルダをにらんだ。


「とうとう、出してはならないところに手を出したね」

「何の話よ」

「どれだけ今まで目こぼししてきたと思ってるんだい。もう、特別扱いは終わりだよ」

「だから全然話が見えませんけど」


 金庫バアは、おもむろに机上の書類を鷲づかみにし、ヒルダの顔に投げつけた。


「きゃ!何すんのさ!」


 避けることもできず書類を顔に受け、ヒルダは声を荒げた。

 金庫バアは、深いしわの奥からヒルダをにらみつけた。


「四ツ辻の肉屋だ」


 それを聞き、ヒルダの眉がピクリと動いた。


「言い訳もないだろう。ペドロとドーブが吐いた」

「知らないね」

「いい加減にしろ!この愚か者めが!」


 金庫バアは立ち上がり、今度は机上のオレンジを投げつけた。オレンジはヒルダの額の右側に当たって転がり落ちた。


「痛い!ふざけんな!ババア!」


 ヒルダは額を押さえた手の下から、激しく咆えた。


「ぶっ殺すぞ、ババア!くそ、いってえな、てめえ、骨折ってやろうか!」

「は!そんな度胸もない口だけの半端もんが!金輪際、お前の顔など見たくもない!出ていけ!二度と戻るんじゃないよ!」

「うるせえ!」


 ヒルダは荒れ狂った。

 部屋に置かれた調度品に襲いかかり、次々になぎ倒していった。


「ふざけんな!」


 額に当たって落ちたオレンジを拾い、おもむろにかじりついた。皮ごと食いちぎると、金庫バアをにらみ、唾とともに吐きだした。


 残りのオレンジを金庫バア目がけて投げつけたが、コントロールがつかず、執務机の側面に当たって落ちた。


「あたしを捨てようってのかい!できるわけないさ!あたしとの縁は切りたくても切れないだろ!かわいそうにね!こんなクズのあたしと一生もんの縁だからね!」

「一人で生きていきな。もう愛想が尽き果てた。知ったこっちゃない」





「あたしが何したってんだよ!」


 ヒルダの口角が下がり、今度はすがるような口調になった。

 金庫バアは改めて腰かけなおし、執務机の上で手を組んだ。眉根を寄せて爪をかむヒルダを、冷たい灰色の目で見据えた。


「四ツ辻の肉屋の仕事を受けろと、お前がマッドに言ったんだろう」

「言ってない!ペドロとドーブが言ったのかい?あいつら、あたしをはめようと」


「力以上のことをしたがるマッドに言ったろう?やばいことに手を出せばいいと」

「違う!あいつらが、見知らぬ男に依頼された仕事をどうするってコソコソしてるから、がっちり稼ぐのが男だろ、ウジウジしてんじゃねえって、ただはっぱかけただけで」


 ヒルダはこぶしを握って力説した。


「それが四ツ辻の肉屋の仕事だなんて、これっぽっちも知らなかったのさ」





 組んだ手を顎に当て、金庫バアはヒルダを見据えたまま続けた。


「まだある。タタのリュックサックが破れて、依頼品が落ちた。結果、うちの組織が四ツ辻の肉屋に付け込まれた。あのリュックサックの仕掛け、お前が入れ知恵したろう」

「それも違う!聞いておくれ。あたしはなんにも知らなかった」


 ヒルダは祈るように、胸の前で手を組んだ。


「ただ、昔のいたずらを自慢したのさ。シェイドたちがムカつくって言ってるから、お前たちはだらしないねって。あたしは気に入らない女に恥をかかせてやろうと仕組んで、大成功したよって」


 金庫バアは目を伏せた。

 ヒルダは、焦って早口で続けた。


「その女が持っているのとおんなじ鞄を手に入れて、切り込みを入れて、目立たないよう軽くくっつけて、入れ替えてやった。そしたらその女、本命の男とのデートで、大層な化粧道具を鞄からボタボタ落として、そりゃあ滑稽だったって、そういう話さ」


 金庫バアは黙ってヒルダをにらんだ。ヒルダは身を震わせて言った。


「四ツ辻の肉屋の依頼を受けているシェイドたちに同じことをするなんて、頭がおかしいんだよ。あたしは何にも知らなかった。悪いのは、あいつらだ。あたしは、ガキどもの話し相手をしただけさ!」


