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禁書図書館の七鍵守り 〜世界が壊れるたび、僕は一冊を「読んで」直す〜  作者: 文倉 栞


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第8話:たった一つ、通じる声

 女は、シビラと名乗った。


 いや、正確には、名乗ってなどいない。広場の中央、簡素な演壇の上で語る彼女の声を、僕の隣でヨミが、じっと聞いていた。そして、そのなめらかな響きの底に沈んだ、たった一つの名前を、拾い上げたのだ。


「セン。あの人の声の、いちばん下」ヨミが、目を閉じたまま、指を一本立てた。「そこに、名前が沈んでます。……読めました。シビラ、です」


 壊れた言葉の街で、彼女だけが、意味を持って喋れる。まわりの人々の口から漏れるのは、砕けた音の破片ばかり。挨拶も、悲鳴も、名前を呼ぶ声さえ、意味へたどり着く前にほどけて散る。そんな街で、彼女の言葉だけが、まっすぐに立っていた。理由は、一つしかない。言語庫の力を、その白い手に握っているからだ。


「よく聞きなさい、アレクサの人々よ」


 シビラの声は、蜜のようだった。通じないはずの言葉が、その声に乗った途端、水がしみこむように、すんなりと人の胸へ落ちていく。


「言葉が通じなくなったのは、誰かのせい。あなたの隣にいる、その者のせいよ。ほら、あの男を見て。あなたに嘘をついてきたでしょう? あの女を見て。あなたを裏切ってきたでしょう?」


 根拠なんて、どこにもなかった。


 でも、通じる声で、繰り返し繰り返し囁かれると、人はそれを信じてしまう。ほかに、通じる言葉が、一つもないから。すがれる意味が、その声しかないから。


 広場の人々が、互いを、敵の目で見はじめた。さっきまで同じ市場で肩を並べていたはずの者同士が、じりじりと距離を取る。掴みかかる者が出た。足元の石を、無言で拾う者が出た。言葉を失ったばかりの街が、たった一つの声に炙られて、みるみる憎しみの坩堝へ変わっていく。


「ひどい」ヨミが、唇を噛んだ。淡い頬から、血の気が引いていた。「言葉を壊して、たった一つだけ残した『通じる声』で、人を操ってる。……これが、シビラのやり方」


「止める」僕は、本を開いた。表紙の冷たさが、指の腹に伝わる。「あの声を、上書きする。原初書で、本当の言葉を、みんなに届ける」


「セン、待って。今それを読んだら――」


 でも、僕は、もう読みはじめていた。


 原初書の、言葉の章。すべての言葉が生える、いちばん深い根っこ。頁の上で、その一節が、うっすらと熱を帯びて浮かび上がる。読み手にしか見えない、金の下線。それをなぞって声にした瞬間、頭の奥から、ごっそりと、何かが引き抜かれた。


 一つじゃない。二つ。三つ。大事だったかもしれない記憶が、根ごと束になって、暗がりへ落ちて、消えていく。誰かの横顔。どこかの匂い。取り返そうと手を伸ばした時には、もう、伸ばした理由すら分からなくなっていた。


 それでも、僕の声は、広場に届いた。


《 言葉とは、隔てるものではなく、渡すための橋である 》


 その一行が、蜜のように甘いシビラの声を、静かに押しのけた。


 石を拾いかけていた男が、手を止めた。掴みかかろうとしていた女が、はっと我に返る。ほんの一瞬。人々の目に、憎しみではない色が、戻った。


「――へえ」


 シビラが、こちらを見た。赤い唇の端が、面白いものでも見つけたように、ゆっくり吊り上がる。


「原初書の根っこを、その齢で読むの? しかも、街全体に届かせた。……ガランの弟子ってのは、本当だったのね」


 演壇を降り、彼女はこちらへ歩いてきた。長い裾が、石畳を撫でる。群衆が、まるで彼女のためだけに、水が割れるように、左右へ道を空けていく。誰も彼女を止めない。止められる言葉を、もう誰も持っていないからだ。


