第1話 彩り、混ざり合い、それから
神様という存在は、意外と暇だ。
特に、原宿の路地裏という、時代の喧騒から忘れ去られたような場所に社を構えているとなおさらである。竹下通りの雑踏が嘘のように、ここには季節の風が吹き抜け、木々の葉がこすれ合う音が響くだけだった。
私は縁側に腰を下ろし、小皿に盛った墨を指先で整えていた。
ただの墨ではない。
人々の溜め息や後悔を煮詰めたような、独特の粘り気を持つものだ。指先でそっと掬い上げると、かすかな残響が耳の奥をかすめる。声にならなかった悲しみや、胸の底に沈められた言葉。そんなものが、春先の冷たい空気に溶けていく。
私の仕事は、この彩白社を訪れる人々の心に、ほんの少しだけ色を足すこと。
灰色に濁った悩みや、行き場を失った喪失感。それらを預かり、調合し、本人がもう一度、自分の足で歩き出せるように手渡す。
……もっとも、神様の仕事としては、ずいぶん地味な役回りだと思う。
「トワっち、またそんな難しそうな顔して。シワが増えるよ?」
頭上から、軽やかな声が降ってきた。
見上げれば、ハクアが縁側の手すりに腰掛け、パステルカラーのワンピースの裾を揺らしている。陽の光を受けた髪がふわりと弾み、その瞳は、いつだってこの社でいちばん明るい色をしていた。
「……難しくなんてないわ。ただ、今日の参拝客は少しだけ色味が頑固そうなの」
「ふーん。なら私が一発、派手に塗り替えちゃおうか?」
「余計なことしないで。人間が自分の足で歩けなくなっちゃうでしょ」
「えー? 私、けっこう繊細なんですけど?」
「どの口が言うのよ」
私はため息をつき、半紙に筆を走らせた。
描いているのは御朱印ではない。ここを訪れた人間が置いていった、心の欠片。その色や形を、忘れないように写し取っているのだ。
筆先にまとわりつく墨が、紙の上でゆっくりと広がった。
そのとき、視界の隅で微かな気配が動いた。
社殿の裏手から戻ってきたレンが、こちらを見ている。
銀色の瞳は、静かな水面のようだった。そこには、何かを欲しがる色も、何かを拒む色もない。喜びも悲しみも、まだ自分のものとして知らないような、不思議な透明さがある。
「……トワ」
「なあに、レン」
「また、空気が少しだけ、重くなってる」
レンが顔を向けた先は、神社の入り口だった。
錆びた鳥居の下に、一人の青年が立っている。
こちらを見ているようで、何も見ていない。肩は落ち、背中はひどく頼りなく丸まっていた。彼の周囲には、重たく冷たい灰色の渦がまとわりついている。乾いた泥が少しずつ広がるように、その色は青年の輪郭を覆い始めていた。
「……あの人、随分と追い詰められているわね」
私は筆を置き、立ち上がった。
青年はしばらく鳥居の前で立ち尽くしていたが、やがて何かに引かれるように、ふらりと境内へ足を踏み入れた。
私に気づくと、はっとしたように顔を上げる。
その瞳の奥には、すべてを諦めてしまったような虚ろさがあった。
「……ここ、は」
「ええ。彩白社へようこそ。何か、お困りですか?」
できるだけ穏やかに微笑みかける。
青年は答えず、唇をわずかに動かした。それから、力が抜けたように肩を落とし、石段に腰を下ろした。
風が吹いた。
境内の隅に積もっていた落ち葉が、かさりと音を立てる。
青年の衣服から、雨に濡れた土を思わせる冷たい匂いがした。
「……もう、何をしても駄目なんだ」
ぽつりと、声が落ちた。
「何をしても、何も感じない。……自分が、何をしたかったのかさえ、もう思い出せないんだ」
青年は膝を抱え、俯いた。
その指先は、ぎゅっと握りしめられている。何かを手放さないようにしているのか、それとも、何も残っていないことを確かめているのか。
私は、すぐには答えられなかった。
彼の灰色は、ただ暗いだけではない。いくつもの色が重なり、混ざり合い、長い時間をかけて濁ってしまった色だった。
そこに何があったのか。何を失ったのか。
色を見ただけで、すべてが分かるわけではない。
そのとき、レンが静かに歩き出した。
足音はほとんど聞こえない。
彼は青年の隣まで行くと、何も言わず、ちょこんと腰を下ろした。
青年が、不思議そうに顔を上げる。
レンは何も尋ねなかった。慰めの言葉を口にすることも、無理に笑いかけることもない。ただ、すぐ隣に座っていた。
しばらくして、青年の肩が小さく震えた。
「……どうして」
掠れた声が、静かな境内に落ちる。
「……あったかいんだね、君」
レンは答えなかった。
ただ、青年の手にそっと触れた。
その指先に、淡い温もりが宿っている。
陽だまりのような、柔らかな温もり。
青年を覆っていた灰色の渦が、ほんのわずかに揺らいだ。
私は息を潜めた。
灰色が消えたわけではない。冷たさも、悲しみも、まだそこにある。
それでも、固く閉ざされていた色の奥に、何かがかすかに動いた気がした。
「……レン」
呼びかけると、レンがこちらを振り向いた。
銀色の瞳が、静かに私を見つめている。
私は小さく頷き、もう一度、青年に向き直った。
今なら、きっと。
「さあ、お話を聞かせてくれる?」
青年は俯いたまま、しばらく黙っていた。
やがて、握りしめていた指が、ゆっくりとほどけていく。
「……僕、絵を描くのが好きだったんだ」
その声は、まだか細い。
けれど、先ほどよりもほんの少しだけ、確かな響きを持っていた。
私は急かさず、続きを待った。
筆も、墨も、今はまだ使わない。
彼の色を知るには、まず、彼の言葉を聞かなければならない。
風が境内を通り抜け、縁側に置いた半紙の端をそっと持ち上げた。
ハクアが珍しく何も言わず、青年の隣に座るレンを見つめている。
私は青年の前に腰を下ろした。
彼がこれまで歩いてきた道も、そこで何を失ったのかも、まだ何ひとつ知らない。
だからこそ、聞こうと思った。
この社を訪れた人が、自分の色をもう一度見つけられるように。
私たちは今日も、誰かの物語を預かる。
その物語がどんな色をしているのか、知るところから始めるのだ。




