好きという思い
今日は、フロウとミカエルが、二人きりで会う初めての日だった。
前回の別れ際、シェイドが、これまでのようには会えないと言った時には、フロウは衝撃のあまり言葉を失った。
この1か月、2~3日おきにシェイドと遊び、まるで当たり前のことように感じ始めていた。
当たり前ではないのだ。
すっかり忘れていた以前の自分を、フロウは思い出した。
ちょっとわがままになっていたと思い直し、衝撃を受け流そうとした。
2週後に遊べるとシェイドが言うと、また会えるとホッとした。
しかし同時に、そんなんじゃ足りない、と不満な気持ちも湧いた。
望みすぎると苦しくなることを知っていたので、フロウは、頑張ってその日を待とうと思った。
すると、ミカエルは来週も遊べると言った。
2週間、待つのはつらいと思っていたフロウは、1も2もなく飛びついた。
とはいえ、1週間も長かった。
ふと気づくと、会いたいな、シェイドとミカエルは何をしているのかな、早く遊びたいな、といった気持ちでいっぱいになっていた。
裏通りの古書店で勉強中にも、その感覚は訪れた。
「フロウ、魂が抜けてお留守ですよ。帰ってらっしゃい」
ハシマに何度も指摘され、そのたびに我に返った。
今日は今日で、とうとう遊べる日だと思うと、いてもたってもいられない気持ちになった。
「フロウ、ソワソワしていますね。何かあるんですか?」
ハシマに聞かれて、首を横に振って否定した。
内緒でアオウミ森に忍びこんでいる後ろめたさから、シェイドやミカエルのことは勿論、白魔術が使えたことについても、フロウはハシマに話すことができずにいた。
ハシマはいつものように、追及してくることはなかった。しかし、やましいからであろうか、フロウはハシマの口調と視線が、いつもと違う色を含んでいるように感じた。
自分のやましさは置いておいて、何となくムカッとする気持ちになった。
気に入らなかったので、休み時間、フロウはハシマに後ろから頭突きをした。
「あいた!ちょっと、今のは本気だったでしょう。なぜこんな」
ハシマが頭を押さえてフロウを振り返った。眉根を寄せてフロウを見るその目にも、やはりいつもと違う気配を感じた。
「何でか分かんない」
言いながら、フロウはひどく悪いことをしてしまったような気持ちになってきた。いつもの爽快感はなかった。
ムカつく気持ちも残っていたが、後味の悪さが強かった。
「ごめんなさい」
フロウはうつむいて、くぐもった声で言った。
謝られたハシマの方は、はっとした表情になった。
パッとハシマの手がフロウの頭に伸びた。
よく知っている繊細な手が、頭を往復する温度を感じた。
フロウは久しぶりにハシマに頭をなでられていた。
フロウはハシマに頭をなでられるのが好きだった。そうされると、心地よくて幸せだった。
師弟関係になってからは、ハシマが触れてくることはほとんどなくなっていた。だので、これは本当に久しぶりのことだった。
やはり心地よかった。頭の上にスイッチがあるように、全身がホワッと緩んだ。
反射的に、うれしいと思った。
でも、快だけではなかった。
なぜ今こうされているんだろうという不思議、申し訳ない悲しさ、子ども扱いされているような反発、諸々の感情が、それぞれ少々混ざり合っているようだった。
ちらっと見たハシマの表情が気づかわしげで、フロウは、そうじゃない、という自分でもよく分からないもどかしさに駆られた。
ハシマは、まいったなと思っていた。
フロウはきっと、今日あの男の子たちと遊ぶのだろうと察していた。
面白くなかった。
おそらく、意地悪なオーラが自分から出ていて、フロウが反応したのだろうと分かっていた。本当は、フロウが謝る筋合いのことではないのだ。
フロウは、何かを堪えるような、すねるような、容易に読み取れない表情をしていた。
今までのフロウは、ハシマになでられると、ほっとしてゆだねるような様子になることが多かった。それが今は違っていた。フロウの思いが、はっきりと分からなかった。
ハシマの中に、焦れるような気持ちが湧いた。
自立に向かっていると好ましく思う気持ちも勿論あった。だが半面で、自分の知る幼いフロウを手離したくないという恥ずかしい独占欲も自覚していた。
「ハシマさーん、いるー?」
