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触れるな

 ハシマによって、フロウは唯一のフロウとして再統合された。

 それを確認したシェイドは、すぐにフロウへと駆け寄り、フロウを抱き上げた。


 ハシマはシェイドとフロウを見ようとはしなかった。再び片膝を立て、そこに肘をつき、顔を伏せたまま動かなくなった。


 シェイドはフロウを抱きかかえながら、タタに言った。


「この国は俺が存在することを許さない。俺は争いの種だ。準備ができ次第、この国を去る」


 シェイドの言葉にタタは目を細めた。


「おいおい、なんだよそれ」

「俺はバカみたいに巨大な魔力を引き継ぐ一族、まことの黒の直系だ。イセの一族、宵闇の青だけの問題じゃない。この国において、まことの黒は忌むべき敵、争いを呼ぶ悪」

「おめえは何もしてねえ。知ったこっちゃねえだろ!」

「だが、命ある限り、巻き込み、巻き込まれ続ける。俺の怒りは確かに危険なんだ。次の遺恨を生むに違いない」

「んなバカな」


 シェイドは小さく笑った。


「きっとそうなる。そんなの面倒だ。俺は新天地へ行く」


 タタは目をぱちくりとした。

 シェイドの後ろの瓦礫の広がりが、突然、荒野であるかのように見えた。

 タタは目をこすりながら言った。

 

「この国から逃げるのか」

「ああそうだ。とんずらする」

「なんだよ。楽しそうだな」

「一族直系の悲願であった魔術が、もうすぐ完成する。俺が完成させる。望む人たちと共に行く」

「望む人?」


 シェイドは空を見上げた。


「俺の力が導くところへ向かう。ここを離れ、命の保証のない旅へ行きたい奴らは道連れだ」

「なんだその恐ろしい言い方は。具体的には誰だ」

「金庫バアは筆頭。決して無茶な旅に行きたい人ではないが、ギルさんが引きずり出した。そして、フロウ。絶対に、行く、と言わせる」

「金庫バアにフロウ。最初に出てくる二人が無理やりかよ」


 呆れ顔のタタに対し、シェイドは先ほどよりも大きめに笑った。そして、腕の中で眠るフロウの髪に軽く唇を落とした。


「フロウについては苦労はかけるが、後悔はさせない」

「本当かよ」

「キングさんは行くというだろうか。あとはキングさんの屋敷の人たち。それに捕虜」

「ほりょ」

「うん。宵闇の青が俺に差し向けた刺客。帰る場所のない捕虜たち」

「よく分かんねえけど、また、でかい話だな」

「タタは?」

「俺?」


 タタは目を丸くした。

 シェイドは少し離れたところで話を聞いているミカエルの方も見て言った。


「魔術が調ったら、皆に信号を送って尋ねる。ミカエルにも聞く。タタは? カラカラは? アニヤさんとアネモネさんも。ニア国を離れ、俺と新天地を目指すかどうか考えてくれ」


 タタはポカンとした。


「おめえの話は突然過ぎる。ついていけねえ」

「俺自身はずっと考えてきたことだ。タタ。今から考えておいてくれ。命がけだし、楽な旅ではないだろうし、後戻りはできないが」

「それ、積極的に行きたい奴、いるのか」

「どうだろう。人生の選択肢だ」


 シェイドは続けた。


「準備のため、キングさんの屋敷に戻る。転移は二人以上でしたことがないから避けたい。俺一人だと、フロウしか連れていけない。ミカゲを後で迎えに来る。預かってもらえないか?」