「でも、坊や。あなた、気づいてる?」シビラが、僕の顔を、下から覗き込んだ。甘い匂いがした。「今の一行で、あなた、何を忘れた? ――思い出せないでしょう。忘れたことすら、忘れてる。それが、根っこを読む代償よ」


 僕は、答えられなかった。


 本当に、何を忘れたのか、思い出せなかった。手のひらの上に、たった今まで大切な何かが載っていた。その重みの記憶だけがあって、中身は空っぽ。ぽっかりと胸に穴が空いた、その感触だけが、代償を払った証拠のように残っていた。


「あなたの力は、諸刃の剣」シビラが、耳元へ落とすように囁いた。「読めば読むほど、あなたは、あなたを失う。……ねえ、いつまで保つのかしら。七つの庫を、全部読み切る前に、あなたは、自分が誰かも、忘れてしまうんじゃない?」


 ぞっとする、指摘だった。図星を、いちばん痛いところへ、そっと差し込まれた感じがした。


 でも、それ以上に、まずいことがあった。


「セン!」


 ヨミの声。振り向くと、彼女の体が、さっきより、ずっと薄くなっていた。夕暮れの光が、輪郭の内側を通り抜けていく。向こうの雑踏が、その細い肩越しに、うっすらと透けて見えた。僕がさっき原初書を読むのに夢中で、彼女の名を呼び続けるのを、忘れていたのだ。名前のない彼女を、この世界へ繋ぎとめる、たった一本の綱を。


「あら」シビラの目が、ヨミを捉えた。すっと細くなる。「なあに、その子。……名前が、ない? 呼び名すら、消えかけてる。ふぅん。おかしな子。まるで、本の――」


「ヨミには、触るな」


 僕は、ヨミの前に、体を割り込ませた。


 シビラは、しばらく僕を、それからヨミを、品定めするようにゆっくりと見た。その目に、一瞬だけ、獲物を見つけたような光がよぎる。名前のない少女。それが何を意味するのか、彼女はもう、半分ほど気づいているようだった。それから、赤い唇だけで、静かに笑った。


「今日は、ここまでにしましょう。あなたの力の底は、だいたい見えたわ」身を翻す。「言っておくけど、坊や。この街の言葉は、もう戻らない。庫の鍵は、わたしがずっと握ってるもの。あなたが読んで押し返せるのは、一度に、ほんの一行。そのたびに、あなたは、あなたを失う。――さあ、どっちが先に、尽きるかしらね」


 女の姿が、崩れた言葉の街の雑踏へ、溶けるように消えた。追う気力も、追ったところで届く言葉も、僕にはなかった。甘い匂いだけが、その場に、しばらく残っていた。


 あとには、まだ通じ合えない人々と、薄くなったヨミと、記憶をいくつか失った僕が、取り残された。


「ヨミ、ごめん」僕は、彼女の名を、必死に呼んだ。「ヨミ。ヨミ。……戻ってくれ」


「……ちゃんと、います」ヨミが、かすかに微笑んだ。僕が名を呼ぶたび、薄れていた色が、少しずつ、輪郭のほうへ戻ってくる。まるで、声そのものが、彼女の体を編み直しているみたいに。「でも、セン。シビラの言うこと、一つだけ、当たってます」


 ヨミは、まっすぐに僕を見た。天然な普段の顔ではなく、頁の底を読む、あの静かな目で。


「このやり方じゃ、あなたが先に、尽きる」


 一行読むごとに、記憶を失う。こちらの弾には限りがあって、撃つたびに自分が削れる。相手は、鍵を握って、無限に、いくらでも言葉を壊せる。


 同じ盤の上で、真正面から読み合っては、勝てない。数を競えば、先に尽きるのは僕のほうだ。


 だとしたら、勝ち方を変えるしかない。


 別の、読み方がいる。


 お読みいただきありがとうございます。


 言語庫の実行犯シビラ。壊した言葉の中で、たった一つ「通じる声」を握り、人を操る策士です。真っ向から読み合えば、センのほうが先に「自分」を失ってしまう。


 次回、第9話「意味の、かたち」。真正面から勝てない相手に、センとヨミが見つける、別の読み方とは。


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