店から客の呼ぶ声がして、ハシマは我に返った。
「フロウちゃん、休憩時間が終わったら、この本の続きを読んでいてくださいね」
ハシマはできるだけニュートラルにそう告げて、接客に出た。
フロウは、ハシマの背中を見送った。
勉強部屋と店舗を区切る格子戸が閉められると、フロウは自分の手を頭にのせた。
消えてしまうと、ハシマの手の感触は惜しいものだった。
定刻で裏通りの古書店を出ると、フロウは一度帰宅した。
ミカエルがやってくるのは、あと1時間ほどしてからだった。待ち遠しかった。
時間が来て家を出ると、自然と駆け足になった。
そうして、アオウミ森の金網の破れをくぐった内側で、フロウはミカエルを待っていた。
ミカエルだけを待つというのは、何だか慣れない不思議な感じがした。
それでも早く、早くと気がせいた。
「フロウ、お待たせ」
とうとうミカエルがやってきた。金網の向こうから、キャップを深くかぶったミカエルが笑顔で手を振った。
フロウの中でうれしさがはじけた。
ミカエルがササッと金網の内側に移動すると、二人は再会を喜びあった。
キャッキャッとはしゃぎ合える感覚は、シェイドと二人の時にはないものだった。楽しかった。
だが、比較してしまうと、シェイドの不在を感じて、フロウは何だか寂しくもなった。
湖のほとりで、フロウとミカエルは1週間分をぶつけるように遊んだ。
フロウにとってミカエルは、驚くほど自然で構えなくていい相手だった。
にらめっこでは、双方、原形をとどめないまでにおかしな顔を作り、大爆笑した。
「フロウ、その顔は反則だよ!」
ミカエルがお腹を抱えた。
「さっきのミカエルの方が、反則だった!」
フロウは思い出して呼吸が苦しくなるほど笑った。
「そうだ、いたずらしない?」
ヒーヒー笑いながら、ミカエルは言った。
「あの辺の草を結んでおいて、来週、シェイドを転ばせる」
「え、危なくない?」
「他の人は通らないような場所だし、シェイドは転んでも平気でしょ。草むらだもの。いや、転んでくれるか分からない。勘がいいから気づかれちゃうかな」
フロウの中に、ムクムクと楽しい気持ちが広がっていった。来週につながることをするのが、うれしかった。シェイドと結びついていることも、うれしかった。
ミカエルが、やや丈の長い草を選んで結び目を作った。
フロウとミカエルは目を合わせて、噴き出し笑いをした。
今ここにはいない友達のことを、別の友達と思うことができる。フロウは幸せを感じた。
「来週、頑張ってシェイドをここにおびき寄せないと。どうしたらいいかな。えーと、そしたら、シェイドがあっちにいるとき、フロウはこの先で転んでみようか。それで、僕がシェイドのこっち側を走ってフロウに向かうでしょ。そうすると、シェイドも負けず嫌いだから、このラインでガーッとフロウ目がけて走って行く。それで罠にかかって、どーんと転ぶ」
ミカエルが想像しながらニッと笑った。
「転んだら、すかさず二人で押さえこもう」
フロウは想像して噴き出した。
「私、くすぐっちゃおうかな」
「わ、フロウも結構いたずら好きだね」
二人ともこみ上げる笑いがなかなか治まらなかった。
楽しくて幸福な気持ちのまま、二人は更に遊び続けた。
笑って走りまわって二人は息が切れた。
湖を見ながら座って、休憩をとることにした。
「あー、楽しかった」
「私も」
湖の色が変わってきており、日がわずかに傾きだしていることが分かった。ハイだった心身を休めると、フロウは何だか寂しくなってきた。
「私ね、今日をすごく楽しみにしてたんだ。本当に楽しかったなー。早く来週にならないかなー」
「うん。シェイドにも会えるしね。僕も来週が待ち遠しい」
ミカエルは体育座りをし、首を傾けてじっとフロウを見た。
フロウはドキドキした。
ミカエルはしばらく黙ってフロウを見ていた。フロウは困って、視線を湖に向けた。
「ねえ、フロウは好きな人いる?」
フロウの心臓がドキンと大きく鳴った。思わずミカエルを見ると、端正な顔が少し困ったような笑顔になっていた。
「フロウ、そんな面白い顔しなくても」
よほどの顔をしていたのか、ミカエルがとうとう噴き出したので、フロウは慌てて自分の両頬を押さえた。
「ごめん、急な質問だよね」
ミカエルは膝を抱え直して、湖を見た。