 金庫バアは、ヒルダをにらんでいた視線を机に落とした。

 それを見て、ヒルダの肩から力が抜けた。




 少しの間の後、金庫バアは小さく言った。


「お前はバカだ」

「確かにそうだね。間が悪いんだよ。バカだよね」


 ヒルダはおもねるように、調子を合わせた。


「バカやっちゃうところは気をつけるからさ。これからもきちんとガキどもの世話をするよ。悪いところは直すよ。ちゃんとするから」


 部屋に沈黙が訪れた。

 ヒルダは金庫バアをじっと見ていた。こくりと唾を飲んだ。


 金庫バアは小さく息を吐き、静かに言った。


「今回のことは今までとは訳が違う」


 ヒルダの体が再び強張った。


「結論は変わらない。出ていけ、ヒルダ」


 冷静な強い視線を向けられ、ヒルダは青ざめた。












「お母さん」


 ヒルダの口から小さな言葉がもれた。


「お母さん、そんな目で見ないで」


 呼びかけられた金庫バアの口の端が、わずかに動いた。


「ごめんなさい、お母さん。許して。いい子になるからさ」

「その呼び方はやめな」

「いいえ、お母さん、初めて呼べた。ずっとこう呼びたかった。あたしのお母さん」


 胸の前で組んだ手の指の関節が、白く浮き上がっていた。

 そんなヒルダの手を、金庫バアはしばし見つめた。


 それから視線を机上の電気スタンドに向けた。電気スタンドは、ただひたすらに機能的な形をしていて、部屋の他の調度品からは浮き上がっていた。


 金庫バアは、電気スタンドの長方形の傘に薄くかぶったほこりに指を伸ばし、スッと一筋払った。


「年をとったもんだ。手元が暗いと作業ができない」

「お母さん」


 ヒルダは涙声で尚も呼んだ。


「お母さん、お願いだよ。本気で見捨てやしないだろう?」


 ボーンボーンと柱時計が場違いな音を響かせた。二人は聞こえていないかのように見つめあった。やがて、金庫バアは目を閉じ、口を開いた。


「恨み事があるなら聞いてやろう」


 金庫バアは片手で両目を揉んだ。それから顔を上げ、再びヒルダを見た。

 少しの沈黙があった。口を開いたのは、金庫バアだった。


「あたしに言いたいことがあるなら、全部言いな。今まで、言いたいことがいっぱいあったんだろう。どんな恨み事でも聞いてやるよ」


 ヒルダは息を飲んだ。視線を左右にさまよわせ、それからうつむいた。

 少しの間の後、上目遣いで金庫バアを見た。





「あたしは、お母さんに構ってもらいたかった。でも、お母さんは、いつも他のガキどもと話してる。あたしのことなんか見向きもしない」


 ヒルダは言葉を切って、金庫バアを見た。金庫バアは頷いた。


「続けな」

「お母さんがあたしを見るのは、あたしがあんまり目に余る時だけ。本当の子どもはあたしなのに。あたしだけのお母さんなのに。でも、みそっかすのあたしは、他人の捨て子よりお母さんに見てもらえない」


 口火を切ると、矢継ぎ早に言葉が滑り出た。


「名ばかりの家にお母さんは帰って来ない。お母さんは組織のガキどもにべったり。あたしには世話役の女はいたけど、放っておかれた。何をしていいか分からなかった。すっかり何もできないバカな大人のできあがり」


 金庫バアの口元がわずかに開いた。それを見て、ヒルダはすばやく続けた。


「言いたいことは分かるよ。そうさ、お母さんは、大人になって何もできないあたしに仕事をくれた。うれしかったよ。お母さんの大事な組織で仕事ができるんだもの。でもさ、結局、もっとみじめになった。近くにいても、お母さんは、全然あたしを見ない」