「いや、まあ、おう」

「預かろう」


 戸惑うタタに対して、ミカエルは横から請け合った。

 シェイドはミカエルを見た。


「ありがとう。必ずミカゲを迎えに来る。それから、ミカエル」


 シェイドはかかとを合わせ、背筋を伸ばし、先程までよりも静粛な面持ちでミカエルに告げた。


「妹フロウを連れていく」

「ああ。分かっている」


 ミカエルの胸が、引き絞られるように痛んだ。

 危機の間、痛みを忘れていた脇腹の傷までも、今になってズキズキと痛みを訴え始めた。

 ミカエルはどちらも押し隠して、シェイドに言った。


「フロウを大切にして」

「そうする」

「僕がそうしたかった分も」

「ああ」



 彼がそうしたかった分も。



 シェイドは、言外の思いも含むミカエルの眼差しを、しっかりと受け止めた。

 シェイドは言った。


「ミカエルにも信号を送る。ミカエルは、この国を去る必然性がまるでないかもしれないが。ともに行くかどうか、その時、答えをくれ」

「考えておく」



 それからシェイドは、顔を伏せたままのハシマを見た。

 一拍の後。


 シェイドはフロウを抱き上げたまま、ハシマに向けて深くお辞儀をした。


 そして、しばしその姿勢を保った。




 風が吹いた。

 薄曇りの暗さが支配していた証である黄土色の気配はもうなかった。

 小鳥の鳴き声までミカエルの耳に届いた。

 シェイドの腕からこぼれるフロウの長い髪が揺れた。




 シェイドは顔を上げた。

 淡々とした顔に、静かな瞳があった。


 大袈裟な感情は見せず、シェイドはフロウを抱いたまま、ミカエルとタタに目礼した。

 ミカエルとタタがそれぞれ視線を返すと、シェイドはフロウを腕に、その場から走り去ったのであった。






 タタはシェイドとフロウの姿が見えなくなると、半眼でため息をつき頭をかいた。


「頭がごちゃごちゃする。よく分かんねえから、アニヤさんに考えてもらおう」

「タタは」

「アニヤさん、アネモネさんと合流する。イセが沈んでっから無事だとは思うが。まずは、お互いの元気な顔を確認しないとな。ミカエル、悪いけどミカゲをちょっと見ててくれ」

「うん。分かった。いってらっしゃい」


 タタは、思うより行動、と言わんばかりに駆け出した。


 あっという間に、ミカエルとハシマ、そして意識のないイセとミカゲがその場に残されたのであった。







「ハシマさん」


 無駄とは知りつつ、ミカエルはうつむいて座るハシマに声をかけた。

 返事はなかった。


 ミカエルはハシマの隣に腰掛けた。

 ミカエルのわき腹の傷が、たったそれだけの動きにも痛みを訴えた。

 かろうじて出血が止まっているのは、ハシマの魔術のおかげである。




 つい先ほどまでの異常事態に対する緊張と興奮の嵐が、嘘のように思える凪ぎの時であった。

 割れたコンクリの地面、崩れた外壁、折り重なる倒木。

 目の前の惨状は戦闘の記憶を伝えるが、黄土色の気配とともに、戦いの現実感が異空間に持っていかれてしまったようだとミカエルは感じた。


 ミカエルの隣のハシマは、額を押さえうつむいたまま、まったく動こうとしなかった。

 ミカエルはふと思った。

 ハシマの生命力は回復して見える。実際、見事に動き、魔術も駆使してみせた。

 しかし、ハシマは身体的にも傷を負っていたはずだ。

 血反吐を吐くほどの内臓の傷を、ハシマは修復したのだろうか。



 ミカエルは眉を寄せ尋ねた。


「ハシマさん。自分の傷は治しましたか?」


 答えはなかった。


「後回しにしてはいけません。今ならその余裕もあります。まだしていないなら、早く治してください」


 ミカエルは少し早口になった。

 ハシマからの反応はない。

 そうであることに、ミカエルはジリジリと追いつめられた。


「ハシマさん、これだけは聞いてください。治せる傷はそのままにしてはいけません」


 ミカエルの気持ちが急いた。

 ハシマの背中が、幼い日に見た母リリスの骨ばった背中に重なった。





 死んでしまうのではないか。



 