「好きな人って、好きな人?」
フロウは理解しようとして聞き返した。顔が火照った。しかし、ミカエルは、それを聞いて首をひねりだした。
「うん。うーん。うん?うーん、好きな人?好きな人」
ミカエルは、自分に問うように言葉を繰り返した。
「僕、悩んでいるんだ」
フロウはびっくりした。
まるで、悩み相談のようだと思った。
もしかして、そうなのかもしれないと思い至ると、フロウの頭は沸騰した。
友達の悩み相談。
信じられない衝撃体験だった。
「何を、悩んでいるの?」
フロウの声はひっくり返りそうだった。体に力が入って、異様に背筋が伸びた。
ミカエルは、真剣さと滑稽味の漂うフロウの様子に、何だか胸がうずうずするような、くすぐったいような妙な感触をおぼえた。
思わず胸に手を当て、その感触を自分の内側で確かめようとし、視線が宙を泳いだ。
「ミカエル?」
「ああ、えっと、そうだ。悩みだ」
「そうだよ」
フロウの小鼻がぷくっと動いた。
気合を感じて、ミカエルは内側からこみ上げるままに、クスクスと笑った。それに対して、目をまんまるにしたフロウが口を開く前に、ミカエルは話し始めた。
「学校で、女の子が僕を好きだと言ってくれたんだ」
「うん」
フロウは気持ちを切りかえて、一生懸命想像した。かわいらしい制服姿の女の子を思い描いた。
「僕も、その女の子が好きなんだ」
「うん」
フロウは、制服の女の子とミカエルが手をつないでいる様子を思い浮かべた。なんだか、ドキドキした。
ミカエルは少し困った顔をした。
「僕は、フロウも好きなんだ」
ここで自分が出てくると思わなかったフロウは、またまたどっきりした。想像の中で、ミカエルの空いていたほうの手をフロウが握っていた。
フロウは真っ赤になった。
まだ訳は分からない話だけれど、好きと言われることは、相変わらずうれしくて仕方のないことだった。
ついつい顔がほころんだ。
ミカエルは、そんなフロウに微笑み返した。
「でね、前も言ったけど、シェイドも好きなの」
「うん」
想像の中で、シェイドがミカエルの首に、後ろから腕を巻きつけた。想像はフロウの得意分野だった。
「何人か、他の女の子たちとも同じようなことがあったんだ。その、僕のことを好きだって、女の子たちが言ってくれて。僕は、どの女の子も好きだったから、僕も好きだよって答えてきたんだ。そしたら、クラスの友達に、ミカエルはそれだと女たらしだって言われちゃった」
想像の中で、ミカエルの手はもう空いていなかった。
フロウは、反射的に負けるもんかと思った。
想像の中のミカエルを、足を伸ばして座らせた。
二人の女の子が向かいに座って、ミカエルと片足ずつ足の裏を合わせた。
うまく想像できたと、フロウは満足した。
「フロウはどう思う?」
ミカエルが眉尻を下げて、弱った表情で聞いた。
「えっと。手が足りない?」
想像の中で、ミカエルは、手も足も首も人とつながっている。
ミカエルは、フロウの言ったことを少し考えた。
「そうだね。遊びたい人がいっぱいいて、手が足りない」
ミカエルはフロウを見た。
スカイブルーの瞳の美しさに吸い込まれそうになって、フロウは思わず手足をふんばった。
「シェイドがよく言うけど、何か、分かった気がする。フロウ、変なこと考えてたでしょ」
「え」
フロウはギクリとした。
「何だか、微妙なところで、楽しそうな顔が隠しきれてない」
フロウは再び両手を顔に当て、頬を押さえた。自分は人と話す時、どんな顔をしているのだろうと恥ずかしくなった。
慌てたフロウの様子に、ミカエルは噴き出した。
「面白いね。僕はフロウのそういうところも好き」
ミカエルは楽しげに笑った。
笑われていることは恥ずかしいのだが、好きと言われると、フロウはうれしさが勝ってしまう。とうとうフロウも笑ってしまった。
二人でひとしきり笑った。
「あー、笑った。えっと、それでね。僕は女たらしって言った友達のことも好きで、だから、誰か一人を特別に好きっていうのが、よく分からないんだ」
ミカエルは、まだ少し笑いを含みながら、元の話に戻っていった。
フロウは、最初よりも落ちついて話が聞けるようになっていた。
ほんのりと夕日の色に近づき始めた空を、湖が映していた。
風もない静かな森の湖畔で、ミカエルの話は続いた。