 金庫バアの口は再び閉じた。ヒルダは早口で言葉尻が何度も震えたが、話し続けた。


「お母さんの好きな子どもは、賢い子どもさ。すぐに分かったよ。頭が悪くてこらえ性がなくてだらしないあたしは、お母さんに嫌われているって、すぐ分かったんだから」


 ヒルダの口角がわずかに上がった。


「お母さんのお気に入りの子どもに意地悪をすると、びっくりするくらい気持ちがスーッとするんだ。意地悪の方法は、世話役の女があたしにしたことさ」


 金庫バアの眉間のしわが深くなった。


「知らなかったのかい?あの女、あたしのあちこちを触ってなめて、自分のうさばらしをしてやがった。気持ち悪かった。ガキの頃は生意気に神様なんて信じてたから、こんな悪いことをしてバチが当たると思ってた。誰にも言えないし本当に恐ろしかった」


 ヒルダは言葉を切り、うつむいた。胸の前できつく組んでいた手をほどき、自分の体を抱いた。


「汚くてバカなあたしがお母さんに見てもらえるのは、大バカをしたときだけ。怒られて、それでも追い出されないのは、あたしがただ一人の娘だからだよね。そうさ、ただの親子喧嘩なんだから」


 ヒルダの目に涙が浮かんだ。


「お母さん、許して。今回のことだって、親子喧嘩だろ?出ていけなんて言わないで。捨てないで」





「お前とはもっと早くこうして話をするべきだったんだろうね」


 話し終えて見つめてくるヒルダを見返し、金庫バアは話し始めた。


「手遅れになった」

「何言っているんだい?手遅れなんかじゃないさ。何も変わってなんかいない」

「四ツ辻の肉屋はいけない。あれは、絶対にだめだ。触れてはならないものに、お前は触れた」


 ヒルダは口を半開きにした。金庫バアはヒルダの言葉を封じるように続けた。


「言わなかったことがある。黙って聞きな」


 ヒルダは口を閉じた。


「あたしは、お前の母親ではない」


 金庫バアの言葉に、ヒルダの唇が再び開いた。

 唖然とするヒルダをそのままに、金庫バアは話を続けた。


「お前の誤解をそのままにしたのは、あたしの怠慢だ。責めていい」

「何言って」


「お前を産んでない。あたしは、子どもを産めない体だ。お前はあたしの子どもじゃない」


 ヒルダの唇が、神様、と音もなく形を刻んだ。










「どうしたって、気持ちがついてかないってことあるだろう。あたしにとっては、お前がそうだった。執念深く引きずった。割りきれなかった」


 その場にへたり込んだヒルダに、金庫バアは淡々と語りかけた。


「あたしがこの組織をはじめてしばらくたった頃、古い知り合いの男が訪ねてきた」





 それは、金庫バアにとって、忘れられない夜だった。

 金庫バアの自宅は、小さいながら、頑健な石造りの家だった。

 恨みを買うことも少なくないため、セキュリティは万全にしていたつもりだった。

 その家の寝室に、ふらりと男は現れた。


 まるで長旅をしてきたように、汚れたマントを身にまとい、黒い大きな帽子をかぶっていた。

 顔はほとんど見えなかった。

 にもかかわらず、金庫バアは、一瞬でそれが誰なのか分かってしまった。


 すまないが、訳あってあなたを頼りたい。

 何の挨拶もなく、男はそう切り出した。


 久しぶりにもほどがある再会。

 あまりにも唐突な物言い。

 セキュリティの無意味さ。

 一人暮らしの女の家、夜の寝室というシチュエーション。

 しかも、寝巻でベッドの上。

 その他もろもろ。


 指摘すべき点が多すぎて、40歳になったばかりの金庫バアは、もはや何も言えずに、あんぐりと口を開けていた。


 私が知るなかでは、何度考えてもあなたが適任なのだ。

 どうか、この子を預かり育ててほしい。


 男の薄汚れたマントの下から、魔法のように、おくるみに包まれた赤ん坊が現れた。


 あんまり口が開きすぎて、金庫バアのあごは外れそうになった。





「昔馴染みの勝手な男でね。昔からいろんな厄介事を抱えていた。そいつが連れてきた赤子がヒルダ、お前だ」


 金庫バアが質問を口にする前に、男は眠る赤ん坊を差し出してきた。

 かつて馴染んだ男の身勝手に、考える前に体が反応した。

 男が登場し1分もたたぬ間に、ベッドの上で半身を起した金庫バアは、赤ん坊を引き受けていた。


 しかし、男と過ごした時期より、少し年月を経ていくぶん成長したことが功を奏したのかどうか、無条件に意味も分からず何事かを押しつけられる前には、正気に戻れた。





 ちょっと、ちょっと待ってよ、少しは説明してくれない?