 失ってしまうという恐怖心が、ミカエルを突き動かした。


「ハシマさん、ねえ、ハシマさん」


 ミカエルは、かつて母にしたように、ハシマの背に手を置いた。








「触れるな!」







 ミカエルの右手は、激しい拒絶によってはじかれた。

 ハシマが猛然と体をよじり、ミカエルの手を左手で叩き返したのだ。


 ミカエルは驚いた。胸がズキンときつく痛み、叩かれた手はジンジンと痛んだ。

 返ってきた反応の激しさに半ば呆然としながら、ミカエルはかたくなに拒絶するハシマの背中を見た。



 それでもミカエルは進んだ。


「ハシマさん。ごめんなさい。でも、自分の傷だけは。ハシマさん」




 ハシマがとうとう顔を上げた。

 ゆっくりと視線が上がり、ハシマとミカエルの目が合った。


 ミカエルはゾッとした。

 ハシマの目には、見たものを呪い殺さんばかりの暗い念があった。





「殺してやろうか」





 視線と同じく物騒な重さをもって、ハシマはミカエルにそう言った。

 ミカエルはハシマの目つきと言葉に背筋が凍るような思いをした。


 しかしながら、ミカエルにとっては今の方がずっと良かった。

 憎しみを向けられても、やり取りできないことよりは可能性を感じられたからだ。


「ハシマさん。ご存じの通り、僕は頑丈ですから」

「僕の破壊性を甘く見ないでほしい」

「僕を壊せますか?」

「地獄を見せましょう」

「そんなことを言って。ハシマさんは自分が壊されたいのではないですか?」

「僕を壊してくれるのですか」

「まさか。早くご自身を治療してください」




 ハシマは素早く動いた。

 そして、ミカエルのわき腹の傷を、その手でつかみ上げたのである。


「ぐあ!」


 ミカエルはたまらず声を上げ、ハシマの手を押さえた。

 ハシマの手は容赦なくミカエルの傷をつかみ上げ、傷口を開いた。痛みに強いことを自認するミカエルだが、さすがに悶絶した。

 ハシマはそのまま、ミカエルの耳元でささやいた。



「分かっているくせに、見ないふりをするんですか? 望むものをくれないお前には、うんざりです」

「…うぐ…ああ…」

「僕を壊せよ。壊して」

「…苦しくて、たまらないのですか?」



 ハシマはミカエルの傷に指を突き立てながら、暗い眼差しを光らせて言った。


「自分が否定されるとは思っていないから、あなたはずけずけと人の心に踏み込む。今も」

「そんな…ウグッ」

「相手を軽んじてるのです。今も、僕を容易く御せると思っている」

「グ…そんなこと…」

「存在を否定される痛みを知りもしないで、高みから憐れみを恵むお前が、この世で最も汚ならしい!」


 ハシマはミカエルの脇腹から手を引いた。

 そして、その血まみれの手を、泥を払うかのように振るった。



 ミカエルは脇腹のキズを手で押さえた。

 血が流れ続けているのが分かった。

 激痛をこらえた。額に脂汗が浮かんだ。

 ハシマの言葉に心も痛んだ。

 それでもミカエルは、必死に言い募った。


「ハシマさん」


 ハシマはミカエルの呼びかけに対し、いら立ちを押さえきれないように両手で頭を抱えた。



「お前ではだめなのです。代わりなど無意味。もう何もない。この世界が僕をいらないと言うのと同義のことが起きたのですから」



 ミカエルは呼吸を荒げながら、首を振った。

 ハシマの言葉に異を唱えたかった。

 わき腹と心と、痛みのすべてがミカエルの思考を乱した。

 言いたいことはあるのにも関わらず、何も言葉にはならなかった。


 ハシマは両手で頭を抱え、うつむいたままつぶやいた。

 


「考えるのも感じるのも嫌だ。嫌だ。何もかも嫌だ」



 ミカエルは苦しい息の下から、声を絞り出した。


「ハシマさん」

「うるさい。うるさい。うるさい!」


 ハシマはバッと立ち上がった。

 そして、腹を押さえうずくまるミカエルを、鬼の形相で見下ろし叫んだ。



「望まれるばかりで失ったことなどないくせに、何が分かる! 切れない絆があるのだろう? お前は何ひとつ失ってはいない!」

「ハシマさん!」

「黙れ黙れ聞きたくない! 満足ですか! 人の傷口をこじ開け、さらしだして、これでご満足いただけましたか!」



 ハシマはミカエルのわき腹の傷を目がけて、蹴りを放った。

 これには、ミカエルの反射神経が応じた。

 ミカエルはハシマの足首をつかみ上げた。


 ハシマはバランスを崩して座り込んだ。

 ミカエルは衝動にかられた。

 衝動のままにハシマを正面から抱き込んだ。


 押さえつけられたハシマは、ミカエルの肩に噛みついた。


「グオオオオオ!」


 ミカエルは咆哮し、あらゆる痛みを引き受けた。

 ハシマは一切、手加減しなかった。

 ハシマはミカエルの血に染まった。


 ミカエルは暴れるハシマを抱き込み続けた。

 ハシマはミカエルの肩を食い千切る勢いで噛み続けた。

 ミカエルはあまりの痛みに、気を失いそうになった。






 先程までとの違いもあった。

 ハシマの目から、涙が流れ始めたのである。


 ミカエルはそれに気づいていた。

 ハシマが泣いている。







 この人はこうして泣くのか。







 ミカエルは朦朧としながら、ただそれだけ思ったのであった。 

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