「僕のお父様とお母様は、あまり仲がいいように見えない」
急にミカエルの両親のことが出てきて、話の先が見えず、フロウは戸惑った。
頭の片隅で、ミカエルは、お父様、お母様という呼び方をするんだ、と小さな驚きを感じてもいた。
「前から何かおかしいと思っていたんだ。お父様は、仕事が忙しいと言って、お母様の部屋に近づかない。お母様は、変にお父様に遠慮していて、何ていうか、ビクビクしている」
ミカエルの表情を見て、ずいぶん心を痛めているようだとフロウは感じた。
「お父様とお母様は、特別に、お互いに好きで、その、愛し合って、それで結婚したんだと思うんだけど、何だか、そうじゃないみたいな、違うような、そんな感じなんだ。言い争ってたし」
ミカエルの眉間にしわが寄った。
フロウは、ミカエルが苦しそうなので、かわいそうだと思った。
「お母様が、僕はお父様に似ていると言う。僕は、皆のことが好きで、誰か一人、特別に好きっていうのが分からない。ごちゃこちゃ考えていたら、ちょっと怖くなった」
ミカエルが、湖に向けていた顔を伏せた。
「お父様は、お母様のほかに好きな人がいるのかもしれない」
フロウは、膝に顔をうずめるミカエルにかける言葉がなかった。
「僕は誰かを特別に好きになれるのかな。でも、お父様とお母様を見ていると、特別なんてないような気もするんだ。そうなんだけど、お父様がお母様を特別に好きじゃないなんて、僕は許せないんだ。こうやって考えて、僕は混乱しちゃう。フロウは、どう思う?」
ミカエルが、緩く顔を上げてフロウを見た。たゆたう瞳がフロウの胸を打った。フロウは、友達の悩み相談を、真剣に頑張ろうと思った。
「私、あの、私はずっと、お母さんしかいなくて、お父さんと会ったことがないの」
ミカエルは、すぐに事情を察して目を見張った。
「ごめん」
「ううん、いや、全然いいの。あの、前から、一回ちゃんと言わなきゃって思ってて。なんか、うちは、他の家とちょっと違っているから、あそこの家の子と遊んじゃだめって言われているみたいで、私、友達がいないの。シェイドが初めての友達。ミカエルは二人目。あの、黙っててごめんね」
フロウは真剣に話そうと思った。でも、うまく話せなかった。だいぶ遠回しな話しぶりになってしまっていると感じ、もどかしかった。
ミカエルは、真剣なまなざしで聞いていた。
「私のお母さんは、きれいで、好きな人が、いろいろ変わるんだ。お父さんのことは、あんまりちゃんと聞けないんだけど、すごく愛してたんだって。お母さんはいつも、本気で好きな人がいる。でも、いつも同じ人じゃないの」
フロウは、一生懸命考えた。こんなことを話すのは、勿論初めてだった。
「大人の人の、好きって、何だか違うんだと思う。お母さんは、好きな人ができたのって言って、ちょっとしたら、別の人のこと好きになってたりする。何だか、その時で急に変わったりとか、意味がよく分かんない。でも、いつもちゃんと本気っぽいんだよ。それできっと、私のお父さんのことも、本当に好きだったんだと思った」
フロウのたどたどしい言葉を、ミカエルはじっくりと聞いた。
「お父さんとお母さんが愛し合って、私は生まれたんだって、お母さん言ってた」
ミカエルは、ハッと息をのんだ。
「お母さんは、ちょっと気まぐれっていうか、周りの人にもだらしないって言われてて。だから、何が言いたいかっていうと、あの、特別好きっていうの、ちゃんとあるんだと思う。その時は本物なんだと思う」
フロウは自分のおぼつかなさが、歯がゆかった。それでも、一生懸命だった。
「私のことは、ずっと好きでいてくれるかなって、たまに気になるけど、信じることにしてる」
フロウは頑張ったが、ちゃんと答えられていないと思った。自分にがっかりした。
ミカエルは、頬に手を当て考えていた。
二人はしばらく黙りこんだ。
やがて、ミカエルの肩が急に震えた。驚いてフロウが見ると、ミカエルのスカイブルーの瞳から、涙が一粒だけこぼれた。
「もう泣かないって決めたのに」
ミカエルは手のひらで頬をぬぐった。
「僕のお母様は体が弱くて、僕を産むときに死にかけたんだ」
フロウは、ペタンと座った膝の上で両手をギュッと握った。
「お父様とお母様が好き合ってなかったら、僕は、ただ、お母様の命を危なくしただけの存在になってしまう。僕がいたせいでお母様は」