 本気で、何の説明もなく去りかねない。金庫バアは、もろもろの文句はさておいて、慌てて説明を求めた。


 男は、赤ん坊を指さして言った。

 その子の名はヒルダ。

 薄曇りの暗さを増強するウミの子。





「破壊と破滅の衝動をかきまわす、薄曇りの暗さ。制御不能で、無意味で、おそろしいもの。それに引き込まれ、また、それを補助媒介のように、悪化させてしまう能力をもった、ウミという女がいた」


 ヒルダはぼんやりとした顔で、金庫バアを見上げた。


「ウミがお前の母親だ」




 男は、一定のトーンを保った口調で続けた。


 ウミの力が遺伝するかどうかは分からない。だが、薄曇りの暗さに対する恐れのあまり、ヒルダの命は狙われている。

 ウミやこの子の命に罪はない。


 ウミは実際に、薄曇りの暗さに何度も引き込まれそうになり、周囲を危険にさらした。

 ヒルダを育てるのも危険だ。

 ウミは私が保護するが、ヒルダまではどうしても難しいのだ。



 そんなの知ったことか、という金庫バアの心の声は、男には届かない。

 帽子の下から、男の口元が見えた。

 厚い唇の横にある傷あとが、懐かしかった。




 あなたには、その目がある。

 あらゆる気配を見通すその能力があれば、万一、ヒルダにその能力があったとしても、それを遠ざけておくことができる。

 そして、今のあなたは、たくさんの子どもたちを手元においている。ヒルダの存在はその中に埋もれて見えにくくなるだろう。




「男は、あたしの組織を知っていて、赤ん坊を預けるにふさわしいと判断した。忌まわしい能力も、あたしの見る能力で、何とかしてくれと丸投げしてきた」




 あたしにメリットがないじゃない!

 今すぐにも立ち去りかねない男に、かろうじて言えたのはそのことだった。


 静かに、いつの間にか寝室の戸口まで退いていた男は、背を向けたまま言った。




 見守っている。




 今度こそ、金庫バアのあごは外れたに違いない。

 盛大に口が開きっぱなしになった。




 それは、あなたとの縁をつないでくれるものだ。




 男は最後にそう言って、出て行った。











「お前は無能なんかじゃない。むしろ、恐るべき力を備えている。ウミと同じ力だ。そのために狙われたお前の命を生かそうとした男が、しでかした結果が今だ。その男は、高いところから勝手にやることをぶん投げてきて、こっちがどう思うかなんて、何とも思っちゃいなかった」


 ヒルダは小さな声でつぶやいた。


「何だそれ、何なのさ」


 金庫バアは、わずかに視線を落とした。


「ああ、男のせいじゃない。ヒルダ、お前の不満はあたしだろ。分かってはいるつもりだ。3歳までは、それでもわが子のように思えたんだ。哺乳瓶とおしめを抱えて、走り回ったもんさ。だが、成長とともに、あたしの限界がきた。あたしは、お前の顔を見るのがつらかった。男の面影を見たくなかった。だが、男から託されたお前を、ほかの子どもと同じように扱うこともできなかった」


 ヒルダの体はわなわなと震えだした。


「何?頭が悪いから、分かんないよ。全然、分かんない」


「お前の言うとおり。お前を見るのをやめた。そして、取り返しのつかないことが起きてしまった」


 ヒルダは自分を抱きしめた。

 金庫バアは感情の見えない声色で、静かに告げた。


「四ツ辻の肉屋は、薄曇りの暗さを宿している。お前の力はあたしの制御を超えた。あたしも年をとった。あたしができることはもうない。お前はここを出て行くんだ」





 ヒルダは能面のような顔でふらりと立ち上がり、よろける足取りで部屋を立ち去った。




 金庫バアは、しばらくそのまま動かなかった。




 あの後、男は一度も金庫バアのもとを訪れることはなかった。

 そんな男との縁を切りかねていた。


 とうとう、ヒルダを手放した。




 本当に年をとったのだと、金庫バアは深く息を吐いた。

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