フロウの胸は締め付けられた。
「僕はいないほうがよかったことになってしまう」
フロウは、鼻の奥がツンと痛んだ。
「でもきっと、お父様とお母様は、特別好き同士だったんだ。そうして僕は生まれたんだ。僕も信じることにした。特別な好きは、僕にもいつかきっと分かるはず」
鮮やかにふわっと微笑んで、ミカエルはフロウを見た。
「僕、何でモヤモヤしてたのか、話しているうちに少し分かったみたい。ちょっとホッとした」
フロウは、ミカエルはなんて華やかに笑うのだろうと見とれた。鼻の奥のツンとした痛みがほどけて、気がつくとフロウの両目から、ほろほろと涙がこぼれていた。
ミカエルは湖からフロウへと向き直し、両手を伸ばして、フロウの両頬を優しく包んだ。
温かくて恥ずかしくて、フロウの胸は張り裂けそうになった。
「キスしていい?」
ミカエルは太陽のような笑顔でフロウに尋ねた。
フロウにはまぶしすぎて、容量オーバーとなり、思考停止した。
「うん」
小さな返事がフロウの口からこぼれた。
ミカエルは立ち膝で、フロウに近づいた。
フロウの額に、ミカエルの唇がふわっと落ちた。
フロウの心臓が早鐘を打つ中、今度は鼻に柔らかく口づけされた。
「きゃ」
鼻がくすぐったくて、思わず声が出た。
それから、フロウの瞳に、ミカエルの唇が向かってきた。
フロウは目を閉じた。
フロウの両方のまぶたに、順番にキスが降ってきた。
フロウは体中の力が抜けて、動くことができなくなった。
「まだ、涙、止まらない?」
ミカエルの声がフロウの耳に届いた。
涙が出ているのか止まっているのか、フロウには、もはやさっぱり分からなかった。
一拍だけ間があった。
両目を閉じたフロウの唇に、驚くほど柔らかいものがふれた。
反射的に、フロウの体がビクッと跳ねた。思わず目を開いた。
フロウの両頬に手を添えたままのミカエルと目が合った。
「キスしちゃった」
ミカエルは照れるように笑って手を引っ込めた。少し目をふせたミカエルの頬が染まっていた。
柔らかな唇の感触に、また、見たことのないミカエルの恥じらいに、フロウの胸の鼓動は高まるばかりだった。
「フロウ、初めて?」
聞かれて、フロウはこくりと頷いた。
ミカエルが、はにかみながら言った。
「僕も初めて」
フロウは激しく驚いた。
「ええっ、本当?」
「嘘じゃないよ」
ミカエルは、ほんのりと頬を染めたまま、うれしそうな笑顔で言った。天使のような輝く笑顔だった。
フロウは、頭が沸騰し、今にも蒸気を噴き出すのではないかと危ぶんだ。
「もう無理」
「何?」
「友達レベルが低い私じゃ、無理。修行が足りなくて、ドキドキしすぎて、無理」
フロウは真っ赤な顔で、両手を胸の前で組んだまま、フルフルと首を横に振った。
「嫌だった?」
ハッとした表情で、ミカエルは尋ねた。
フロウは、フルフルと首を横に振るスピードを上げた。
ミカエルは、ホッと胸をなでおろした。
「安心した。僕は、ファーストキスがフロウでよかったと思っているよ」
ノックダウン寸前のフロウに微笑みながら、ミカエルは言った。
「僕、すぐ皆にキスする癖があるんだけど、唇にキスするのは別のことだから、自分がそうしたいと思うまで、しないって決めてたんだ。いつか、ちゃんとキスしたいと思う人に出会えるのかなって、そう思えるのかなって、不思議だったんだけど、大丈夫だった。分かったよ」
ミカエルのまなざしの温かさに、また違う熱が混ざるのをフロウは見た。
「僕はフロウにキスしたいと思ったんだ」
ミカエルの恥じらいに潜む熱っぽさにあぶられ、フロウは、もう無理、限界と思った。
「あはははははは」
フロウは笑い出してしまった。
ミカエルは、急な笑いに一瞬驚いて、目をぱちくりとさせた。少しの間、笑い続けるフロウを見ていた。
つい、ミカエルは、つられて吹き出した。
「くふ、ふ、ふはははははは」
とうとうミカエルは、一緒に笑い始めてしまった。
次第に、笑っている相手の姿や、それだけではなく、見たものすべてが面白おかしく見えてきて、二人はしばらく大笑いし続けた。
たった今の緊張感も、胸に降り積もる憂いも、何もかもすべてを吹き飛ばすような笑いが、日の傾き始めた湖のほとりに渦巻き、響き渡ったのだった。